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淡々三国志  作者: ンバ
蜀書第十三、黄権伝
340/603

三、黄公衡、快士也

3.

後領益州刺史,徙佔河南。大將軍司馬宣王深器之,問權曰:「蜀中有卿輩幾人?」權笑而答曰:「不圖明公見顧之重也!」宣王與諸葛亮書曰:「黃公衡,快士也,每坐起歎述足下,不去口實。」景初三年,蜀延熙二年,權遷車騎將軍、儀同三司。明年卒,謚曰景侯。子邕嗣、邕無子,絕。權留蜀子祟,為尚書郎,隨衛將軍諸葛瞻拒鄧艾。到涪縣,瞻盤桓未近,祟屢勸瞻宜速行據險,無令敵得入平地。瞻猶與未納,祟至於流涕。會艾長驅而前,瞻卻戰綿竹,祟帥厲軍士,期於必死,臨陣見殺。


(訳)

その後、黄権は益州刺史を兼領し、

移りて河南かなんを占めた。


大将軍の司馬宣王(司馬懿)は

その器量を高く評価し、

黄権に質問して言った。


「蜀中にはきみの如き(優れた)輩が

幾人おるのですかな?」


黄権は笑って答えた。


「明公から顧みられることが

ここまで重いとは計り知れませんでした」


宣王は諸葛亮に書状を与えて述べた。


黄公衡こうこうこう(黄権)は快士ですなぁ。

起坐のたびに足下の事を称述し、

※口実を去る事がございません」


(※黄権と喋るといつも諸葛亮の話題になるよ)


魏の景初けいしょ三年、蜀の延煕えんき二年(239)に

黄権は車騎しゃき将軍、儀同三司ぎどうさんしに遷った。

明年に卒し、けい侯と諡された。


子の黄邕こうようが嗣いだが

黄邕には子がなく、断絶した。


黄権が蜀に留めていた息子の黄崇こうすう

尚書郎となり、えい将軍の

諸葛瞻しょかつせん(諸葛亮の息子)に隨って

鄧艾とうがいふせいだ。


県まで至ると

諸葛瞻は盤桓ばんかん(とどまり)し、

近づこうとしなかった。


黄崇は、諸葛瞻に速やかに行軍して

険峻の地に據り、敵を平地に

侵入させぬように何度も勧めた。

諸葛瞻はなお(進言を)納れず、

黄崇は流涕するに至った。


ちょうど鄧艾が長駆して前進してきたので

諸葛瞻は綿竹めんちくまで退きながら戦い、

黄崇は軍士を統率・激励して

絶対の死を期しながら

戦陣に臨んで殺された。


(注釈)

司馬懿「蜀に君レベルの人材は何人いるの?」


黄権「天下の大将軍にそこまで評価してもらえるとは」


質問に答えてねぇ!!!!


司馬懿のことだから、

よもやま話じゃなくて

蜀の内情を元蜀臣から探ろうとしたのかな。


それを察した黄権も

笑って茶を濁した感じで。


実際、黄権レベルの人材って

当時の蜀には2〜3人じゃないかな。


その後の司馬懿の手紙は、


「黄公衡どのはいつも

諸葛丞相の話しかしてくれない。

こっちの意図を悟った上で

蜀の情報を全然教えてくれないから

大した男ですなぁ」


という意味だったりして?


嗣子の黄邕こうようは、

魏に移ってからできた子供なのかな?

それとも、西陵の戦いのときに

従軍してて、父といっしょに

魏に降伏した子供なのかな?


蜀に残された息子の方の黄崇は、

ゲームの三國志Ⅸだと

口ひげがシブくて

すごく好みのビジュアルでした。



その後、劉備の子孫は永嘉の乱で死んだ。

唯一生き残っていたのは曽孫の劉玄りゅうげんで、

東晋の桓温かんおんが347年に蜀を攻め取った際に

孫盛が直接彼に会ったとされています。

(蜀書、二主妃子伝が引く「孫盛蜀世譜」)

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