註三後、弘農の劉類、最も邪悪
註3-2.
又有高陽刘类,歷位宰守,苛慝尤其,以善修人事,不废於世。嘉平中,爲弘农太守。吏二百餘人,不與休假,专使爲不急。过無轻重,辄捽其头,又亂杖挝之,牵出復入,如是數四。乃使人掘地求钱,所在市里,皆有孔穴。又外讬简省,每出行,陽敕督邮不得使官屬曲修礼敬,而阴识不来者,辄发怒中伤之。性又少信,每遣大吏出,辄使小吏随覆察之,白日常自於墙壁間闚闪,夜使幹廉察諸曹,復以幹不足信,又遣铃下及奴婢使轉相检验。尝案行,宿止民家。民家二狗逐猪,猪惊走,头插栅間,号呼良久。类以爲外之吏擅共饮食,不復徵察,便使伍百曳五官掾孫弼入,顿头责之。弼以實對,类自愧不详,因讬問以他事。民尹昌,年垂百歲,聞类出行,當經过,謂其兒曰:「扶我迎府君,我欲陳恩。」兒扶昌在道左,类望見,呵其兒曰:「用是死人,使来見我。」其视人無礼,皆此类也。舊俗,民谤官長者有三不肯,謂遷、免與死也。类在弘农,吏民患之,乃题其門曰:「刘府君有三不肯。」类雖聞之,猶不能自改。其後安東將軍司馬文王西征,路經弘农,弘农人告类荒耄不任宰郡,乃召入爲五官中郎將。
(訳)
また、高陽の劉類という者がおり
宰守の位を歴任していた。
暴虐・邪悪さは最たるものであったが
人事を善く修めていたので
世間から廃されなかった。
(劉類は)
嘉平年間(249〜254)に
弘農太守となった。
官吏二百人余りに休暇を与えず、
専ら急ぎでない仕事に従事させた。
過ち(処罰)に軽重なく
その度に(罪人の)頭をむんずと掴んで
また杖でみだりに打ち据え、
牽き出して復た入れ、
かくの如くにする事が再三再四に及んだ。
また、人に地面を掘らせて銭を求め、
所在の市里にはどこにでも孔穴があった。
また、外面上は※簡省に託けていたが
(無駄を省く、簡素にする)
出行するたびに、官属を曲げてまで
礼節と敬意を修めずともよい、と
督郵に偽って勅言していた。
(無理して挨拶に来なくていいと言っておきながら)
密かに来なかった者を識別して
その都度怒りを発して中傷した。
性格もまた信じる事少なく(猜疑心が強い)、
大吏を出向かせるたびに
小吏を随わせてこれを覆察(監視)させた。
白日(昼間)は常に墙壁(塀)の間から
こっそりと窺わせ、夜は幹(小役人?)に
諸曹を廉察(視察)させていたが、
幹もまた信用に足らぬようであれば
別に鈴下及び奴婢を遣わして
伝え聞いた事を互いに検証させていた。
嘗て案行(順路の調査)して
民家に宿泊した際、
民家の二匹の狗に逐われて
驚いて逃げた猪(豚)が
棚の間に頭を挿し、
ややひさしく号呼していた。
劉類は、外にいる吏人らが勝手に
飲み食いをしているものかと思い、
再度徴察(確認)する事もなしに
すぐに伍伯を遣わして
五官掾の孫弼を引いて立ち入らせ、
叩頭させてこれを責譲した。
孫弼が実情を以て相対すると
劉類は自ら詳らかにしなかった事を慚愧したが
他の事に託けて尋問した。
庶民の尹昌という者がおり
この時百歳に差しかかる高齢であったが
劉類が出行し、その経路に当たると聞いて
その子に対して謂った。
「我を扶持して府君を迎えよ、
我は、恩を陳べたいのじゃ」
子は、尹昌を扶持して道の左側へおらせ、
劉類はそれを望見すると
息子を呵叱して言った。
「こんな死人を用いて
我との会見に連れて来させたのか!」
劉類が人を視るに無礼である様子は
みなこの類であった。
旧い俗習では、
人民が官吏の長を誹謗する際に
三つの不肯があり、
「遷」(更迭すること)
「免」(辞職させること)
「死」(殺すこと)であった。
劉類は弘農にあったが、
官吏も民衆も彼を患って(疎んで)おり、
そこでその門に、
「劉府君には三不肯が有る!」
と題した(書き込んだ)。
劉類はこれを聞きはしたが
なお自ら改める事は出来なかった。
その後、安東将軍の司馬文王(司馬昭)が
西方を征伐した折に
道すがら弘農を経由したので、
弘農の人々は劉類は荒耄(耄碌)して
郡太守の任に堪えられないと告訴した。
かくて召されて入朝し、
五官中郎将となった。
(註釈)
・数ある酷吏の中最も暴虐と評された治政、内政一1
・人事をよく修めて罷免を免れた、戦略+1
・部下に休みを与えない上こき使う、人格一1
・罪状を鑑みずに罪人を滅多打ちにした、内政一1
・疑り深くて常に部下を監視させていた、人格一1
・一応老人から感謝されていた、内政+1
・その老人を死に損ない呼ばわり、人格一1
・官吏たちが更迭を申し出た、内政一1
・劉類評価
戦闘 ★★★★★ 5
戦略 ★★★★★★ 6
内政 ★★★ 3
人格 ★★ 2
やっぱこーゆークセの強い人のことも
教えてもらわにゃね。




