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メーデー、メーデー、メーデー。

 検査が終わった木南先生は、MRI室から外科病棟に運ばれた。

 

 外科の医局の早瀬先生のデスクに木南先生のMRIのROMを置き、木南先生の病室へ。


 木南先生の枕元に腰を掛け、


「木南先生のばか。他人の緊急手術なんかしている場合じゃないでしょう。木南先生の手術が必要でしょうが」

 

 木南先生に文句を言いながら、いつも傍にいたのに、医者なのに何も気付かなかった自分に嫌気が刺した。


 今思えば、おかしなところはたくさんあった。昼食を食べようとしないこと。突然病院を辞めたこと。あれだけ忙しく働いていたくせに、病院を辞めた途端に仮眠室で身体を休めたがっていたこと。片付いていない部屋。


「……気付かない俺がアホなんですけど、話してくれても良かったじゃないですか、木南先生。俺、単純なんだから分からないですよ。言ってくれなきゃ分からない」


 膝の上で拳を握り、項垂れた。


 もう何度目かの溜息かも分からない息を吐いた時、


「……息臭い。顔にかかってる」


 木南先生が目を覚まし、俺に白い目を向けていた。


「木南先生‼ なんで何も言ってくれなかったんですか⁉」

口の前で両手を丸めて「そんなに臭い?」と、自分の息の確認をしながら、木南先生に白い目を向け返す。


「研修医にいちいち言う必要ないでしょ。あー、良く寝た。家かーえろ」


 木南先生は「うーん」と天井に向かって伸びをすると、掛かっていた布団を捲ってベッドから出ようとした。


「何言ってるんですか‼ 木南先生は今日から入院ですよ‼」


 木南先生をベッドに押し戻し、無理矢理布団を被せる。


「はぁ? 入院なんかしませんが」


「もう、何言ってるんだっつーの‼ 自分の病気のこと、分かってるんでしょう⁉」


「知ってるよ。食道癌。ステージⅡ」

 

 木南先生は、食道癌を『風邪ひきました』くらいのテンションで話す。


「即治療が必要です。木南先生は転移が見つからなかった。化学療法と手術で治ります。頑張りましょう‼」


「だから、入院しないっつーの」


 木南先生はまたも布団を捲り上げ、ベッドから降りてしまった。


「通院じゃ無理ですって。死にますよ⁉ 木南先生‼」


 木南先生の腕を掴み「おとなしく寝てくださいよ」と、ベッドに寝かせようとするが、


「そのつもりだから」

 

 木南先生は「手、離して。着替えるから出て行って。出て行かないなら痴漢として警察に通報する」と俺を脅した。


「……そのつもりって?」

 

 木南先生の返事に耳を疑い、再度聞き直す。


「研修医、ステージⅡの食道癌の五年生存率は?」


 でも木南先生は答えてくれず、質問をし返してきた。


「……約五十パーセントです」


 食道癌は進行が早く、周囲に浸潤しやすい為、ステージⅡであっても五年生存率が低い。


「そう。半分は死ぬ」


「でも、半分は助かりますよ‼」

 

 野村さんと比べたら、五十パーセントも助かる可能性があるのにと思うと、木南先生の気持ちが全く理解が出来ない。


「辛い治療をして命が延びたとして、私は仕事に復帰出来る?」


「治療をしなければ、仕事に復帰することは100パーセントありませんよ」

 

 良からぬことを考えているだろう木南先生の言葉を、悉く否定する。


「私には仕事以外何もないんだよ。医学しか学んでこなかったから、医者以外の仕事も出来ない。医者でなくなってしまったら、私はもう立っていられないの」

 

 木南先生らしくない後ろ向きな言葉が、悲しく切ない。


「身体に負担の少ない科に転科すれば医者を続けられます。脳外科医だけが医者じゃないでしょう?」

と木南先生の気持ちの立て直しを図るが、


「ゆくゆくはね、そうしようと思ってた。年齢が上がって、体力的に苦しくなってきたら、内科に転科しようか。手術からは退いて研究に没頭しようかって。でもね、私はオペがしたくて医者になったの。私の考えていた『ゆくゆく』は今じゃないの」


 脳外科医としての自分にプライドを持っている木南先生には、俺の言葉は響かない。

 

 木南先生はベッドの近くに置いてあった携帯を手に取ると


「三秒で出て行かないと、本当に警察を呼ぶ」と言って、俺の背中を押し始めた。

 

 出て行くわけにはいかない。木南先生をこのまま家に帰してはいけない。が、警察を呼ばれるわけにもいかない。木南先生ならやりかねない。

 

 木南先生に押されるがまま、病室のドア付近まで来てしまった時、


「おとなしく寝てなさいよ、病人が」


 突然ドアがスライドし、知らないおばさんが入って来た。おばさんの後ろには早瀬先生の姿が見える。


「……お母さん」

 

 おばさんの顔を見て、木南先生が動きを止めた。


「ベッドに戻りなさい」


 木南先生のお母さんが病室の中に入ってきて、木南先生の手首を掴み、ベッドまで引っ張ろうとした。


「痛い。やめて」

 

 引きずられまいと足を踏ん張りながら抵抗する木南先生。


「アンタ、父親の介護で実家に戻るんだってね。私が離婚してから、父親には一回も会ってないはずよね、確か。あの人、倒れたの? 私はあの人が生きているか死んでいるかも分からないわ」

 

 そんな木南先生に、呆れたような怒っているような口調で、嘲笑するように質問をする木南先生のお母さん。


「……おかしいと思ってました。木南先生は片親だったはずなのに、結婚式にさえ呼ばなかった父親の介護だなんて。でも、別れた後の三年の間に連絡を取り合う仲になっていたのかなとも思ったんですけど……。木南先生、お義母さんにも病気のことを話してなかったんですね」

 

 木南先生の後ろに立っていた早瀬先生も病室の中に入ってきた。


「……勝手に母に連絡するなんて」

 

 木南先生が怒りを握りしめるかの様に拳を作り、それを震わせながら早瀬先生を睨んだ。


「木南先生が意識を失われていらっしゃったので、やむを得ずです。入院手続きをしなければいけませんので」


「入院は致しません」

 

 早瀬先生の話など一切聞きたくない様子の木南先生は、間髪入れずに拒絶した。


「するのよ。もう手続きも済んでいるから。明日からすぐに治療を開始してもらうのよ。手術して綺麗に取り除いてもらいなさい」

 

 更に木南先生のお母さんは、木南先生の意見に聞く耳を持っていなかった。


「入院も手術も患者の意思が最優先。私はどちらもしない」

 

 この病室の中に自分の味方が一人もいない状態の木南先生は、誰を睨めば良いのか分からないのだろう。視線を床に落とし、唇を噛んだ。


「それは『患者に正常な判断能力がある場合に限り』よ」


「……何を言ってるの? お母さん。私が異常だとでも言うの?」


 木南先生は、怒りながらもわけの分からないことを話す母親に対して「フッ」と笑いながら乾いた息を漏らした。


「異常ね。あなたは過去の出来事と今回の病気で錯乱状態なのよ。とても正常な精神状態とは言えないわ。精神科医の私が言っているのだから、間違いないわ」


「お母さんが平気で誤診する様な医者だったなんてね。私、ずっとお母さんを尊敬してたのに」


 木南先生が「馬鹿馬鹿しい」と呆れた様に笑った。


「いくら娘と言えども、私の診断を侮辱するのは赦さないわよ。あなたは心も身体も病気なの‼ 入院して治療が必要なの‼ 着替えは明日持ってくる。この子が暴れるようならグローブはめてベッドに括り付けてちょうだい」


 俺らにそう言うと、木南先生のお母さんは病室を出て行こうとした。


「嫌だって言ってるじゃない‼ どうして⁉ 何でよ……。もういいじゃない。私、頑張ったじゃない。……蓮に会いに行きたいの」

 

 木南先生は、母親の背中に向かって大声を出した後、崩れる様に床にへたり込み、目から涙を零した。


「あなたなら分かるでしょう? 子どもを失う親の苦しみが」


 振り向いた木南先生のお母さんの目にも涙が溜まっていた。


「……分かるよ。分かってよ、お母さん。私もう、耐えられない」


 木南先生の涙が、ポタポタと床に落ちた。


 呼吸もままならないほどに泣き崩れる木南先生を、木南先生のお母さんが抱きしめた。

 

 こんな風に泣く木南先生を、初めて見た。


 ずっと平気なふりをしながら苦しんでいたかと思うと、胸が押しつぶされそうな程に苦しい。


 どうすることも出来ずに突っ立っていると、


「柴田くん。デパス持ってきて。……あと、一応グローブも」


 早瀬先生が俺に指示を出し、


「治療方法などは後日改めて説明に伺います」


 自分も病室を後にしようとした。


「結構です。知ってますから。私も一応医者なので。説明したいなら、母に話してください。母も医者ですが」

 

 木南先生の最後の抵抗なのだろう。木南先生は早瀬先生のを治療方針を聞くことを拒否した。


「木南先生も医者ならお分かりでしょう? 治療方法も薬剤も何種類もあります。相談の上、決定しましょう」

 

 早瀬先生が足を止め、木南先生の方へ身体を向き直した。


「……相談の上。私の意見は通るの? さっきから私の気持ちなんて一つも汲んでもらえてないじゃない」

 

 木南先生がぐしゃぐしゃの顔で早瀬先生を睨み上げる。


「私の相談は、あくまでも【治療方針】についてです。木南先生の命を救う為の何通りかある手段の相談をしましょうという話です」

 

 木南先生の涙を見ても、早瀬先生は態度を変えなかった。

 

