二・三、樊城の危機と幻の涼州刺史
2.
建安二十四年,孫权攻合肥,是時諸州皆屯戍。恢謂兗州刺史裴潜曰:「此間雖有贼,不足憂,而畏征南方有變。今水生而子孝縣軍,無有远備。關羽骁锐,乘利而進,必將爲患。」於是有樊城之事。詔書召潜及豫州刺史呂贡等,潜等缓之。恢密语潜曰:「此必襄陽之急欲赴之也。所以不爲急會者,不欲惊動远眾。一二日必有密書促卿進道,張辽等又將被召。辽等素知王意,後召前至,卿受其责矣!」潜受其言,置辎重,更爲轻装速发,果被促令。辽等寻各見召,如恢所策。
(訳)
建安二十四年(219)に
孫権が合肥を攻めたが、
この時諸州は全て屯戍していた。
温恢は兗州刺史の裴潜に言った。
「この間(辺)に賊が有るとはいえ
憂えるには足りぬ。
恐ろしいのは、征南(の軍勢)に
まさしく変事が起こることだ。
今、水が発生しているのに
子孝(曹仁)は敵地深くまで遠征し
遠くへの備えが無い。
関羽は勇猛にして鋭敏で
利に乗じて進軍してくれば
必ずや憂患となろう」
こうして樊城の戦事が起きてしまった。
詔書によって裴潜及び
豫州刺史の呂貢らが召され、
裴潜らは(命令に従い)緩行した。
温恢は密かに裴潜に語った。
「これは間違いなく襄陽が危急で
かの地に赴けという事だろう。
急いで合流させぬのは、
遠方の衆人を驚動させまいとしてだ。
一日か二日のうちに、
必ず卿に早く来るよう
催促する密書が有るだろう。
張遼達もまた招集を受けており、
彼等は素より王の意向を知っている。
後から召された者が先に至れば
卿はその咎めを受ける事になるぞ!」
裴潜はその言葉を受けると
輜重を置き、改めて
軽装を為して進発したが、
果たせるかな督促の命令を被った。
張遼らも次いで各々召されたが、
温恢の策の通りであった。
(註釈)
樊城の戦いですね。
水陸両戦に通暁している関羽に
曹操が遷都を考えるレベルに
追い詰められる流れです。
孫権が219年に
合肥を攻めたというのは初耳です。
3.
文帝践阼,以恢爲侍中,出爲魏郡太守。數年,遷凉州刺史,持节领护羌校尉。道病卒,時年四十五。詔曰:「恢有柱石之質,服事先帝,功勤明著。及爲朕執事,忠於王室,故授之以萬里之任,任之以一方之事。如何不遂,吾甚愍之!」赐恢子生爵關内侯。生早卒,爵絕。
(訳)
文帝が践祚すると
温恢は侍中に任命され、
転出して魏郡太守となった。
数年後、涼州刺史・持節領護羌校尉に遷った。
赴任先へ向かう途中に病没してしまい、
この時、四十五歳であった。
詔に言う、
「温恢には柱石の資質があり、
先帝に帰服して事え、
功労は明らかである。
朕の為に仕事を執り行い
王室に忠勤していたために
万里の任務を授け、
一地方の事業を委任したのであるが、
遂げられぬ(途上で亡くなる)とは
如何した事か。
吾は甚だ彼を憐れむ!」
温恢の子の温生に
関内侯の爵位が下賜された。
温生は夭折し、爵位は断絶した。
(註釈)
曹丕の代に45歳で亡くなったということは
温恢の生年は176〜182年に絞れました。
孫策や孫権、馬超、法正、諸葛亮あたりと
同世代と考えると、思ってたより若いです。
となると、曹操が丞相になった頃は
まだ20代だったのか。
20〜30代で州刺史は何気にすごい。
これにて温恢伝を終わります。
・温恢評価
戦闘 ★★★★★ 5
戦略 ★★★★★★★ 7
内政 ★★★★★★ 6
人格 ★★★★★★ 6
裴潜へのアドバイスが的確だったので
戦略は甘めに付けちゃいました。
続いて、付記されている
諸葛亮の友人の孟建伝。
超短い。




