032話 政争の導火線
夜の首都高を、俺の営業史上最大の大物を乗せたタクシーが走る。
だが、俺はしがない運転手に過ぎない。
お客様がどんな人であれ、いつも通りの仕事を遂行するだけである。何も気負うことはない。
後部座席で相変わらず鼻歌を奏でていた俳優ハヤトが、唐突に俺に向けてではない言葉を発した。
「もしもし、サトミ? ……そうそう、今からそっち行くから、いつものトコ空けといて」
ほぼ相手の喋る隙などないくらいの一方的な会話で、ハヤトはすぐに電話を切る。
「乙郎いつろうさん、さ」
間髪入れずに、今度は俺に話しかけてくる。
名前を呼ばれ一瞬戸惑うが、俺の名前は運転席横の名札にも座席裏の名刺にも印刷されているのだ。慣れ慣れしいが、驚くほどの事ではない。
「オレに誘拐されてくれないかな?」
……今度は、驚いても許されるだろう。
俺は聞き返そうとするが適切な言葉が見つからず、すると車内に沈黙が流れる。高速の運転でバックミラーを見る回数など限られているが、この状況では何度も覗いてしまう。そしてその度にお客様と目が合う。
「随分と後ろを気にしてるけど……オレのコトばっか見てないで、ちゃんとその後ろまで気にして欲しいなぁ」
ハヤトは誘拐の話を一度棚上げし、別の話を振ってきた。
動揺する俺に安全運転を促しているのだろうかと思ったが、次の言葉でそうではない事を知る。
「あのバイク、火災現場からずっと尾いて来てるね」
バックミラーをもう一度見ると、確かに後方にはバイクが見える。全く気付かなかったが、だからなんだというのか。
いや、ここに乗せているのは稀代の大スターだ。そしてあれだけ人目のつく火災現場にいて、このタクシーを拾った。それに気付いた輩が尾けてきても疑問は無い。自分も記者当時にそんな光景を目撃したなら、同じように尾行しただろう。
なにせ、この男はただの人気者ではない。
「あーあ、この時期にアオ派にエサをあげるコトになったら、父さんにころされちゃうかもなー。オレなんか詰めても、父さんから政治の事なんか何も聞かされてないから意味ないのに」
ハヤト。
人気俳優にして、国民的スター。
そして、大物政治家のご子息。
彼の本名は郷田隼人。
東京都知事、郷田和義の息子なのである。
「ねぇ、乙郎さん。あのバイクはね、クラブから出てきたオレを見て、そのまま追いかけてきたんだよ。何故ならオレはちょっとした有名人だからね。でも、オレはこれから行く病院で匿ってもらえるツテがある」
そしてハヤトは、いよいよ本題に入った。
「そしたらあの追手は、オレを乗せたタクシー運転手の事が気になっちゃうだろうね……最近のアオ派の取材は手段を選ばないからなぁ、怖い怖い」
参院選で緊張の走るこの時期。
火災の起きた高級クラブで政治家の息子が目撃されたのだ。それに加え、VIPが出入りするあのクラブ自体にも、スキャンダラスな事実が大量に眠っていると噂されていた。
六本木の高級クラブ『リブラグランデ』といえば、記者時代の俺も近寄れなかった完全紹介制の強固な砦だ。その中では資本家に政治家、官僚、そして芸能人という様々な人種が密会し、違法接待もまかり通っている――などとまことしやかに囁かれ、“汚職の城”とも揶揄されていた。
しかしリブラは巨大な地下駐車場を備えており、太客はスモークガラス付きのハイヤーで出入りしているため、その全貌は謎に包まれていたのだ。
『――物価高、賃金の伸び悩み。今、多くの国民の声が届いております。私たちは、中小企業支援と最低賃金の引き上げで、働く人の所得を確実に増やします。医療費負担を減らし、将来への不安を払拭します。未来への投資を、皆国党』
車内テレビが、今度は皆国党の宣伝を流している。
選挙戦に合わせ、資金の潤沢な皆国はところかしこにCMを打っていた。郷田との癒着疑惑のあるインフラでそれを流すことにはアオからの少なくない批判があったが、それは感情ベースの議論の域を出ない。皆国は批判を撥ね退け、少なくともタクシーのメインユーザーに対してはクリーンな印象を維持していた。
だが火災により汚職の城の牙城が崩れた今、皆国に何かしらのメスが入る可能性は高く、シロ派にとってはこれ以上ない燃料になり得る。アオ派はその追求に躍起になり、選挙戦中のこの時期に現体制のスキャンダルを暴こうとするだろう。 リブラにあの郷田隼人も居たとなれば、その事実は参院選に影響を与え得るかもしれない。なにせ彼はシロ派筆頭勢力の皆国党の重鎮、郷田和義の血縁者なのだから。
あるいはハヤトの他にも、リブラの表門から避難せざるを得なかった各界の有力者が多数目撃されているだろう。それらが照らし合わされ、違法な接待や取り引きが明るみにでる瀬戸際がこれから訪れる。
そして、俺にとってはここからが重要である。
政争の導火線になってしまったこの青年を、公衆の面前で拾ってしまったのだ。
この車内でどんな会話がなされたのかなど、いくらでも妄想できる。あの場でタクシーを停めていたこと自体、郷田家のお抱えのドライバーが助けに来たという誤解も、最悪あり得る。
記者時代の俺なら、そういう可能性も含めてあらゆるアプローチからの取材をシミュレートしただろう。大物のハヤトには逃げられてしまうだろうが、彼を乗せたタクシー運転手までは逃さまいとする。僅かな事件の足跡からでもスクープを探す。それが記者の性であることは俺自信が1番理解していた。
「だからさ、このまま病院へ行ったら、そこで軟禁されないかい? 参院選が終わるまで。それまではオレが面倒見てあげるからさ」
そして俺がアオ派に捕まり、そのしつこさに折れてある事ない事を流布するような事態になれば、ハヤトにとっても困るのだ。だからそんな2人が穏便にこの状況を収める提案、それがあの言葉の真意だった。
ハヤトはトドメにもう一度それを口にした。
「オレに誘拐されてくれないかな?」