 こんな早瀬先生を見るのも初めてだ。早瀬先生はいつだって、木南先生の意見を尊重していたから。


「……早瀬先生まで。……いつからそんな医者になっちゃったのよ。お母さんも早瀬先生も、患者の気持ちを無視する様な医者じゃなかったじゃない」


 木南先生が両手を床に着き、拳を作って項垂れた。


「……私が変わってしまったと言うのなら、きっとたった今、こんな医者になってしまったんだと思います。私は、木南先生の意思を弾いてでも、木南先生の命を助けたい」


 早瀬先生が、木南先生に言い聞かせるように、木南先生の傍に跪いた。


「……あなたは、本当に残酷な人ね」


 そう吐き捨てる様に零すと、木南先生がよろめきながら立ち上がった。


 そんな木南先生を支えようと、早瀬先生が木南先生の肩を掴むと、


「触らないで」


 木南先生は、自分の肩に乗せられた早瀬先生の手を退け、フラフラになりながら自力でベッドに戻った。

 

 早瀬先生は、木南先生に払われやり場をなくした手を握り締めると、


「柴田くん、さっき言ったものを持ってきてください」


 動けずにいた俺に再度催促をした。


「すみません。すぐに持ってきます」


 木南先生の病室を出て、ナースステーションに向かい、看護師さんに睡眠導入剤とグローブを用意してもらうと、急いで木南先生の病室へ引き返した。

 

 木南先生の病室のドアを開けると、早瀬先生と早瀬先生に背を向けてベッドに横たわる木南先生の姿があった。


「お待たせしました。……あの、木南先生のお母さんは?」


 さっきまでいたはずの木南先生のお母さんが見当たらず、早瀬先生に尋ねる。


「木南先生の荷物を取りに、木南先生のマンションに帰えられたよ。柴田くんが戻ってきてくれたから、私は仕事に戻りますね。あとは宜しくお願いしますね」


 俺の問いかけに答えると、入れ違いに病室を出て行こうとする早瀬先生。


「お忙しいのであれば、私のことなど待ってくださらなくても良かったのに……」


『俺って信用ないのかな。間違った薬でも持って来そうに見えるほど頼りないのかな』と若干いじけていると、早瀬先生が俺の耳元に唇を近づけてきた。


「今の木南先生から目を離してはいけない。絶対に」

 

 そう耳打ちした早瀬先生は、俺の肩にポンと手を置くと、病室を出て行った。

 

 早瀬先生の言葉の意味を悟り、背中がゾクっとした。

 

 早瀬先生が、木南先生のお母さんが帰った後も病室に残っていたのは、俺を待っていたわけではなかった。


 木南先生をひとりに出来なかったんだ。

 

 木南先生をひとりにしてしまったら、何をしでかすか分からないから。


 そんな木南先生に薬を持って近づく。


「木南先生、デパス持って来ました。飲んでください」

 

 ベッドに付属されているスライド式のテーブルの上に、薬と水の入ったコップを置く。


「…………」


 木南先生は枕に顔を埋めたまま、返事もしてくれない。


「木南先生、飲んでください。眠ってしまった方が楽になれます。起きていたって辛いでしょう? 逃げようにも、そんな体力なんか残っていないんでしょう?」


 布団がかかった木南先生の肩を揺すると、木南先生がムクっと起き上がった。


 そして、デパスを手に取り口に放り込み、水で流し込むと、すぐさま布団に潜り込む木南先生。


 木南先生が被った布団をそっと剥がし、木南先生の手を取った。


「……木南先生、ごめんなさい」


 薬と一緒に持ってきたグローブを木南先生の手に被せる。


 木南先生から目を離すのは危険。でも、ずっと木南先生の傍にいるわけにもいかない。


 諦めたのか、観念したのか、もうどうでも良くなってしまったのか。木南先生は抵抗しなかった。


 木南先生の両手をグローブで拘束し、ベッドに括り付ける。


「……おやすみなさい。木南先生」


 木南先生の身動きを封じることに、申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、木南先生を直視出来ずに俯いていると、


「もういいでしょ。ひとりにして」


 木南先生は眠りにつこうとしているのか、目を閉じながら

俺に退室を促した。


「……はい。また明日」


 心の中で『木南先生ごめんなさい』と何度も言いながら病室を後にしようとした時、木南先生の閉じた瞼から涙が零れ出るのが見えた。


 

 翌日から、木南先生の意向など関係なしに、容赦なく抗がん剤治療が始まった。

 

 木南先生のお母さんがいる時以外は常にグローブをはめられている状態の木南先生は、反論も反発もしない、何も話さない心を失くしたお人形の様になってしまった。

 

 誰が何を言おうとも、無反応。無表情。


 唯一言葉を発するのは、トイレに行きたい時と水が欲しい時だけだという。


 木南先生に無理矢理治療を受けさせることに罪悪感はある。でも、それでも俺は、木南先生に生きていて欲しい。


 そんな木南先生が喜んでくれそうなニュースが、今日の午後に飛び込んできた。

 

 昨日木南先生が執刀した野村さんが、目を覚ましたのだ。

 

 やはり、左半身に麻痺が出てしまった野村さん。しかし、


「木南先生にお礼が言いたい」


 野村さんは話すことが出来た。失語症も記憶障害も確認されなかった。予後治療に効果があれば、延命が可能。野村さんの書きたい小説が書けるかもしれない。


 早く木南先生に知らせようと、木南先生の病室へと早足で向かう。

 

 木南先生の病室をノックし、返事を待たずにドアを開けると、木南先生のお母さんの姿はなく、相変わらずグローブでベッドに縛り付けられている木南先生がゆっくり俺の方を見た。


「木南先生、お母さんは?」


「…………」

 

 やはり木南先生は俺の質問にも答えてくれない。まぁ、木南先生のお母さんがどこにいるかどうかはそんなに気にならないので、本題へと移る事に。


「野村さん、目を覚ましましたよ‼ 『木南先生にお礼が言いたい』って言っています。左半身に麻痺が見られましたが、それ以外に目立った症状は現れていません‼ 木南先生のオペのおかげですよ‼」


 テンション高めに「良かったですね‼ 木南先生」と木南先生に近づくが、


「…………」


 木南先生は無言のまま、笑顔さえも見せなかった。


「嬉しくないんですか? 木南先生」


「…………」

 

 当然の様に、木南先生は俺の問い掛けにも答えてくれない。

 

 何も喋ってくれない木南先生は、俺の方に向けてくれた目を虚ろにしながら、どこか遠くを見始めてしまった。

 

 目の奥が灰色になるとはこのことなのかという程に、木南先生の瞳からは光が消え去っていた。

 

 目の前にいる人は、本当に俺の尊敬する、バリバリに働いていた強気な木南先生なのか? と信じられなくなる程に、木南先生は別人の様になってしまった。


 それが、悲しくて寂しくて、物凄く嫌だった。


「木南先生、間違ってますよ。助かる可能性があるのに死にたいだなんて。生きたくても生きられない人がいること、木南先生は嫌っていうくらい知ってるじゃないですか。そういう人に対して失礼だとは思わないんですか⁉」


 変わり果ててしまった木南先生を受け入れたくなくて、元の木南先生に戻って欲しいもどかしさに、木南先生に苛立ちをぶつけてしまった。


「生きたくても生きられない人の為に、死ぬほど苦しんでいる人が生きなければならない道理って何?」

 

 やっと口を開いた木南先生の質問に、


「……え」

 

 答えられずに言葉を詰まらせる。

 

 木南先生を『間違っている』と否定しておいて、木南先生の問いかけに返答出来ない浅い自分が、本当に情けない。

 

 しかし、それでも木南先生の考えを肯定するわけにはいかない。


「木南先生が死んでしまったら、悲しむ人がたくさんいます」

 

 質問の答えになっていないことは分かっていても、黙って引き下がるわけにもいかず、ただ自分の思いを吐き出す。


「もがき苦しむ人間に、周りの人の思いを推し量る心の余裕がどこにあるって言うの?」


 しかし、俺の気持ちは木南先生には響かない。

 

 木南先生の心はきっと、粉々に壊れてしまっているのだろう。


「こんなに苦しいのに、こんなに辛いのに、どうして生きなければいけないの? どうして死んではいけないの? 生きることは善で、死ぬことは悪なの?」


 さっきまで黙っていたくせに、壊れた水道管の水の様に、次から次へと疑問を投げかけてくる木南先生。


「…………」


 簡単ではない木南先生の質問に、戸惑い、言葉が出てこない。


 何か言わなければ。木南先生に言い負けてはいけない。木南先生の死を良しとするわけには絶対にいかない。


「死ぬ勇気があれば、生きる勇気だってあるはずですよ」


 何とかありきたりな言葉を搾り出してみたが、


「生きる勇気……。どこにあるの? 探しに行くから在り処を教えてよ。よく言うじゃない。『死ぬ勇気を生きる勇気に変えて』とか。どうやって変えるの? 私にはその変換の仕方が分からない。みんなは知っているの? 学校で習ったはずなのに、私が聞き逃していただけなの? 研修医は知っているの? 何年生の時に教わったの? 何の教科書の何ページに書いてあったの? ねぇ?」

 

 質問が何倍にもなって返ってきてしまった。


『生きる事は素晴らしいこと。命を粗末にしてはいけない』と親からも学校でもそう教わってきた。そのことに疑問を持ったこともなかった。だって、世間ではそれが自然で当然の考え方だから。だから、それについて『どうして?』と問われると、どうしてなのか分からない。


「……木南先生、今日の木南先生の質問の返事は宿題にさせてください。ちゃんと答えを探してきますから」


 咄嗟に思いついた『宿題』という言葉を口にした自分を天才だと思った。考える時間稼ぎが出来る、なんて便利なワードなんだ。と、自画自賛しながら、


「俺、仕事に戻ります」


 逃げる様に木南先生の病室を退散。木南先生のことだから長居をすると『いつまでに提出してください』などと期限を決め兼ねない。


「……何で生きるのか。かぁ」


 あまりにも深すぎる問題に頭を掻き毟りながら医局に戻った。



 木南南先生の宿題が解けぬまま時間は流れ、脳外ローテ最終日がやってきた。

 

