註二、游殷と游楚、あと胡軫
註2.
三輔決錄注曰:旣為兒童,為郡功曹游殷察異之,引旣過家,旣敬諾。殷先歸,勑家具設賔饌。及旣至,殷妻笑曰:「君其悖乎!張德容童昏小兒,何異客哉!」殷曰:「卿勿怪,乃方伯之器也。」殷遂與旣論霸王之略。饗訖,以子楚託之;旣謙不受,殷固託之,旣以殷邦之宿望,難違其旨,乃許之。殷先與司隷校尉胡軫有隙,軫誣搆殺殷。殷死月餘,軫得疾患,自說但言「伏罪,伏罪,游功曹將鬼來」。於是遂死。于時關中稱曰:「生有知人之明,死有貴神之靈。」子楚字仲允,為蒲阪令。太祖定關中時,漢興郡缺,太祖以問旣,旣稱楚才兼文武,遂以為漢興太守。後轉隴西。
魏略曰:楚為人慷慨,歷位宰守,所在以恩德為治,不好刑殺。太和中,諸葛亮出隴右,吏民騷動。天水、南安太守各棄郡東下,楚獨據隴西,召會吏民,謂之曰:「太守無恩德。今蜀兵至,諸郡吏民皆已應之,此亦諸卿富貴之秋也。太守本為國家守郡,義在必死,卿諸人便可取太守頭持往。」吏民皆涕淚,言「死生當與明府同,無有二心」。楚復言:「卿曹若不願,我為卿畫一計。今東二郡已去,必將寇來,但可共堅守。若國家救到,寇必去,是為一郡守義,人人獲爵寵也。若官救不到,蜀攻日急,爾乃取太守以降,未為晚也。」吏民遂城守。而南安果將蜀兵,就攻隴西。楚聞賊到,乃遣長史馬顒出門設陣,而自於城上曉謂蜀帥,言:「卿能斷隴,使東兵不上,一月之中,則隴西吏人不攻自服;卿若不能,虛自疲弊耳。」使顒鳴鼓擊之,蜀人乃去。後十餘日,諸軍上隴,諸葛亮破走。南安、天水皆坐應亮破滅,兩郡守各獲重刑,而楚以功封列侯,長史掾屬皆賜拜。帝嘉其治,詔特聽朝,引上殿。楚為人短小而大聲,自為吏,初不朝覲,被詔登階,不知儀式。帝令侍中贊引,呼「隴西太守前」,楚當言「唯」,而大應稱「諾」。帝顧之而笑,遂勞勉之。罷會,自表乞留宿衞,拜駙馬都尉。楚不學問,而性好遊遨音樂。乃畜歌者,琵琶、箏、簫,每行來將以自隨。所在樗蒲、投壺,歡欣自娛。數歲,復出為北地太守,年七十餘卒。
(訳)
三輔決錄注にいう、
張旣が児童だった頃、
郡の功曹の游殷が彼の非凡さを察知し、
招引して家に連れてこようとすると
張旣は謹んで承諾した。
游殷は先に帰ると
家人に勅言して(戒めて)
賓客用の饌を設えた。
張旣が至るに及んで
游殷の妻は笑って言った。
「君は、惑乱してしまったのですか!
張徳容ちゃんはまだものを知らない
小児ではありませんか。
どこが異な客だというのです?」
游殷は言った。
「卿よ、怪しむな。
この子は、方伯(地方随一)の器なのだ」
游殷はかくて、張旣とともに
覇王の雄略について論じた。
饗宴が終わると
子の游楚を彼に託そうとした。
張旣は謙って受けなかったが、
游殷は固くこれを託そうとしてきた。
張旣は、游殷には邦国にて
兼ねてよりの人望があり
その意旨を違え難いと感じたため、
そこでこの申し出を許諾した。
以前から
游殷と司隷校尉の胡軫との間には
釁隙(不和)が生じており、
胡軫は誣告して游殷を殺してしまった。
游殷の死から一ヶ月余りで
胡軫は疾患に罹り、
自ら説いてただこう言っていた。
「伏罪、伏罪(私が悪かった、罪を償うから)!
游功曹が、鬼(亡霊)になってやって来た!」
こうしてとうとう死んでしまった。
この時、関中(の人々)は
(游殷を)称揚して言った。
「生きている時は人物を知る明察があり
死しては気高き精神の霊魂がある」
子の游楚は字を仲允といい、
蒲阪の令となった。
太祖が関中を平定した時
漢興郡(の長官)が缺乏しており、
そこで張旣に諮問したところ、
張旣は游楚の才は
文武を兼ねていると称えたので
かくて漢興太守となった。
後に隴西に転出した。
魏略にいう、
游楚の人となりは慷慨、
宰守の位を歴任しており、
所在では恩徳を以って治政を為して
刑罰による誅殺を好まなかった。
太和年間(227〜233)に
諸葛亮が隴右へ出撃してくると
吏人や民衆は騒ぎ立て、動揺した。
天水郡、南安郡の太守は
それぞれ郡を放棄して東へ下ってしまい、
游楚はただひとり隴西に據って
召し寄せた吏民を会同させると、
対してこのように謂った。
「太守には恩徳なく、
今、蜀の兵が至りて
諸郡の吏民は皆已に
蜀側に応じてしまったが、
これは一方で諸卿の富貴の秋なのだ。
太守はもとより国家の為に郡を守衛しており
道義からいって必ずや死を賭さねばならぬ。
卿たち諸人はただちに太守を取り、
その頭首を持参して(諸葛亮のもとへ)
往かれるがよかろう」
吏民は皆涙を流して言った。
「生きるも死ぬも、明府とともにすべし!
