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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第十五、張旣伝
352/603

八・註六、諸葛恪に勝る智慧

張旣の息子である

張緝ちょうしゅうの列伝がくっついてます。

8.

緝以中書郎稍遷東莞太守。嘉平中,女為皇后,徵拜光祿大夫,位特進,封妻向為安城鄉君。緝與中書令李豐同謀,誅。語在夏侯玄傳。


(訳)

張緝ちょうしゅうは中書郎から

次第に東莞とうかん太守へと遷った。


嘉平かへい年間(249〜254)に

娘が皇后となり、

徴されて光禄大夫に拝され

位は特進に、妻のしょう

安城あんじょう郷君となった。


張緝は中書令ちゅうしょれい李豊りほうと共謀したため

誅殺されてしまった。

この事は「夏侯玄かこうげん伝」にて語られている。


(註釈)

おっ、張旣の孫は魏の皇后になってたんですね。

時期的に曹芳そうほうの妃かな。


曹操・曹丕・曹叡の妃しか

列伝が作られていないので、

曹芳以下の奥さんがどーゆー人か

いまいち情報が得られないのです。


李豊、張緝、そして夏侯玄は

司馬氏を排斥するための

陰謀に参画していたという理由で

消されてしまいました。


この事から夏侯覇かこうはが蜀へ亡命し、

夏侯氏を嫁に貰っていた羊祜ようこ

親戚から総スカンをくらったとされます。


註6.

魏略曰:緝字敬仲,太和中為溫令,名有治能。會諸葛亮出,緝上便宜,詔以問中書令孫資,資以為有籌略,遂召拜騎都尉,遣參征蜀軍。軍罷,入為尚書郎,以稱職為明帝所識。帝以為緝之材能,多所堪任,試呼相工相之。相者云:「不過二千石。」帝曰:「何材如是而位止二千石乎?」及在東莞,領兵數千人。緝性吝於財而矜於勢,一旦以女徵去郡,還坐里舍,悒悒躁擾。數為國家陳擊吳、蜀形勢,又嘗對司馬大將軍料諸葛恪雖得勝於邊土,見誅不乆。大將軍問其故,緝云:「威震其主,功蓋一國,欲不死可得乎?」及恪從合肥還,吳果殺之。大將軍聞恪死,謂衆人曰:「諸葛恪多輩耳!近張敬仲縣論恪,以為必見殺,今果然如此。敬仲之智為勝恪也。」緝與李豐通家,又居相側近。豐時取急出,子藐往見之,有所咨道。豐被收,事與緝連,遂收送廷尉,賜死獄中,其諸子皆並誅。緝孫殷,晉永興中為梁州刺史,見晉書。

(訳)

魏略にいう、

張緝は字を敬仲、

太和たいわ年間(227〜233)に

温県の令となり、

(任地を)よく治めた事で名があった。


そんな折に諸葛亮が出撃してくると

張緝は便宜を上申し、

詔によって中書令の孫礼に

(張緝の進言の是非が)問われた。

籌略ちゅうりゃくの資質が有るものとされて

遂に召辟されて騎都尉きといに拝され

蜀軍征伐に参戦させられた。


軍役が終わると、入朝して尚書郎しょうしょろうとなり

職務を称えられて明帝の識る所となった。


帝が張緝の才能を用いれば

多くの任務に堪えられると考え、

試しに相工(人相見に長けた者)を呼んで

彼の事を観相させたところ、

相者は「二千石は過ぎませんね」と述べた。


帝は言った。

「どうしてこれほどの才能が

二千石の位に止まってしまうのだ?」


東莞に在任していた際は

数千人の兵を統領した。


張緝の人となりは

財に関しては吝嗇りんしょくで、権勢をほこった。


一旦娘が徴されると

郡(郡太守の地位)を去り、

帰還して里舍に坐して

悒悒ゆうゆうとして躁擾そうじょうしていた。

(イライラして騒いでいた)


何度か国家の為に

呉・蜀を撃つ形勢について陳べ、

一方で、嘗て司馬大将軍(司馬師)に対し

諸葛恪しょかつかくは、辺境の地で勝ち得たとしても

近いうちに誅殺されるだろう、

と料った事があった。


大将軍がそのわけを問うと、張緝は言った。


「(諸葛恪の)威風は

その主君(孫亮)を震撼させ、

功績は一国をおおっており、

望んだとて死を免れ得ましょうか?」


諸葛恪が合肥ごうひから帰還するに及び

呉(孫峻)は果たせるかな彼を殺害した。


大将軍は諸葛恪の死を聞くと

衆人に対して謂った。


「諸葛恪は※多輩に過ぎなかったな。

(※掃いて捨てるほどいるつまらんヤツ)


近頃、張敬仲が懸け離れた地から

諸葛恪について論じ、必ずや

殺されるだろうと見なしていたが

今、果たしてその言葉の通りとなった。


敬仲の智慧は

諸葛恪に勝っているという事だ」


張緝と李豊りほうは通家で

また、居家も互いにすぐそばにあった。


李豊が取り急ぎ出掛けた時には

子の張藐ちょうばくがこれに赴きて見え、

道を咨る所があった。


李豊が捕えられると、事は張緝にも連なり、

遂には彼も捕われて廷尉のもとへ送られ

獄中で死を賜り、その諸子も皆ともに誅殺された。


張緝の孫の張殷は

晋の永興年間に梁州刺史となり、

晋書に(記事が)見られる。


(注釈)

魏略は、三国志に

伝を立てられてない人の情報

いっぱい教えてくれるから有難い。


魏の太和年間に

諸葛亮の北伐は4回くらいありますが、

どの北伐だろう。


諸葛恪は252〜253年ごろ、

孫権が崩御した直後に

三路から侵攻してきた魏軍を撃退。

幼帝孫亮を補佐する立場にありながら

権勢を欲しいままにしていました。


魏をコテンパンにした事で

調子に乗ってしまった諸葛恪は

20万の大軍を動員して

合肥新城を攻めますが、

大被害を出して撤退。

最後は皇族の孫峻そんしゅんに謀殺されてしまいました。


司馬師しばしは諸葛恪の死を予見した

張緝の知恵を褒めていますが

その優れた智慧を持った男が

司馬氏を消さなきゃいけないと

判断してるわけです。


・張緝評価

戦闘 ★★★★★ 5

戦略 ★★★★★★ 6

内政 ★★★★★★ 6

人格 ★★★★ 4


吝嗇家で偉そうにしている所があるそうで

人格はマイナス1点にしておきました。

これにて張旣伝を終わります。

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