三・註二、梁習と王思
梁習の同僚にして、
疑り深くて、怒りっぽくて
ハエを捕まえられない王思伝です。
(言い方
3.
初,济阴王思與習俱爲西曹令史。思因直日白事,失太祖指。太祖大怒,教召主者,將加重辟。時思近出,習代往對,已被收執矣,思乃驰還,自陳己罪,罪应受死。太祖叹習之不言,思之识分,曰:「何意吾軍中有二義士乎?」後同時擢爲刺史,思领豫州。思亦能吏,然苛碎無大體,官至九卿,封列侯。
(訳)
当初、済陰の王思が
梁習と倶に西曹令史となっていた。
王思は当直の日に因みて
事(意見)を建白したことで
太祖の意旨を失ってしまった。
(曹操の機嫌を損ねてしまった)
太祖は大いに怒り、
責任者を召し出させて
重罰を加えようとした。
この時王思は近郊に出掛けており
梁習が代わりに応対に向かったが
縄を被る事になってしまった。
王思はそこで馳せ帰り、
自らの罪について陳べ、
罪状は死刑を受けるに相応しいとした。
太祖は、梁習が言い訳をしなかった事と
王思が分を弁えた事に嘆息し、こう言った。
「吾が軍中に二人の義士がおるとは
思わなかったわい」
その後、同時期に抜擢されて州刺史となり
王思は豫州を統領した。
王思もまた能吏であったが、
(治政は)苛酷で煩瑣であり
大礼を弁えていなかった。
官位は九卿に至り、列侯に封じられた。
(註釈)
意を違えたヤツであっても
結局許してあげる曹操は偉いね。
註2.
臣松之以爲習與王思,同寮而已,親非骨肉,義非刎颈,而以身代思,受不测之祸。以之爲義,無乃乖先哲之雅旨乎!史遷云「死有重於太山,有轻於鸿毛」,故君子不爲苟存,不爲苟亡。若使思不引分,主不加恕,則所謂自經於沟渎而莫之知也。習之死義者,豈其然哉!
(訳)
わたくし松之が考えるに、
王思と梁習は同僚ではあったが
骨肉の親しさがあったわけではなく
その義は※刎頚という程ではなかったが、
(※相手のためなら首を刎ねられても本望と
思えるくらいの友情)
躬ら王思の代わりとなって
不測の災難を受ける事になった。
これを以て義と為せば、
先代の聖哲の雅旨と
乖離してしまうのではなかろうか!
太史公の司馬遷(史記の著者)は
「死は太山(泰山)よりも重いこともあれば
鴻毛よりも軽いこともある」
と云っている。
故に君子は苟且に存亡を為さぬのだ。
もし、王思が引責せず、
主(曹操)が温情を加えていなければ則ち、
「自ら沟渎に(首を)経きて
これを知る者がいない」
とでも謂う所である。
梁習の道義に死すという行為が
どうして正しきものといえようか!!
(註釈)
美談でもなんでもなかったッッッッ