二心は抱きませぬ!」
游楚は復た言った。
「卿曹がもし(降伏を)願わぬなら
我は卿の為に一計を書こう。
今、東の二郡の太守が已に去ったからには
必ずや賊を率いてやって来よう、
ただ、ともに堅守するべきだ。
もし、国家の救援が到らば
賊は必ずや去っていく筈、
これは、一郡が義を守ったという事で
人々は爵位や恩寵を獲得できよう。
もし官の救援が到らねば
蜀の攻撃は日に日に激しくなるだろう。
爾らはそこで太守を取りて
降伏しても遅くはないぞ」
吏民はかくて城を守り、
南安は果たせるかな蜀の兵を率いて
隴西の攻撃に就いた。
游楚は賊が到ったと聞くと、そこで
長史の馬顒を門から出して陣を設え
自らは城の上から蜀の将帥を暁して言った。
「卿らに隴右を断ちて
東の兵を上らせぬ事が出来たなら、
一ヶ月中に則ち隴西の吏人は
攻められずとも自ら帰服するであろう。
卿らにもしそれが出来ねば、
虚しくも自ら疲弊するだけであるぞ」
馬顒に太鼓を打ち鳴らさせて
これを撃たせたところ、
蜀の人々はかくて去っていった。
その十余日あとに
諸軍が隴から上ってきたので
諸葛亮は破られ、逃走した。
南安と天水はいずれも
坐して諸葛亮の破滅に応じ、
両郡の太守は各々重刑に処されたが、
游楚は功績を以て列侯に封じられ、
長史・掾属も皆、恩賞や官位を賜った。
帝(曹叡)はその治政を嘉して
詔勅を下して特別に朝見を許し、
招引されて昇殿した。
游楚の人となりは
(体格は)短小であったが声が大きく、
官吏となって以来、
一度も来朝した事がなかった。
詔を被りて階を登ったが
儀式については知らず、
帝は侍中に游楚を助けて
導いてやるように命じた。
「隴西太守は進み出よ」
と呼ばれて、游楚は
「唯」と言うべきところを
大声で応えて「諾!」と称えてしまった。
帝は游楚を顧みて笑い、
かくて彼を慰労、勉励した。
会が終わると、自ら上表し、
宿衛として留まることを乞い
駙馬都尉に拝された。
游楚は学問を修めてはいなかったが、
遨遊と音楽を好む性質であった。
すなわち、歌者を養っており、
琵琶、箏、簫を(持たせて)
行き来するたびに自らに隨わせていた。
所在で樗蒲(双六のような遊び)や
投壺(ダーツのような遊び)に
欣喜しながら興じていた。
数年して再び転出、北地太守となり
年七十余で卒した。
(註釈)
あれ、ここで胡軫が出てくるの。
三国志集解では、孫堅伝にちらっと出てきた、
あの人と同一人物であるとしています。
同一人物であるとすると、胡軫の評価は
董卓の指揮下で韓遂らを破った、戦闘+1
呂布の嘘に2回騙されて勝てた戦を落とす、戦略ー2
せっかちで部下の人望がない、人格ー1
仲悪い游殷の罪をでっち上げて殺害、戦略+1・人格ー2
〜胡軫評価〜
戦闘 ★★★★★★ 6
戦略 ★★★★ 4
内政 ★★★★★ 5
人格 ★★ 2
游殷パパが張旣を見出し、
張旣がその子の游楚を推挙する好循環。
游楚は諸葛亮の北伐の時に活躍します。
魏略の話は、
天水と南安が諸葛亮に降ってるので
最初の北伐ですかね。
この時の天水太守はたぶん馬遵、
さっさとトンズラしてしまって
重罰に処されましたが、
游楚は踏ん張ったようです。
この功績で宮中に
参内することになりましたが
しきたりについてよくわかっておらず
応対をミスっている所が可愛いです。
曹叡が「顧みて笑った」の
揶揄してるわけじゃなくて
面白いなコイツ、的な笑いだと思います。
・游楚評価
戦闘 ★★★★★ 5
戦略 ★★★★★★ 6
内政 ★★★★★★ 6
人格 ★★★★★★★ 7