 俺が担当していたグリブラの野村さんの術後の経過は、とても良かった。投薬の相性も良く、取りきれなかった腫瘍に効いてくれ、体調も良いらしい。今では病室で執筆を再開させている程に回復した。


 そして、木南先生の経過も、木南先生の思いとは裏腹に好調だった。抗がん剤のせいで痩せ細り、髪の毛も抜けてしまったが、癌細胞は確実に小さくなった。来週にはオペを受けることになるらしい。

 

 経過が良好なことに大喜びな野村さんとは正反対に、木南先生は相変わらず元気がない。

 

 病気が良くなっているのにも関わらず、木南先生と喜び合えないことが悲しく、悔しい。

 

 早く宿題の答えを探し出さなければ。

 

 さっさと宿題の答えを導き出し、木南先生と病気克服を笑い合いたい。


 だけど、なかなか答えに辿りつかない。


「俺、今までずっと『頭の良い子』って言われて生きてきたのになぁ」


 何で答えが分からないんだ。と医局の自分のデスクに突っ伏していると、


「柴田くーん。学長がお呼びだよー」

 

 春日先生が近付いてきて、俺の頭をポンポンと叩いた。


「学長が⁉ 何故に⁉」


 ガバっと起き上がり、不安たっぷりな目で春日先生を見上げた。

 

 教授も病院長も飛び越えて、最高権力者の学長が俺を呼んでいるなんて……。俺、何をしてしまったんだ⁉ ……イヤ、心当たりはある。薄々ヤバイと思っていたから。

 

 多分、木南先生の件だろう。患者の意見を聞かずに、木南先生のお母さんの強引な診断を利用して治療をさせていることは、ギリギリラインでセーフだと、どうしても木南先生を助けたいがばかりに自分の都合良く解釈していたが、ギリアウトな気が、正直していた。

 

 あの場には早瀬先生もいたけれど、有能な外科医と研修医のどちらに責任を負わせるかと問われれば、一瞬の迷いもなく後者になることは、誰にでも分かる。


「……私、救命ローテをすることなく、病院を追放されてしまいます」


 最早、悪い予感しか頭を過ぎらない。顔面蒼白になりながら、重い腰はもちろん上がらない。


「脅すつもりはないんだけどさ、学長から呼び出されるって、結構な事案だよね、多分」


 春日先生が俺の血の気を更に引かせる様な言葉を、割と軽いタッチで話す。


「脅すつもりがないなら、そういうことを言わないでくださいよ」


 最悪な事態しか想定されず、吐き気さえしてくる始末。口を一文字に噤むと、胸の辺りを摩った。


「どうでもいいけど、本当に早く行ってくれにかな? 俺、今日まで柴田くんのオーベンだからさ、柴田くんがチンタラしていると俺まで怒られちゃうでしょうが。俺、身に覚えがないんだけど、学長呼び出し案件って、俺は関係ないよね? 俺は呼び出されてないわけだから」


「行きますよ行きますよ。ちょっと心の準備するくらい、いいじゃないですか。大丈夫ですよ、春日先生。春日先生には絶対に迷惑は掛からない話ですから」


 春日先生に急かされて、込み上げる胃液を気力で飲み込み、意を決して椅子から立ち上がった。


 医局を出て、エレベーターに乗り、学長室へ向かう。


 学長室になんて行ったこともなければ、近寄ったことすらない。


 学長室のある階に着き、エレベーターのドアが開くと、未知なる場所へ重い足取りで踏み入る。

 

 そして、学長室のドアの前に立つ。


 ノックをしようと右手の拳を振り上げ、やはり躊躇う。


 深呼吸の様な、ため息の様な息を一つ吐き、気を取り直してドアを叩くと、中から『キミ、顔採用だよね?』と疑ってしまう程のモデルの様な美人秘書がドアを開けた。


「研修医の柴田です」


「お待ちしておりました。中へどうぞ」


 美人秘書に誘導されて、部屋の奥へと入って行くと、白髪で髭を生やした、ドラマなどでよく見かける分かり易いザ・学長が、大そうお高そうな革の椅子に座って俺を待ち構えていた。


「君が柴田くん?」


 研修医の名前など知るはずもない学長が、俺が【柴田】であることを確認した。


「はい。この度は大変申し訳ありませんでした‼」


 崩れ落ちる様に床に膝と手をつき、平伏す様に頭を下げた。


「え? 何をしているの?」


 突然土下座しだした俺に驚く学長。


「学長のお話というのは、木南先生の件ですよね?」


 恐る恐る呼び出し理由を確認すると、


「うん、そう。よくやったね、柴田くん」


 要件は木南先生の件で間違いないのに、何故か褒められた。


「え?」


 予想外の展開に、こっちも驚き顔を上げる。ギリアウトだと思っていたが、ミラクルセーフだったのか?


「柴田くんが木南先生を呼び戻してくれたおかげで、有名作家の野村先生の命が繋がった。野村さん、雑誌の連載コラムやインタビューで、この病院を高く評価してくださっているらしいんだ。柴田くんのお手柄で、この病院の評判はうなぎ上りだよ」


 学長が「素晴らしいよ」と言いながら、俺の両肩をガッチリ掴んだ。


「まさかのそっちの話でしたか」


 急に身体の力が抜け、膝に踏ん張りが利かず、立ち上がることが出来ない。


「どっちの話だと思ったの?」


「いえ‼ そちら側の話以外思い当たる節がございません‼」

 

 不思議がる学長に、全力で首を左右に振る。余計な墓穴は掘ってはいけない。


「それで、ほんの気持ちばかりのお礼なんだけど……」


 学長に目配せをされ、美人秘書が持って来たのは、


「お、おぉ……」


 心の中で『これ、どうやって持ち帰るのよ? 俺、電車通勤ですよ?』と、ツッコミを入れずにはいられない程に豪華でデカすぎる、両手いっぱいの花束と金一封だった。しかし、


「学長のお気持ちは大変有難く、光栄に思っておりますが、私が受け取るわけにはいきません。私は木南先生にお願いをしただけで、野村さんのオペをしたのは木南先生と早瀬先生です。どうか、お二人に差し上げてください」


 俺は何かを貰えるほど役に立ってはいない。


「もちろん、木南先生と早瀬先生にも用意はしてあったんだけどね、木南先生は今闘病中で精神状態が良くなくそれどころではないと聞いているし、早瀬先生には『讃えるべきは、執刀医の木南先生と、木南先生を説得した柴田先生で、自分はお手伝いを少しさせてもらっただけなので』と辞退されてしまってね。だから、柴田くんまで拒否しないでよ。金一封はともかく、どうすればいいの? この花束」


 学長が「遠慮はいらないよ」と俺に花束を押し付けた。


「学長。この花束、木南先生と早瀬先生にプレゼントする予定だった花も全部合体させました?」


「あ、バレた?」

 

 学長が「ヘヘッ」と舌を出しながら後頭部を掻いた。


 やっぱりかよ。どうりでデカイと思ったよ、花束。


「……有難く頂戴致します」


 なんとか立ち上がり、花束を受け取ると、


「今後の活躍も期待していますよ」


 と、満足そうに学長が笑った。


「ご期待に添える様、努力致します」


 学長に頭を下げ、金一封をポケットに突っ込み、花束を抱き抱えると、学長室を離れた。


 目の前を塞ぐほどの量の花束は、進行方向も足元も見えにくくさせ、非常に歩き辛い。


 誰かにぶつからない様に慎重に歩を進めながら、医局を目指す。


「感謝の印が割りと厄介」


 やっとの思いで医局に辿り着き、ドアを開くと、


「柴田くん、学長の娘さんと結婚でもするの?」


 両手から零れ落ちそうな数の花を抱える俺を見て、春日先生が目を丸くしながら笑った。


「違いますよ。木南先生に野村さんのオペをお願いしたってだけの功績に対するお礼だそうです」


 ドアに一番近いテーブルに「よっこいせ」と花束を置いて、首を擦りながら回す。三つの花束を無理矢理ひとつに纏めた花束は、かなり持ち辛く、運ぶのに一苦労だった。


 「怒られたんじゃなくて褒められたんだ。良かったね‼ 柴田くんに木南の連絡先を教えたのは春日先生ですってちゃんと学長に言ってくれた?」


『木南先生にオペをお願いしただけ』の俺の働き以下のことしかしていないくせに、鬱陶しい質問をしてくる春日先生。


「……はい」


『面倒くせー』という腹の内を作り笑顔で誤魔化しながら、適当な嘘の返事をした。


「絶対してないわ、その感じ。てか、冗談だし。そんなちっちゃい貢献なんかいちいち報告されても恥ずかしいわ。それはそうと、どうするの? この花」

 

 俺の隠し切れなかった心情を察しただろう春日先生は、俺に絡むのをやめ、花束を指差した。


 確かに。どうしたらいいんだ、この花束。持ち帰るのもしんどいし、俺の部屋に花は似合わない。


 顎に右手の拳を当て「うーん」と唸りながら花の行き先を考えていると、ふと木南先生の顔が過ぎった。


「木南先生の病室に持って行こうと思います。花瓶、どこかにありませんか?」


 木南先生の病室に花を飾ろうと思った。花を見て、少しでも木南先生の気分が良くなればいいなと思った。


「あるよー。去年俺がアッペで入院した時に、木南が花と一緒に持って来た花瓶が、確か仮眠室の奥の方に片してあるはず……。でも、この量の花は入らないよ。この花を全部を入れるとしたら、学長室にある、割ったらタダでは済まされない、ウン百万の壺を借りてくるしかないんじゃない?」


 ツッコミどころが多すぎる春日先生の言葉。


 まず、木南先生のお見舞いに、木南先生が春日先生の為に用意した花瓶を使用すること。そして、俺に再度学長室へ行かせ、触ることさえ許されないだろう壺を借りさせようとすること。


