五・註四・五、疫病にて没する
5.
建安二十二年,與夏侯惇、臧霸等征吳。到居巢,軍士大疫,朗躬巡视,致医药。遇疾卒,時年四十七。遺命布衣幅巾,敛以時服,州人追思之。明帝即位,封朗子遺昌武亭侯,邑百户。朗弟孚又以子望继朗後。遺薨,望子洪嗣。
(訳)
建安二十二年(217)に
夏侯惇、臧覇とともに
呉の征伐に向かった。
居巣へ至ると
軍士の間で大いに疫病が流行してしまい、
司馬朗は巡視して医薬を施したが
病疾に遇いて卒した。
この時、四十七歳であった。
遺言により布衣幅巾(普段着)に
時節に沿った服装を以て
(棺に)収めるよう命じた。
州の人々は司馬朗を追慕した。
明帝(曹叡)が即位すると
司馬朗の子の司馬遣は
昌武亭侯に封じられた。
食邑は百戸であった。
司馬朗の弟の司馬孚もまた
子の司馬望を以て司馬朗の後を継がせた。
司馬遣が薨去すると、
司馬望の子の司馬洪が嗣いだ。
(註釈)
呉討伐の途上で疫病にかかり
余りにもあっさりと逝ってしまった司馬朗。
伍子胥なんかも楚から呉へ至る途中
病にかかったりしているので
合わない人にはとことん合わないんかな。
コロナが来たのも江夏郡のあたりからだし
長江流域の風土は一体どうなってるんだ?
享年47なので、やはり171年生まれです。
父・司馬防より二年早く
亡くなってしまった司馬朗でしたが
その分まで弟ふたりが
めっちゃ長生きします。
註4.
魏書曰:朗临卒,謂將士曰;「刺史蒙國厚恩,督司萬里,微功未效,而遭此疫疠,既不能自救,辜負國恩。身没之後,其布衣幅巾,敛以時服,勿违吾志也。」
(訳)
魏書にいう、
司馬朗がまさに卒しようという時
将士に対してこのように謂った。
「刺史は国家から厚き恩を蒙り
万里を司る任務に当たったが、
微かな功績もあらわさぬうちに
こうして疫病に遭遇してしまった。
もはや助からぬ、国家の恩に
辜負する(そむく)事になろうとは。
身共が没した後は
その布衣幅巾(普段着)に
時節に沿った服装を以て
(棺に)収めてほしい。
どうか吾が遺志を違えないでくれ」
(註釈)
217年には魏の国内でも
疫病が蔓延していたようで、
江南の地に倒れた司馬朗の他にも
王粲や陳琳といった
優れた文学者が亡くなっており
曹丕が自著の典論の中で
この事を嘆いています。
註5.
晉諸公赞曰:望字子初,孚之長子。有才识,早知名。咸熙中位至司徒,入晉封義陽王,遷太尉、大司馬。時孚爲太宰,父子居上公位,自中代以来未之有也。洪字孔業,封河間王。
(訳)
晋諸公賛にいう、
司馬望の字は子初、司馬孚の長子である。
才覚と見識を有し、早くに名を知られた。
咸熙年間(264〜265)に
官位は司徒にまで至り、
晋代に入ると義陽王に封じられて
太尉、大司馬に遷った。
この時、司馬孚は太宰となっていたが
父子ともに上公の位にあることは
中代以来いまだ無かった事である。
司馬洪は字を孔業、河間王に封じられた。
(註釈)
司馬孚は司馬懿の年子の弟、
義陽郡は南陽郡を分割して
新しく作られた郡です。
魏延の出身地は「義陽」になってますが
魏延が暮らしてた当時はまだ存在してません。
曹丕は藩屏冷遇政策により
屋台骨を乗っ取られる事になったので
司馬氏は反対に身内を
重んじる方針にシフト。
そこから八王の乱が勃発してしまい
劉淵や石勒や苻堅が台頭する
契機を作ってしまうのでした。




