一、漢末の郇越
続いて太原の温恢伝。
1.
溫恢字曼基,太原祁人也。父恕,爲涿郡太守,卒。恢年十五,送丧還歸鄉里,内足於財。恢曰:「世方亂,安以富爲?」一朝尽散,振施宗族。州里高之,比之郇越。舉孝廉,爲廪丘長,鄢陵、廣川令,彭城、鲁相,所在見稱。入爲丞相主簿,出爲扬州刺史。太祖曰:「甚欲使卿在親近,顾以爲不如此州事大。故書云:‘股肱良哉!庶事康哉!’得無當得蒋济爲治中邪?」時济見爲丹杨太守,乃遣济還州。又语張辽、乐進等曰:「扬州刺史晓達軍事,動静與共咨議。」
(訳)
温恢は字を曼基、太原郡祁県の人である。
父の温恕は涿郡太守となったが、卒した。
温恢は十五歳のときに
父の棺を送って郷里へ帰還した。
懐の財は満ち足りていたが、
温恢はこのように言った。
「世がまさに乱れているのに
富にて何を為せようか!」
一朝にして(財産の)尽くをばらまき
宗族に施してしまった。
州里はこれを高く評価し、
温恢を※郇越に比した。
(※前漢末期の逸士。
家財を故郷の親族にばらまいたとされる)
孝廉に推挙され、廪丘の長、
鄢陵・広川の令、彭城・魯の相となり
所在にて称賛された。
入朝して丞相主簿となり、
転出して揚州刺史となった。
太祖(曹操)は言った。
「卿を甚だ親近に置こうとは思うのだが、
顧みるに、この州における
事業の重大さほどではない。
故書は云っておる、
『股肱は良き哉、諸事の康き哉』と。
蒋済を治中に出来ずにおれようか」
当時は蒋済が丹楊太守に任じられており
そこで、蒋済を豫州へ帰還させた。
一方で張遼や楽進に言うよう、
「揚州刺史(温恢)は軍事に暁達しており
動静についてともに咨議せよ」
(註釈)
温恢。
「乱世にゼニ持ってても仕方ないぜ」
と言って家財を宗族に施したことで
名を知られるようになった男。
乱世に突入するや既存の価値観を捨て
金をばら撒いて人望を買う動きは
魯粛のそれと似ている。
魏書15の冒頭に登場した
揚州刺史の劉馥が208年に亡くなり
その後任に当たります。
すなわち、赤壁が終わった後で
対孫権に当たることになった。
非常に難しい任務です。
曹操は、温恢をそばに置きたいが
多難の揚州へ配置する方が適役と判断。
代わりに蒋済を丹楊から呼び寄せる。
関羽が死ぬとき(219)と
曹爽が死ぬとき(249)にも
蒋済が出てきましたが、下手すりゃ
40年くらい現役じゃないのかこの人。
父は涿郡太守。
涿郡といえば劉備と張飛のホームだ。
でも年代的にその頃は
まだ生まれてないか子どもかな。