「学長がそんな高価な壺を貸してくれるわけがないじゃないですか。それに、万が一貸してくれたとしても、緊張余って確実に落として割りますよ。今度こそ除名されますよ」


 出世を目指しているのなら、積極的に学長に顔を売りに行くが、そのスタートラインにすら立っていない研修医の立場で、あんなに圧の強い場所には暫くは近寄りたくない。


「じゃあ、入りきらない花はどうするの? あとはバケツと屎尿瓶くらいしか入れ物なんてないよ」


「屎尿瓶に花挿して木南先生の病室に飾ってみてくださいよ。一生口利いてくれなくなりますよ」


 春日先生のしょうもない案を悉く却下。


「ちょっと仮眠室に花瓶を探しに行ってきます」


 結局、木南先生が持参した花瓶を使用せざるを得ない為、春日先生との会話をサクっと切り上げ、花瓶を漁りに仮眠室へ向かった。


 春日先生に言われた通り、仮眠室の奥にある棚を開けると、アッサリ花瓶は見つかった。が、やはり貰った花を全部入れられるほどの大きさではなかった。


「……仕方ない」


 花瓶と、同じ棚に入っていたバケツを手に取り、医局へ戻る。


 テーブルに無造作に置きっぱなしだった花を、適当にバケツに突っ込み、給湯室へ。

 

 花瓶とバケツに水を入れると、花瓶の方だけは自分なりに丁寧に花を生けた。


 花を飾った花瓶とバケツを手に持つと、木南先生に届けべく、外科の病室を目指す。


 大量の花と水が入った花瓶とバケツを運ぶのは、思いの外重労働だった。

 

 でも、気落ちしている木南先生が少しでも喜んでくれるのなら。と、疲労を感じる二の腕を励ましながら花を運んだ。

 

 木南先生の病室の前に着き、一応ノックはするが、どうせ木南先生は返事をしてくれないので、勝手にドアを開け、花を運び込む。


「……多すぎない?」

 

 見過ごせないほどの花の数だったのか、周りの人間との関わりを極力避けようとしている木南先生が、自ら俺に話し掛けてきた。


「今日、学長から頂いたんです。木南先生を呼んで野村さんのオペをしたことへの感謝の気持ちらしいです。ちなみに木南先生と早瀬先生にも渡したかったみたいなんですが、木南先生は心も口も閉ざした深海の貝状態だし、早瀬先生は、『自分はちょっと手を貸しただけ』って言って遠慮したせいで、三人分の花束が俺のところに来ちゃったんですよ。てか、木南先生の思惑通りになりましたね。木南先生のおかげで俺、多分同期より頭一コ抜きん出てると思います」

 

 バケツを床に置き、ひとまず花瓶を木南先生の傍に持っていく。


「そんな差なんて、あっという間に追いつかれる程度の微々たるものよ。気を抜かずにキープしてよね。……って、なんかその花瓶、見覚えがあるんだけど」


「でしょうね。木南先生が春日先生のお見舞いの時に持って来たものですから」


「花といい花瓶といい、アンタは私を訪ねて来る時は絶対にお金を使わないわよね」


 木南先生が呆れた白い目を俺に向けた。


 嫌味を言われているのに、この感じが久々すぎて、泣きそうなほどに嬉しくて、楽しい。


「俺のこと、ケチ扱いしないでくださいよ」


 木南先生のイジリに言い返すのも久しぶりで、何だか少しぎこちなくなってしまう。


「え? 違うの? ていうか、貰ったのって花束だけ?」


 お久しぶりだというのに、木南先生のイジリは切れ味を失っておらず、ガンガン切り込んでくる。


「金一封も貰いましたけど」


「ちょっと待って。アンタまさか、私が聞かなかったら、三人分の花束を私に押し付けて、金一封は独り占めしようっていう魂胆だったの?」


 更には人聞きの悪いことさえ言い出す木南先生。


「ちゃんと言おうと思っていましたよ。俺が話し出す前に木南先生が聞いてきただけですよ」


「どうだか」


 木南先生が疑いの眼差しを向けてくるから、


「出せばいいんでしょ」


 唇を尖らせながら「そんな意地汚くないわ」と、突っ込んだままだった金一封をポケットから取り出して、木南先生に手渡そうと差し出した。


「別にいらないけど。早瀬先生も欲しいと思ってないだろうから、研修医が全部貰っていいよ」


 あれだけ独り占めを咎めたくせに、『じゃあ分け合いましょう』という話になると『結構です』とお断りする、面倒くさい女・木南先生。


「柴田です。さすが一流の医者は違いますね。お小遣い程度のお金はどうでもいい感じですか?」


 しかし俺は木南先生や早瀬先生とは違い、微々たる給料しか貰っていない研修医・柴田。貰える金は頂きたい。


「研修医、まだ金一封の中身、見てないの?」


「はい。いくら包んであるんでしょうね」

 

 臨時収入に思わずほっぺたもニンマリしてしまう。


「開けてみ?」


 そんな俺に、何故か木南先生までニンマリした。


 木南先生の表情を不審に思いながらも、言われた通り金一封を開けてみると、


「イヤイヤイヤ……。助かりますけども」


 中から出てきたのは、社食の食券三万円分だった。


 嬉しいは嬉しいが、現金だと思い込んでいた為、全力で喜べない。


 木南先生が「ぶはッ」と吹き出し、


「ここはそういう病院」


 とお腹を抱えた。


 楽しそうに笑う木南先生が、またもや俺の涙腺を刺激する。


 やっぱり俺はこれからもずっと、木南先生に馬鹿にされながら、嫌味を言われながら、それを言い返しながら、ふざけ合ったり、真面目な話もして、笑い合いたいし、叱られたいし、どうしても木南先生に、生きていて欲しい。

 

 木南先生が折角笑ってくれているのに、涙なんか見せてこの空気をぶち壊してたまるかと、


「知ってたんですか? 金一封の中身」


 不自然なほどに目を大きく開けて、眼球を乾燥させながら会話を続ける。


「私、何回か学長に呼ばれて花束も金一封も貰ったことあるもん」


「ふふふ」と笑い続ける木南先生を、『何回も学長室に呼ばれるとか、やっぱ凄い人なんだな』と改めて尊敬する。


「ところで研修医。なんでこの花瓶、水が入っているの?」

 

 木南先生が花瓶を見ながら至極当たり前のことを話す。


「柴田ですよ。花瓶だからですよ。当然じゃないですか、何言ってるんですか」


 と呆れる俺に、


「当然じゃないわ。この病院は生花禁止。そしてこの花はどう見てもプリザーブドフラワー。水に浸けちゃダメなヤツ」

 

 木南先生が呆れ返した。


「えぇ⁉ 何ですか、それ‼ てか、まじか‼ 速攻で水捨ててきます‼」

 

 この花のおかげで木南先生と会話が出来たのに、こんなクソみたいなミスで初めて耳にしたプリザーブドフラワーとかいうオシャレな名前の加工された花をダメにするわけにはいかない。


『何の為に苦労して重い物を運んだんだ』と無知な自分に苛立ちながら、花瓶とバケツを持ち上げ、両手が塞がれてしまっている為、急いで肘でドアを開けた。


「うわ‼ すみません」


 病室を一歩出た途端に誰かとぶつかってしまった。


「私は平気です。柴田くんこそ大丈夫ですか?」


 俺に追突された被害者は、早瀬先生だった。


「私も大丈夫です。あ、木南先生に用事ですか? 私、丁度離席しますので、どうぞ」


 早瀬先生に入室を促し、その場を離れようとしたが、


「うん。オペの日程が決まったんだ。……柴田くんから話してくれないかな。木南先生、私とは全く会話をしてくれないのに、柴田くんだと笑顔まで見せて話をするみたいだから。……つかぬことを聞いてしまいますが、柴田くんと木南先生は、その……お付き合いをされているの?」


 早瀬先生がとんでもない質問をしてくるから、持っていた花瓶を危うく落としそうになってしまった。


「はい⁉」


 半笑いになりながら聞き返す。


 俺と木南先生が……ダメだ、笑える。木南先生が笑ってくれそうなネタが一つ出来ましたよ。と、心の中で笑い転げる。


「二人、とても仲が良いし……抱き合っているところも見てしまいましたし」


 しかし、こんなにも俺が必死に笑いを噛み殺しているというのに、早瀬先生は至って真剣で、神妙な面持ちだった。というか、それを言うならば……。


「私も見ましたけどね。早瀬先生と桃井さんが抱き合っているところ。まだ付き合っていないと伺っていますが、実際のところはどうなんですか?」


 俺と木南先生が付き合うなんてことは百パーセントないが、桃井さんと早瀬先生は普通に有り得る。二人並べば美男美女でお似合いだ。


「あの時は、落ち込む私を桃井さんが親切に慰めてくださっただけです」


 早瀬先生は「桃井さんとはそういう関係ではありません」ときっぱり否定した。


「それにしたって、息子さんのお墓参りに一緒に行ってみたり、科が違うのにも関わらず、早瀬先生が桃井さんと一緒にいるところ、結構よく見かけるんですけど」


 早瀬先生の話に説得力がなさすぎて、『一体どういうつもりで桃井さんと接しているんだ、この人は』と腹立たしささえ覚える。


「お墓参りは……木南先生と蓮の気持ちを考えればお断りするのが正しかったのですが……息子に手を合わせたいと言ってくれた桃井さんの気持ちを断る理由はないと、あの時は判断してしまいました。浅はかだったと思っています。最近桃井さんと一緒にいる時間が多いのは、仕事の相談に乗っているだけですよ。同じ科の人にはし辛いようで、私なら科も違うし、もともと脳外にいましたから、相談内容を聞いてあげられるので、桃井さんも話し易いのだと思います」


 俺の質問に、早瀬先生は真摯に答えてくれたが、『この人、桃井さんの気持ちに気付いていないとでも言うのか? あんなに分かり易いのに? 気付いていての行動なら、早瀬先生はただのタラシだな』と、どうにもこうにも煮え切らない。


「で、柴田くんの方は? 木南先生と……」

 

