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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第十五、梁習伝
332/603

二、梁刺史の治政天下に冠たり

2.

太祖嘉之,赐爵關内侯,更拜爲真。長老稱咏,以爲自所聞识,刺史未有及習者。建安十八年,州並屬冀州,更拜議郎、西部都督從事,統屬冀州,總故部曲。又使於上黨取大材供鄴宫室。習表置屯田都尉二人,领客六百夫,於道次耕种菽粟,以给人牛之费。後单于入侍,西北無虞,習之绩也。文帝践阼,復置并州,復爲刺史,進封申門亭侯,邑百户;政治常爲天下最。太和二年,徵拜大司农。習在州二十餘年,而居處贫窮,無方面珍物,明帝異之,礼赐甚厚。四年,薨,子施嗣。


(訳)

太祖はこれをよみして

関内侯の爵位を賜り、

更に拝して※真と為した。


(※正式な并州刺史に任命した)


長者、父老は称揚し、

自らの聞き知る所では

梁習に及ぶ刺史はいないとした。


建安十八年(213)に

并州は合併して州に属する事となり

更に議郎、西部都督従事せいぶととくじゅうじに拝されて

冀州に統属し、もとの部曲を総べた。


また、上党へ使者を遣り、

採取した大型の資材を

鄴の宮室へ提供させた。


梁習は

屯田とんでん都尉といを二人置き、客分六百を領して

道に於いて次第にまめや粟を耕種させる事で

人々への配給や耕牛の費用を賄いたいと

上表した。


後に単于が入朝、奉侍した際に

西北におそれが無くなった事は

梁習の功績であった。


文帝(曹丕)が践阼せんそ(即位)すると

ふたたび并州が置かれるようになり

梁習が再度刺史となった。


昇進して申門しんもん亭侯に封じられ

食邑は百戸であった。


その政治は常に

天下に最たるものと謳われていた。


太和二年(228)に

徴されて大司農だいしのうに拝された。


梁習が州(刺史)にあること二十余年、

居る処は貧窮であり

方面の珍しい物も所持しておらず、

明帝(曹叡)はこれを立派なものとして

礼遇と下賜とは甚だ厚かった。


四年(230)に薨去し、子の梁施りょうしが嗣いだ。


(註釈)

単于って単語が結構出てきますね。


曹操の時代に匈奴を五つに分けたと

劉元海載記で触れましたが、

梁習の仕事にはその管理も

含まれている感じでしょうか。


難しい并州刺史を20年も続投。

2節で終わっちゃいましたが、

梁習のレベルの高さは十分伝わりました。


つくづく、彼の活躍が

まだ梁州ができる前でよかった。

まぎらわしいよ。


・梁習評価

戦闘 ★★★★★★ 6

戦略 ★★★★★ 5

内政 ★★★★★★★★ 8

人格 ★★★★★★★ 7

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