143話 生きていくためのふたしずく
あれは未だ一周忌には早い、けれどお盆には遅すぎる真夏日だった。
蝉のけたたましい鳴き声も、暑さで朦朧とする意識の中ではくぐもって聴こえていた気がする。
俺は5年ほど前のその日、日笠財閥創設者が祀られている霊園を訪れていた。それはアカリへの墓参りという建前で、自分の中で少しでも整理をつけようと足掻くような行為であった。
衝動的に来てみたものの、いざ霊園を見渡して彼女の名前を拝んだとしても素通りしてしまうだろう。何故なら、そもそも俺はアカリの本名を知らないのだから。
ただ、日笠関連人物が眠っている区画は周りと比べても特に格式高く、見ればすぐにそれと判った。だからその辺りに刻まれた名を意味もなく眺めながら、俺はふらふらと徘徊する。
暑い。もう汗を拭うのも億劫だ。
どうせ墓は見つからない。彼女の名前が分からないのは元より、そもそも跡取り問題やら隠し子問題やらの最中にあんな事件が起きた妾の子なのだから、このお墓に入れて貰えていない可能性も充分にあり得る。
そろそろ、この行き場を失った菊の花もどこかに収めて退散しなければならない。ただ、この陽炎を空目するような熱気の中は、この世界とアカリの居場所を曖昧にしているかのようで、今の俺にはどこか居心地が良かった。
「幾ら探しても無駄ですよ」
自分が話しかけられた事に少し遅れて気付き、はっとして声のする方へ振り向く。そこに居たのは、この暑さに腕をまくりつつもスーツに身を包んだ初老の男――日笠正造の側近、内藤だった。
彼は桶と柄杓を脇に置き、日笠家先祖の墓に供えられていた萎れた花を片づけ始める。
「あっ……すみません。その、たまたま近くを寄ったので」
俺は萎縮して、すぐに退散の姿勢をとる。
彼にとって俺は、主人の一人娘を誑かした挙句に事故死の一因を作った相手に違いないのだから。こんなところを彷徨いていても不快にさせてしまうだけだろう。
「花。供える当てが無いのならこちらによこしなさい」
内藤氏は墓石を布巾で磨きながら、こちらに視線をくれるでもなくそう指図した。
俺は躊躇いつつ、しかし言われるがままのろのろと歩み寄って菊を差し出す。すると彼はそれを丁寧な手つきで受け取り、持参していた花と束ねて供えた。
「お嬢様は、何か粗相をしませんでしたか」
それは俺にとって意外な一言であった。
今の内藤氏からはまったくと言って良いほど敵意を感じないのだ。それはまるで、我が子を他所に預けた後の挨拶かのような、何気無いひとこと。
「いえ……自分の方が彼女に教えられてばっかりでした」
ぽつりと、気付けば俺はそんな言葉を落としていた。
「俺はまだ未熟で、独善的に突き進む事しかできない男でした。でも彼女はそんな俺の悪いところにも正面から向き合ってくれて、それでも俺の在り方を肯定してくれたんです。それなのに俺は……!」
「人など、いつまで経っても未熟なものですよ。私も、湖畔のテラスでお嬢様と旦那様を引き合わせた事を後悔しなかった日はありません」
堰を切ったように溢れ出した俺の言葉を、内藤は穏やかな声色で遮った。
「私のような歳になっても、日々は後悔ばかりが目につきます。それはきっと、日笠グループのトップに君臨する旦那様ですら同じ。……けれど、一生かけて背負うものならその形は知らなければなりません」
一通りの墓掃除を終えた内藤は、俺に視線をくれた。
「お嬢様――明透葉様は生きておられます」
――えっ?