 納得のいっていない俺に気付いていないだろう早瀬先生が話を戻した。


「あるわけがないじゃないですか」


 木南先生とどうこうなる可能性が無さ過ぎて、答えることすら面倒臭い。


「だったらなんで抱き合ったりしていたんですか」


 早瀬先生がちょっとキレ気味で問い詰めてきた。


「山本蓮くんが亡くなって早瀬先生が辛かった様に、木南先生だって心を痛めていたんですよ。桃井さんが早瀬先生を慰めたいと思った様に、私だって木南先生の気持ちに寄り添いたいと思っただけですよ。木南先生は私の尊敬する大事なオーベンですから」

 

 本当は半分当て付けだったが、そこは割愛して嘘偽りのない半分だけの事実を話した。


「本当にそれだけですか?」


 早瀬先生が念を押す様に俺に問質す。


 誰がどう見ても師弟関係にしか映らないだろう木南先生と俺を、どうしてそんな風に勘違い出来るんだ、早瀬先生は。勘違いが迷惑すぎる。てか、そんな甚だしい思い違いをしてしまうということは……。


「早瀬先生、もしかして、今でもやっぱり木南先生のこと……」


「私にそんな資格ないでしょう」


『好きか嫌いか』を答える質問を拒む様に、早瀬先生は表情に寂しげな影を落としながら俺の横を通り過ぎると、木南先生の病室に入って行った。


「色々うまく行かねぇなぁ」


 呟いてはため息を吐くと、今度こそ花瓶とバケツの中の水を捨てに給湯室へ向かった。

 

 流し台で水を捨て、花を一本一本拭くのが面倒な為、一気に大雑把に布巾で水気を拭き取ると、木南先生の病室へ戻る。


 木南先生の部屋のドアをノックしようとした時、中から早瀬先生の声だけが聞こえてきた。

 

 まだオペの説明中かな。邪魔しない方が良いだろうな。という気は利かせるくせに、どうしても野次馬根性が疼き、知りたがりの俺の手が静かにゆっくりドアを少しだけスライドさせ、中の様子を伺う。


 中では、オペの日時や内容を話す早瀬先生に、木南先生は見向きもせずにただ窓の外を眺めていた。

 

 一通り話し終わった早瀬先生が、


「何か聞きたいことはありませんか?」


 木南先生に不明点を確認した。


「何でもいいですか? ずっと気になっていたことがあるの」

 

 シカトを決め込んでいると思われた木南先生が、口を開いた。


「はい。どんなことでも仰ってください」

 

 早瀬先生が嬉しそうに返事をした。


「息子と昔の彼女の命日が一緒って、お墓参りが一日で済むから都合が良いの? それとも一日に二箇所にお参りに行かないといけないからしんどいの? どっち?」


 しかし、木南先生の口から出てきた言葉は、早瀬先生の心臓を抉る質問だった。


「……物凄い嫌味を言うんですね、木南先生。どっちでもないですよ。考えたこともないですよ、そんなこと」


 

 あまりにも酷い木南先生の質問に、早瀬先生は怒っているのか悲しんでいるのか、声を震わせながら反論した。


「……言わせなさいよ、この程度の嫌味くらい」


 冷笑した木南先生の声は低く、暗かった。


「私の病気は、治る可能性が大いにある。だから治療したい早瀬先生の気持ちは医者として理解は出来る。だけど、捨てた女の命じゃない。もうあなたには関係のない人間の命じゃない。医者の自己満足の為に私の命を利用しないで」


 木南先生の声に湿り気が帯び出した。木南先生が涙を堪える時に出す声だった。


「……何を言っているんですか? 木南先生」


 戸惑っている様子の早瀬先生の声は震え続けたままだった。


「蓮がいなくなって、悲しくて辛くて、どうしていいのか分からないくらいに苦しかった。あの時一緒にいたら、きっと私のことだから、あなたに恨み辛みを言いながら罵っていたと思う。でも、一人にしないで欲しかった。傍にいて欲しかった。一人で乗り越えられるほど、容易い出来事ではなかったもの。だけどあなたは私に、あなたを罵倒することも、あなたの前で泣き喚くこともさせてくれずに、家を出て転科をして、私を突き放して捨てた。……この三年間、私は仕事に没頭することで、何とか生きていたの。それがなくなってしまったら、私にはもう、生きる術が分からないの。それなのに、むやみに生かさないで。……あなたは本当にどこまでも残酷」


 木南先生が切れ切れの声で話す。俺がいる位置からは木南先生の表情を伺えはしないないが、多分、我慢しきれずに泣いてしまったのだろう。


「違う。全然違う‼ 私はただ……」「嫌味一つ言われたくらいで、そんなにも声を震わせて動揺してるくせに、よく『全然違う』だなんて言えますね」


 早瀬先生の言い分を最後まで聞こうとしない木南先生の声は、鼻水交じりでぐしゃぐしゃなのに、言い切って最後に「フッ」と吐いたため息交じりの笑い声は、不思議なまでに乾いていた。


「もう質問はございません。そろそろ研修医が戻ってくる頃です。早瀬先生は仕事に戻ってください」


「…………」

 

 言い返すことも出来ずに立ち尽くすは早瀬先生。


「早く戻ってください。早瀬先生がここにいると、気持ちの切り替えが出来ない。泣き面を研修医に晒したくないの」


『死にたい』と口にしながらも強気な木南先生は、気弱なのか気丈なのか分からない。

 

 ただ、木南先生が俺に泣いてしまったことを隠したいと思っているのであれば、木南先生の目や鼻がどんなに赤くなっていたとしても、気付いていないふりをしようと思った。


「……分かりました。では、失礼します」


 木南先生に返す言葉が見つからないのか、早瀬先生は木南先生に頭を下げると、こちらへ向かって歩いて来た。


 ドアを開けると、俺と目も合わさずに、俺の横を通り過ぎて行く早瀬先生。


「ちょっと待ってくださいよ、早瀬先生」

 

 呼び止めても、俺の声が聞こえないかの様に、歩き続ける早瀬先生。


「待ってくださいって‼ さっきの話、本当なんですか?」

 

 早歩きで早瀬先生に追いつき、早瀬先生の前に立ちはだかると、無理矢理早瀬先生の足を止めさせた。


「家も医局も、木南先生が早瀬先生を追い出したんじゃないんですか? 早瀬先生が自ら出て行ったんですか? 木南先生を捨てたって……」


「私は、木南先生に追い出されたりなんかしていない。木南先生を捨てたりもしていない。……でも、逃げてしまった」

 

 早瀬先生が、歪んだ表情で、擦れる声で、後悔を露わにした。


「私の不注意で、私が目を離したりしたから、蓮は殺されてしまった。私が何の関わりもなかった蓮を、昔の恋人のお墓に連れてさえ行かなければ、あんなことにはならなかったのに……。全部私が悪い。蓮の命を、木南先生から愛する蓮を、奪い取ってしまった。……木南先生に、合わせる顔がなかった」


 早瀬先生が肩を震わせながら、視線を床に落とした。

 

 なんで、桃井さんが『木南先生が早瀬先生を追い出した』なんて言ったのか、何となく分かった気がする。


 桃井さんは俺に、嘘を話したつもりはないんだと思う。

 

 俺に木南先生を悪く言い、悪印象を持たせたところで、桃井さんに何の得もないから。


 きっと桃井さんだけでなく、木南先生と早瀬先生を知る病院スタッフのほとんどが、勘違いをしているのだろう。


 木南先生は強気で強がりだから、周りに気を遣わせまいと取った毅然とした態度が、木南先生の様には振舞えない早瀬先生を追い詰めた様に周囲の人間の目には映ったのかもしれない。


 つくづく損な性格だな、木南先生は。と苦笑いをしてしまう。


「神様は、私から大切な人を根こそぎ取り上げて行く。私は誰も幸せに出来ないんです。私の傍にいると、みんな不幸になってしまう」


 床に視線を落とした早瀬先生は、脱臼したかの様に肩も落とした。


「酔っぱらっているんですか? 早瀬先生」

 

 そんな早瀬先生にも半笑いになってしまう。


「え?」


「酒入ってないですよね? 仕事中ですし。自分に酔いすぎですよ。『神様は~』って言い出した時、どうしようかと思いましたよ。何をまた逃げてるんですか。逃げてしまった過去は、もう取り返しが付きませんが、今また逃げるなんて有り得ないですよ」


 薄ら笑いを浮かべる俺に、


「真剣に話をしている人をからかうのは、趣味が良いとは言えないよ。柴田くん」


 早瀬先生が嫌悪感を醸し出した。


「早瀬先生がふざけたことをぬかすからですよ。木南先生があんなになるまで苦しんで悲しんでいるのに、逃げてんじゃねぇよ。何で木南先生の怒りも哀しみも受け止めて支えてやらなかったんだよ。何で木南先生をひとりぼっちにしたんだよ。何で……」


 早瀬先生に喰ってかかりながら、途中で笑えなくなり、悔しさのあまり最後まで話すことが出来なくなった。


 今までずっと、木南先生をワーカホリックの仕事馬鹿だと思っていた。木南先生はきっと、早瀬先生と結婚する前から仕事熱心な人だったとは思うが、オーバーワーク気味に仕事をしていたのは、辛い気持ちを誤魔化す為だったのだろう。


 計り知れない木南先生の苦しみを、想像してみたところで、俺の脳みそでは足りないくらいに辛かったのだろうと、木南先生を思うと胸が潰れそうに痛い。


「木南先生の心を折ってしまったのは私です。でも、あの時は私もズタズタだった。ボロボロの人間に、木南先生を支えるなんてことは出来ない。共倒れになって、二人共潰れてしまっていたでしょう」


 早瀬先生は、逃げてしまったことを後悔はしているだろうが『仕方がなかった』とでも言いたげに「簡単なことではないんだよ」と俺の『何で』を突っ撥ねた。


「だから何だよ。簡単じゃなかったら逃げていいのかよ。難しいことには目を逸らしていいのかよ。木南先生が傷付くのは仕方のないことだったのかよ。自分も傷付いていたから、木南先生を支えられなかった? 共倒れになっていた? だったらテメェが下敷きになれよ‼ 好きな女に痛い思いさせてんじゃねぇよ‼」


