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淡々三国志  作者: ンバ
魏書第十五、司馬朗伝
326/603

三、河内から黎陽へ

3.

朗知卓必亡,恐見留,即散財物以賂遺卓用事者,求歸鄉里。到謂父老曰;「董卓悖逆,爲天下所讎,此忠臣義士奮發之時也。郡與京都境壤相接,洛東有成皋,北界大河,天下興義兵者若未得進,其勢必停於此。此乃四分五裂戰爭之地,難以自安,不如及道路尚通,舉宗東到黎陽。黎陽有營兵,趙威孫鄉里舊婚,爲監營謁者,統兵馬,足以爲主。若後有變,徐復觀望未晚也。」父老戀舊,莫有從者,惟同縣趙咨,將家屬俱與朗往焉。後數月,關東諸州郡起兵,眾數十萬,皆集滎陽及河内。諸將不能相一,縱兵鈔略,民人死者且半。久之,關東兵散,太祖與呂布相持於濮陽,朗乃將家還溫。時歲大饑,人相食,朗收恤宗族,教訓諸弟,不爲衰世解業。


(訳)

司馬朗は董卓が必ずや滅びるだろうと察知して

留められる事を恐れ、即刻財物をばらまいて

董卓のもとで用を為している者たちに

賄賂として遣り、郷里への帰還を求めた。


到着すると、父老に対して謂った。


「董卓は悖逆はいぎゃくして

天下にあだ為す所となっており

これぞ忠臣・義士が発奮する時であります。


河内かだい郡は京都の境域とは互いに接しており

洛陽の東には成皋せいこう

北の界域には大河があります。


天下に興った義兵は

もし進軍がかなわなければ

その勢いからいって

必ずやこの地に停留する筈です。


これは乃ち、四分五裂の

戦争の地になるという事でして

自ら安定させるのは困難ですから

道路がなお通じているうちに

宗族を挙って東の黎陽れいようへ到るに

越した事はございませんぞ。


黎陽には兵営がありまして、

趙威孫ちょういそんは郷里の者と旧くに婚姻し

監営謁者かんえいえっしゃとして兵馬を統領しておりますから

主と為すに足る人物です。


もし後から変事が起こっても

徐にまた観望すれば遅くはありません」


父老は旧地を恋しく思い

従う者はいなかったが、

ただ同県の趙咨のみが家族を率いて

司馬朗とともに黎陽へ向かった。


数ヶ月後、関東の諸州で兵が決起し

軍勢の規模は十万、

(司馬朗が予想した通り)

みな滎陽けいよう及び河内に結集した。


諸将は互いに協力する事が出来ず

兵を欲しいままに略奪を行い

民間人の半数が死んでしまった。


これより久しくして関東の兵は離散し、

太祖が呂布と濮陽ぼくようで相対峙すると

司馬朗はそこで家族を温に帰そうとした。


この歳は大飢饉であり

人々は互いに喰らいあった。


司馬朗は宗族を集めてあわれみ、

諸弟を教訓して、衰退の世の中でも

業を解いたりはしなかった。


(註釈)

董卓から離れて

郷里の人々連れて避難しようとするのは

荀彧のムーブとそっくり。


縁故の地からは離れがたくて

みんながついてこないところまで。


潁川えいせんの民はけっきょく

董卓軍に虐殺されましたが、

河内のひとたちは、袁紹ら

関東諸侯に殺されてる感じで

書かれていますね。


司馬懿がなかなか曹操に

仕えようとしなかったのも

ホームの河内を荒らされたから?

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