「今はまだ昏睡状態ですが、回復の兆しもあるようです」
あすは――それがアカリの名前。
「お嬢様は、まだ生きようとしておられるのです」
アカリが、生きてる。
「もし貴方が墓参りに顔を出した時になら話して良い、と旦那様から仰せつかっておりました。曲がりなりにもお嬢様を大切にしていただいた者への、これは最大限の譲歩です。ですからくれぐれも見舞いたいなどと言い出さぬよう」
どこかで、眠ってる。
「貴方は今後この墓に訪れる必要もありませんね。だからもう、顔を見るのもこれで最後になるでしょう」
もう会えなくとも、息をしている。
「我々が力及ばない中で、お嬢様に寄り添っていただきありがとうございました。そしてさようなら、我々にとって堪らなく恨めしい青年よ」
俺は多分、安堵した訳ではない。
別にこれで何かが赦される訳でもない。
けれど、アカリは生きている。生きていたのだ。
頬を伝うものは今や汗だけではなかったが、その理由は言い表せない。けれど、それでも俺はその場でへたり込み、気が付けば眼下の石畳を濡らしていた。
もう誰も居ないこの霊園で、熱気が石を乾かし蝉の声が嗚咽を溶かすまで、俺は長い間そこで伏していた。
「――これは、どうしても菖にだけは伝えたかったんだ」
5年後の帝国研究病院の一室で俺は菖にその話を告げ、最後に嘘偽りの無い自分の気持ちを添えた。
清廉情報思想の源流、速水トオルは生きている。
それは表に出れば多大な注目が集まり、一部の人間の思想すら揺るがしかねない事実。吹聴する事は正造氏も望む筈がなく、けれど俺を信用したから教えてくれたに違いない。だからおやっさんを含め、この事は今まで本当に誰にも話した事はなかった。
けれど、俺を案じていつも話を聞いてくれる菖にだけは話そうと思っていた。その事実を知る事で彼女の身に危険が及ばないとは言い切れずなかなか踏ん切りがつかなかったが、俺の心の在り処に関わる部分で彼女にもう隠し事はしたくないという気持ちが勝ったのだ。
ソファの対面に座る菖はやや俯きながら言葉を探していたようだったが、やがてメガネを外すとそれを脇に伏せ、顔を上げた。
何も視えないその瞳は、俺の顔をしっかり映している。
「……助けてくれて、ありがとう」
菖は、急にそんな事を言った。
話を逸らしたのだろうか。数日前の俺のように。
だとしたら勇気を出したつもりの言葉がすかされるのは、存外に苦しいものだと身に沁みる。
しかしそんな俺の自省を他所に、菖は言葉を続ける。
「あらためてお礼言わなきゃな、って思って。鳥目乃間に落ちそうになった私の手を……取ってくれた、こと」
「あぁ、そんな事、か。何で今さら……っ、どうした……!?」
見れば、菖の眼からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。俺の事は視えていない筈なのに、その揺れる瞳は必死で訴えている。
「おつろーくんの代わりだよ……私を助けてくれた時、おつろーくん泣いてたでしょ。だからその、お返し」
あぁ――
菖は気付いたのだ。
鳥狩村の修験道場にて鳥目乃間に落ちかけた菖の手を取った時、本当に救われたのは俺の方だった。それでアカリへの後悔が解消された訳では無いが、しかし同じ過ちを繰り返さなかった自分に心底安堵したのは間違いない。
「お礼を言うのは、こっちの方だ」
菖が助かってくれて良かった。
あの時、居なくなった菖を追いかけて本当に良かった。
この子を営業所に招き入れて、俺は救われた。
「私が助かったのは、きっとアカリさんとの時間のお陰だね。おつろーくんの長年の後悔と葛藤に、私は救われたんだよ」
「やめてくれ……そんな言葉を貰う権利は俺には……」
「言うよ。だって多分、誰も貴方にそれを言ってあげないから。そっちの都合なんか知らない。どう受け取るかは知った人に委ねるんでしょ……おつろーくんのなんたらってのは」
菖はくしゃくしゃの顔で目元を拭う。
「良かった……アカリさん、生きてて……」
それでも、溢れる涙は止まらない。
「辛かったね、おつろーくん」
「あぁ……ありがとう」
抑えたつもりの語尾の震えは、伝わってしまっただろうか。
メガネを伏せていてくれた菖の優しさに、俺は今さら気がついた。