 本当は早瀬先生の胸倉でも掴んでやりたいところだが、生憎両手が塞がっており、早瀬先生にとてつもない怒りを感じているのに、両手いっぱいの花の隙間から顔を出し、雄叫ぶと言う、カオスな状況に、更に苛立つ。


「……木南先生が、どうして柴田くんには心を開くのか、分かった気がする」


 俺にボロクソに言われ腹が立っているだろう早瀬先生は、俺に怒りを向けることなく、それどころか「フッ」と息を漏らして笑った。


「?」


「柴田くん、木南先生に似てる。姉弟みたい。だから木南先生は、柴田くんを目に掛けているんだな」


 早瀬先生の中で何かが腑に落ちたのか、納得した様に微笑む早瀬先生。……全然腑も落ちてこないし、納得も出来ないんですけど。


「どこがですか⁉ 全く似てません‼ 私はあんなに気が強くありません。自分はもっと謙虚です」

と主張してみたが、


「研修医の分際で、何年も先輩の医師にあんな口の利き方しておいて、よく言うよ」


 早瀬先生にアッサリ言い返されて、


「…………」


 返す言葉もない。


「真っ直ぐなところとか、一生懸命なところとか、凄く良く似てるよ。木南先生と柴田くん。だから私は、柴田くんにあんな物言いをされても、キミを憎めないんだと思います。柴田くんの言葉が正しいと思いましたし」

 

 俺に散々な言われ方をしても怒りもせずににこやかでいられる早瀬先生を、流石木南先生と結婚していただけあるなと思う。

 

 木南先生と俺は、仕事の相性は良いとは思うが、それ以外は合わない気がする。


 何せ二人共、少々気が短い。木南先生と俺に類似点があるなら、そこだと思う。だけど、


「私が真っ直ぐで一生懸命に見えるとしたら、それは木南先生の影響です。木南先生が俺の意識を変えたんです。だって私、木南先生に出会うまでは結構適当に生きてましたもん。医者になったのも、これと言った理由もないですし。初めは共感出来なかったんですけど、木南先生の医学に対する向き合い方ってカッコイイですよね。早瀬先生が木南先生を憧れる気持ち、私も分かりますよ。……ただ、確かに木南先生は『真っ直ぐで一生懸命』なんですけど、『頑固で必死』な感がありますよね」


 木南先生と俺は、似ているのではなく、俺が無意識に木南先生に寄りに行っているだけかもしれない。


「『頑固で必死』かぁ。私が木南先生をそんな風にしてしまったのでしょうね」


 淋しそうに、申し訳なさそうに目を伏せる早瀬先生に、


「そうですよ、早瀬先生のせいですよ。責任を持って『真っ直ぐで一生懸命な木南先生』に戻してくださいよ。早瀬先生、今も木南先生のことが好きなんでしょう?」


 下手な同情など全くすることなく嗾けながら、さっきはぐらかされた質問を再度投げかけた。


「無理だよ。私、木南先生に悉く拒否されているから。木南先生は、心底私を嫌悪しているんだと思います。……柴田くんは本当に、木南先生を尊敬しているだけですか? ……柴田くんにその気がなくても、木南先生は違うかもしてない。柴田くんなら、木南先生の心を動かせるのではないでしょうか?」


 しかし早瀬先生は、またも回答を避け、頓珍漢極まりない妄想を暴走させた。


「今度は寝ぼけてるんですか? 早瀬先生。木南先生が私をそんな目で見ているわけがないじゃないですか。今の話、木南先生にしたら本当に嫌われますよ、早瀬先生」


 早瀬先生に細ーい目を向ける。


 早瀬先生は優秀な医師だけど、男女の話になると俺以上に馬鹿だ。


「そんなの分からないじゃないですか」


 やっぱりお馬鹿な早瀬先生は、馬鹿丸出しで反論してきた。


「何で分からないんですか。普通分かりますよ。早瀬先生、離婚してまだ三年しか経ってないのに、もう木南先生の性格を忘れてしまったんですか?」


「……え?」


 恋愛偏差値が底辺であろう早瀬先生には、俺の言っていることがさっぱり通じないらしい。


「木南先生って、自分の欲求を殺す為に強めに否定する癖があるじゃないですか。山本蓮くんの時もそう。本当はオペして助けたくて仕方がなかったのに、それは無理だと分かっていたから、自分を諦めさせる為にきついことを言っていたんですよ。藤岡さんの時も、藤岡を先にオペしたがる私を、『医者に人の善悪を裁く権利なんかない』って非難したくせに『アンタの正義感は嫌いじゃない』って、私の気持ち自体は否定しなかったってことは、木南先生も多分、藤岡さんを優先したかったんだと思うんです。野村さんのオペだって、何度も強く断られました。木南先生のことだから、病気で体力が落ちているにも関わらず、オペをやりたがる自分を否定したかったんだと思います」


 長々語りながら説明したが、


「それは、受け取り方の問題じゃない? 柴田くんはそう解釈したとしても、木南先生の真意は違うかもしれない」

 

 早瀬先生は全然理解してくれない。


「早瀬先生はグリオーマのオペが得意だった。でも、木南先生が執刀をしてくれれば、野村さんのオペの助手は、正直早瀬先生じゃなくても、手が空いている脳外の先生に頼んでも出来ていた手術だったと思います。食道癌のオペを受ける気のなかった木南先生にとって、野村さんのオペは人生最後のオペのつもりだったはずです。そのオペの助手に、外科に転科した早瀬先生を呼んだのは、最後に早瀬先生とオペがしたかったからですよ。じゃなきゃ、『誰と恋愛しようが付き合おうが関係ない』どうでも良いはずの人間にわざわざ頼んだりしませんよ。『関係ない』って言い放ったのだって、早瀬先生を【関係のない人】と思い込みたかったからだと思います」


「……本当にそうかな」

 

 早瀬先生は、木南先生に未確認の俺の話を鵜呑みには出来ない様子だった。


『本当にそうか?』と聞かれれば、俺は木南先生ではないから『本当にそうです』とは答えられないけれど、


「本当のところは木南先生に聞いてみないと分からないですけど、少なくとも木南先生が必要としているのは、私ではない」

 

 と、断言出来る。だって、木南先生が俺を求めたことなど一度もない。


「木南先生に気がない割には、木南先生のことをよく知ってるよね、柴田くん」


 この期に及んで未だに俺を怪しんでいる早瀬先生。


「木南先生がオーベンをしてくれていた期間は、多分木南先生の一番近くにいたのは私だと思うので。あんなに不器用で自己表現が下手な人、誰かが気付いてやらなきゃダメでしょう。じゃないとあの人、死んじゃいます。でも私は、木南先生の病気に気付かなかった」


「私は他の人より鈍感な人間です。どうやって……」


 早瀬先生が首を左右に振りながら、やりきれなさを露わにした。


「……木南先生は不器用だし、早瀬先生は鈍感だしで、二人はどうやって結婚生活を送っていたんですか?」

 

 早瀬先生は木南先生を今も想っていて、木南先生も早瀬先生を必要としているのに、二人共面倒な性格をしている為に、修復方法が見つからないので、そもそもの振り出しに戻ってみることにした。


「木南先生と私は、お互いに【誤解を招きやすい性格】である自覚がありました。それで、二人の間で一つだけルールを作っていたんです。『兎に角たくさん話をしよう』と」

 

 早瀬先生が過去を懐かしむ様に、遠い目をした。


 すれ違いたくなくて、勘違いを生みたくなくて、それほど口数の多い方ではない二人が、会話を重ねて繋がっていたいと願っていた。

 

 そんな二人の会話が途切れ、すれ違い、誤解が生じてしまった。


「じゃあ、木南先生と兎に角たくさん話をしましょうよ。それで誤解が解けても尚、木南先生が早瀬先生を避けるのなら、その時は残念ですが諦めてください。今、チャンスじゃないですか。木南先生はベッドから動けない。『聞きたくない』と拒否したところで、逃げられない。一方的に言うべきことを全部喋ってしまえばいい。逃げられない人間から逃げたりしないですよね、早瀬先生。私は、やっぱり今の状態のまま、木南先生に無理矢理オペを受けさせることに抵抗があります。納得して臨んで欲しいです。早瀬先生なら、木南先生を説得出来るはずです」


 だって、木南先生と早瀬先生の間にあるのは、怨恨じゃない。ただの誤解だ。


「どうしても柴田くんの話は【柴田くんの想像力豊かな物語】に思えて鵜呑みには出来ないけれど……でも、もう逃げるべきではないと思う。今、逃げ出してはいけないと思います。私に木南先生を説得出来るかどうかは分かりませんが、今度こそちゃんと下敷きになろうと思います」

 

 早瀬先生は、俺の話にはほぼ納得していない様だが、それでも木南先生と向き合う決意をしてくれた。

 

 とりあえず、結果オーライだ。


「木南先生の手術はいつですか?」


「来週の月曜日です」


「じゃあ、それまでに。任せましたよ、早瀬先生‼」

 

 両手を花で塞がれている為、早瀬先生にガッツポーズでも向けて鼓舞することが出来ないので、花と花の隙間からアイコンタクトで強めの眼力を送る。


「今日、家で木南先生に話したいこと、言うべきことを書き出してまとめたいと思います」

 

 早瀬先生が俺に応える様に頷いた。


「そこまでしなくても……。もっとリラックスして話した方が……」

 

 早瀬先生の気合の入れ様に半笑いになっていると、


「私は上手に話が出来る方ではないので、伝え忘れのない様に、言いたいことを全て話せる様に、下準備が必要なんです。コミュニケーション能力が高い柴田くんにはまどろっこしく見えてしまうでしょうが、私は柴田くんの様にフランクにはなれないんです」

 

 早瀬先生も苦笑いを浮かべた。

 

 木南先生と会話をするだけのことに、決意と準備を要する、木南先生並に不器用な早瀬先生に、どうにか頑張って欲しいと思った。


「柴田くん、二の腕疲れたでしょう? 私は医局に戻るので、早くその花を木南先生に届けてさしあげてください」

 

 早瀬先生は俺の腕を気遣うと、俺が強引に止めた足を動かした。

 

 水を捨てたといえども、実はわりと花瓶自体が重く、上腕二等筋がヒクヒクしていた。気付いてくれてありがとう、早瀬先生。


「そうします。足止めしてすみませんでした。失礼します」

 

 早瀬先生に軽く頭を下げると、早瀬先生は少し微笑んで、外科の医局に戻って行った。

 

 そして俺は木南先生の病室へ。


「失礼しまーす」

 

 またも木南先生の返事を待つことなく、勝手に部屋の中へ入ると、


「遅かったね。水を捨てに隣の棟まで行ってきたの?」

 

 俺が戻るまでの間に、すっかり気を取り直した木南先生は、さっきまで泣いていたことを全く感じさせず、いつもの調子で冗談を言ってきた。

 

 俺の前では【強い先輩】でいたいのだろう。


「早瀬先生と立ち話してたんですー。木南先生、来週の月曜日にオペなんですね」

 

 木南先生のつまらないボケを面白く返す腕など、芸人でもない俺が持っているはずもなく、至って普通に返事をしながら、今度こそ木南先生の枕の位置から見える場所に花を置いた。


「……らしいね。……ねぇ、研修医。研修医が私のオペを執刀してくれない? 私が研修医の練習台になる」

 

 木南先生は一瞬で表情を曇らせると、悪あがきの様なお願いをして来た。


「無理です。俺、明日から救命ローテなので、そんな時間ないです。てか、酷いですね、木南先生。俺が執刀すれば失敗するかもしれないと思っての発言ですよね。失礼すぎる」

 

 木南先生に白い目を向けながら唇を尖らすと、


「バレたかー」

 

 木南先生は、カラッカラに乾いた笑いを零した。

 

 そして溜息を一つ吐くと、俺が飾った花を眺める木南先生。


「……綺麗な花だねー。高そう。この花、私じゃなくて桃ちゃんにあげれば良かったのに。馬鹿だねー、研修医」


 木南先生が「フッ」と鼻で笑った。

 

 ……確かに。その手があったか‼ と今更思ったが、花の活用法に頭を悩ませていた時、木南先生の顔しか浮かばなかった。

 

 想いを寄せている桃井さんの顔は、一瞬も過ぎらなかった。

 

 それはきっと、というか、絶対に木南先生のせいだ。

 

 木南先生が治療にもオペにも前向きでいてくれたら、この花の半分は木南先生にあげたかもしれないが(元々、木南先生も貰う予定の花だったし)もう半分は桃井さんに渡していたはずだ。

 

 なのに、木南先生が治療も手術も拒むから。死にたがっているから。だから、折角のお高い花を全部木南先生に献上することしか思い浮かばなかったんだ。

 

 全部木南先生のせいだ。

 

 木南先生のことが心配すぎて、俺の恋愛がおざなりになってしまっている。

 

 全て木南先生が悪い。


「桃井さんには、ちゃんと自分で購入した花をプレゼントしたいので」


『木南先生の部屋に持って行く以外、思いつかなかった』などとは言いたくなくて、捻くれた言葉を返すと、


「嫌な性格。桃ちゃんにチクるぞ」

 

 木南先生が「チッ」と舌打ちをした。


「無理ですって。木南先生、桃井さんに嫌われてるじゃないですか。木南先生の話なんか聞いてもらえませんって」

 

 木南先生に意地悪に笑うと、


「薄々気付いていたことをハッキリ言うなよ、研修医」

 

 ムスっとした顔をした後に、「フッ」と木南先生も息を漏らして笑った。そして、


「お花、ありがとう。仕事に戻りな、研修医。明日から救命だったら、今日は早く帰ってしっかり睡眠取りな。救命はまじで忙しいから。いっぱい食べてぐっすり寝るんだよ。体調管理には……」

 

 俺を気遣う言葉を言いかけて、やめた。


「それ、今の木南先生に言われても響かないんですけど」

 

 すかさず木南先生にツッコミを入れると、


「だろうと思って、言うのやめた」

 

 木南先生が「あはは」と舌を出して笑うから、俺もつられて笑った。

 

 木南先生の笑顔を見ながら、早く宿題の答えを出さなければと思った。

 

 早瀬先生が木南先生を守る役目なら、後輩の俺はきっと、木南先生を下から押し上げる役割なんだと思う。

 

 少しでも、木南先生の背中を押せたら。木南先生の重い荷物を、ちょっとでも軽く出来たら。

 

 宿題の提出期限は、月曜日。



 翌日から、救命ローテが始まった。


 やはり、救命は忙しかった。


 次々と急患が運ばれて来ては、目まぐるしく働き、瞬く間に一日が終わる。


 そして、あっという間に木南先生の手術前日になった。

 

 終業後、何とか絞り出した宿題の答えを伝えに、木南先生の病室へ向かうと、一足お先に早瀬先生が入って行くのが見えた。


 早瀬先生が木南先生にどんな話をするのか気になって、『なんてゲスな性格なんだ、俺は』という自覚はあるのに、忍び足で木南先生の病室に近づいては、ゆっくり静かにドアをスライドさせ、中の様子を盗み見る。


「明日、オペですが体調は如何ですか? 木南先生」


 何となくぎこちない早瀬先生の喋り方に、『あぁ、やっと『木南先生に話したいこと』を纏めることが出来たんだろうな。きっと、今からそれを話すんだろうな』と察した。


「『不調です』と返事をしたら、明日のオペは中止になりますか?」


 木南先生は今日も変わらず、早瀬先生に素っ気ない。


 早瀬先生に捨てられたと思い込んでいる木南先生は、早瀬先生に虚勢を張って、傷付くことを回避したいのかもしれない。


「それが事実であれば、延期にはなります。中止にはなりません。……でも、私がどんなに綺麗に木南先生の癌を取り除いたとしても、術後の治療も上手くいったとしても、木南先生はきっと、自分で命を捨ててしまうのでしょうね」


 早瀬先生が木南先生の質問を否定し、


「だから、無駄な治療に時間を割くのは辞めましょうよ。早瀬先生は優秀な医者です。こんなことことをしている暇に一人でも多くの患者さんを助けてください」


 木南先生は早瀬先生の問い掛けを肯定した。


「『無駄な治療』『こんなこと』ですか……。私は、木南先生の命をそんな風に思えません。もし、本当に木南先生が死んでしまうのなら、私もそうしようと思います。私だって、蓮に会いたくて会いたくて仕方がないです」


 早瀬先生の口から出た言葉に、『何を言っているんだ、お前は‼ 散々考えたことがこれかよ‼』と、思わず木南先生の病室のドアを開け、中に入ろうとした時、


「あなたはまだ生きていて。蓮の前で、あなたと仲良く振る舞う自信がないから。蓮に私たちがギスギスしている所を見せたくない。あの子をガッカリさせたくない」


 木南先生が首を左右に振りながら、早瀬先生の馬鹿みたいな考えを突っ張ねた。ので、早瀬先生にイライラしながらも、もう少し様子見することに。


「木南先生も生きてください。死んだりしないでください。木南先生が生きていてくれるなら、どんなに嫌われてもいいと思いました。木南先生の病気を知った時、何故木南先生が病気を隠していたかを考えた時、木南先生の気持ちを悟りました。木南先生が死のうとしていると察した時、何が何でも阻止しなければいけないと思いました。だから、大事な孫を死に追いやった私の顔など見たくもないだろう木南先生のお母様を呼びつけ、強引な診察をしてもらいました。 どんな手を使っても、木南先生を死なせるものかと思いました」


 時間を掛けて言いたいことを纏めたはずなのに、纏まりの悪い早瀬先生の話。


 なんで木南先生を死なせたくないのか、その理由を何故言わない⁉ と、相変わらず不器用な早瀬先生に、盗み聞きをしているこっちの気が気でない。


「……私が死んだって、困ることなんて何もないでしょう?」


 当然、木南先生にも早瀬先生の気持ちは伝わらない。


「この前私は、『蓮のことで私を責めるだろう木南先生を捨てた』という木南先生の話を『全然違う』と否定しました。『全然』と言うのは嘘だったかもしれません。そんな気持ちが全くなかったかと聞かれれば、そうではなかったと、今となっては思います。でもあの時は、そんなことよりも、あなたにこれ以上辛い思いをさせてはいけないと思いました。私と居たら、いつも蓮のことを思い出してしまうだろう。木南先生から離れることが木南先生の為なんだ。それが最善なんだと判断し、あなたの気持ちを聞こうともしませんでした。恨まれて当然なのに、あなたに嫌悪されるのが怖かった。……だから【木南先生の為】という自分に都合の良い解釈をして、自らあなたを避け、あなたから逃げてしまった」


 話し下手な早瀬先生は、遂には木南先生の質問を無視し、自分の言いたいことだけを話すから、会話としては成立しなくなってしまっている。


 あの日俺は早瀬先生に『言いたいことを一方的に話せばいい』と確かに言ったけれど、早瀬先生の不器用具合が俺の想像を越えていた為、早瀬先生がこの話をちゃんと終着点まで導けるのか、かなり不安。


「『逃げた』ことと『捨てた』ことは同じことでしょう?」


 迷走する早瀬先生の話に、木南先生も困惑している様子。


「全然違います。私が木南先生を捨てたとしたら、わざわざ転科などしてこの病院に残ったりしません。別の病院に移ります。木南先生が医者の仕事に誇りを持っていることを、私は知っています。だから、木南先生の気を散らせたくない。木南先生の目障りになりたくない。邪魔をしたくない。でも、木南先生を遠くからでも見ていられる距離にいたいと思って転科したんです。木南先生が病院を辞めると知った時、木南先生が医者を辞めるわけがないと思って、木南先生が次に行く病院を、知り合いに聞き回ったりしながら血眼になって探したんです。木南先生に嫌がられると分かっていましたが、自分も木南先生と同じ病院に移れたらと思いました。でも、見つからなくて、木南先生は病気になっていて、死にたいだなんて言っていて……」


 早瀬先生は、『本当にちゃんと書き出して纏めたのか⁉』と確認したくなるほどの語り具合で、終いには言葉が繋がらなくなってしまった。


「私から逃げたかったんでしょう? それなのに、私と同じ病院で働きたいと思う早瀬先生の気持ちが分かりません」


 だから、木南先生を益々困らせてしまう。


「木南先生自体から逃げたかったわけではありません‼ そうじゃなくて……」


 どうしても上手く話す事の出来ない早瀬先生。


「早瀬先生は、本当に蓮に会いたくて会いたくて仕方がないですか?」


 見兼ねた木南先生が話を変えた。


「当然です。私も、木南先生と同じくらい蓮を愛していました」


 大きく頷きながら、即答する早瀬先生。


「蓮が死んでしまって、あなたもいなくなってしまった時、すぐに蓮の後を追うつもりでした」


 木南先生が衝撃的な事実をポツリと口にした。


「あの日私は、『蓮くんは、ご主人の知人のお墓がある墓地で殺された』と警察の方から聞いていました。テレビでも『父親の友人のお墓参りの際……』と報道されていました。友人ではなく昔の恋人のお墓であることを知ったのは、週刊誌を目にしたからでした。……あんなに『たくさん話をしよう』と約束していたのに、何で教えてもらえなかったんだろうって、悲しかった。あんな形で知らされて、凄く辛かった。人間ってね、悲しいことが重なると笑うんですよ。あの時私は、これ以上の哀しみなんて存在しないんだろうなって思うくらいに苦しかったのに、『あぁ、浮気をされた時の気持ちって、こんな感じなのかな』って思ったら、泣きながら笑えてきたんです」


 木南先生が、俺の知らない当時の話をし出した。


「私はあなたが、私と結婚する前から、した後もずっと、高校時代の彼女さんのお墓参りに毎月行っていることを知らなかった。どうして話してくれなかったのだろうと考えた時、『私には触れられたくない大事な思い出なのだろう』と思いました。もし、彼女さんが生きていたなら、あなたは私となんか結婚しなかっただろうなと思いました。彼女さんと結婚して、蓮ではない子どもと幸せに暮らしていたんだろうなって。あなたが、本当に愛していた人と結婚出来ていたならば、蓮は産まれてこなかった。産まれていなかったはずの命が消えただけ。……そう考えたら、私のこの悲しさは、虚しさは、一体何なのだろうか? と、わけが分からなくなりました。あなたとの結婚生活も、蓮との時間も、私にとってはかけがえの無いものでした。でも、それは全部虚像でした。彼女さんの病気が治せていたら、あるはずのなかった家族なのだから。存在する予定ではなかった蓮がいなくなったことに、哀しみ苦しむ自分の感情が間違っているのではないかと考えたりもしました。そもそもあるはずではなかったものが、なくなっただけ。あなたと結婚していない時間、蓮がいないことが自然。今までが不自然だったんだ。自然な生活に戻るだけ。そう思いながら、蓮がいなくなった後の時間を過ごしていました。……でも、一度幸せな不自然に触れてしまうと、自然に還ることはなかなか難しいです」


 ずっと一人で耐えていた胸中を明かす木南先生。


「違う‼ そうじゃない‼」


 早瀬先生が「どうしてこんなに拗れてしまったんだ」と頭を掻き毟った。


『お前が何も言わずに木南先生の前からいなくなったからだろうが‼』と心の中で突っ込みながらも、『ちゃんと木南先生に全部話せ‼ 逃げるな‼ 頑張れ早瀬先生‼』とドアを挟んだ廊下から念を送り、応援する。


「確かに、死んだ彼女が生きていたら、木南先生と結婚していなかったかもしれません。でもそれは、彼女が生きていたら木南先生に出会うはずがなかったからです。私が医者を目指したのは、死んだ彼女と同じ病気で命を落とす人間がいなくなればいいと思ったからです。彼女がいなくなってしまうまで、医者になりたいと思ったことさえありませんでしたから」


 俺の念力が届いたのか、早瀬先生は怯むことなく木南先生に反論した。


「高校時代に私とも出会っていたとしたら?」


 が、木南先生の追及は続く。


 普段、男勝りな木南先生が、普通の女の子みたいな可愛い質問をするから、『何だかんだ、やっぱり女子なんだよな、木南先生も』と、ちょっと微笑ましくなった。


「そんなこと、絶対にありえないでしょう。木南先生、私が通っていた高校のレベルを知っているでしょう? 医学部進学者は毎年一桁の中堅校です。でも、木南先生は中学から超進学校に通っていたエリートじゃないですか。そんな私たちが、いつどこでどんなタイミングで出会うというのですか。万が一、出会っていたとしても、絶対に関わることなどなかったはずですよ」


 早瀬先生が変にムキになって答えるから、木南先生が半笑いになってしまっている。が、話すことに一生懸命な早瀬先生は、木南先生の様子に気付かない。


「私は、中堅高校から死に物狂いで勉強して、やっと医学部に入った人間ですから、卒業して医者になっても周りに遅れを取ってしまう落ちこぼれでした。くじけそうになる私を、木南先生はいつも励ましてくれた。相談に乗ってくれた。不器用な私のオペの練習にも付き合ってくれた。木南先生がいなかったら、私は医者になることを諦めていたかもしれません。木南先生の様な医者になりたいと思いました。木南先生に追いつきたくて、必死に努力をしてきました。……まだまだ木南先生の足元にも及びませんが。木南先生に憧れて、付き合う様になって、結婚をして。木南先生に恥をかかせたくない。木南先生が自慢出来る様な男になりたいと、私なりに頑張ったつもりです。高校時代の彼女には、感謝しかありません。高校時代、彼女がいてくれたおかげで、本当に幸せだった。彼女がいたから、あなたに出会うことが出来た。蓮という子宝にも恵まれた。あなたはそれを『不自然』と言うけれど、私にとっては『奇跡』です」


 真っ赤な顔で涙目になりながら切々と語る早瀬先生の姿に、木南先生が真顔になった。


「死んだ彼女のお墓参りのこと、悪いことをしているわけではないのに、何でか後ろめたい気持ちになっていました。どんどん言うタイミングを失って、結局あんな形で木南先生に伝わってしまったこと、本当に後悔しています。木南先生に『昔の彼女を引き摺っている』と誤解されたくない気持ちもありました。彼女は今でも私にとって大切な存在で、感謝している人物です。でも、木南先生は私にとって別格です。どうしても失いたくない人です。だから結婚したんです。彼女が死んでしまったから、あなたと結婚したんじゃない。あなたと結婚したくて堪らなかったから、したんです。……お願いです、木南先生。どうかどうか、死なないでください。お願いですから、生きていてください。お願いします」


 勢い良く頭を下げた早瀬先生の目から、涙が零れ落ちた。


「……早瀬先生は、私のことが……好きですか?」


 核心を得たい木南先生が、遠慮がちに早瀬先生に尋ねる。


「…………」


『好きです』と答えれば良いだけなのに、黙ってしまう早瀬先生。


『オイ‼ 馬鹿か‼』と思わず拳でドアを殴りそうになり、『もう‼』と、ドアの代わりに自分の太股を叩いた。


「……ですよね。何を言っているんでしょうね、私は」


 木南先生が「今の、忘れてください」と、無理に笑った。


「私には語彙力がありません。今の気持ちに当てはまる言葉が見つからないんです。……『好き』と言うより、もっと尊い感じなんです。今、パッと思い浮かぶ、一番近い日本語は『私は、あなたのことがとても愛おしい』です」


 そう言いながら、真剣な眼差しで木南先生を見つめる早瀬先生。


 木南先生が眉を八の字に下げ「フッ」と息を漏らして笑った。


「奇遇ですね、早瀬先生。私も『あなたのことがとても愛おしい』です」


 木南先生が早瀬先生に、俺には見せたこともない可愛い笑顔を向けた。


「ずるいですよ、木南先生。私がどうにかこうにか搾り出した言葉に、サラッと便乗するなんて」


 早瀬先生も、涙を浮かべたまま笑う。


「病人なので、大目に見てください」


「急に病人ぶらないでくださいよ、木南先生。病人なことには間違いありませんけど」


 そして笑い合う。


 蟠りがなくなり、微笑み合う二人を目にして、俺までもらい泣きしそうになった。


「……今まで何とも思っていなかったのに【生きたい】と願った途端に病気が怖くなってきてしまいました。……早瀬先生。手を……握っても良いですか?」


 木南先生が遠慮がちに右手を差し出すと、早瀬がその手を両手で包み込んだ。


「相変わらず小さくて可愛らしい手をしていますね」


 早瀬先生が大事そうに、木南先生の手を撫でた。


「『手だけは可愛い』ですか? すっかり骨と皮だけになってしまいました」


 折角褒められたのに、恥ずかしそうに皮肉る木南先生を、


「そうやって、いつも私の言葉尻を掬って意地悪を言う木南先生のことも『可愛いな』ってずっと思っていましたよ」


 早瀬先生が「そんなところも可愛いですよ」なんて言って宥めるから、そんなラブラブなやり取りを見ているこっちが照れてしまう。


「手を握ってもらうだけで、だいぶ安心出来ました。ありがとうござました」


 木南先生がそっと引っ込めようとした手を、早瀬先生が引っ張り、自分の方へと引き寄せた。


「……こっちの方が安心しませんか?」


 早瀬先生が、木南先生を包み込む様に抱きしめた。


「そうですね。とても暖かいです」


 早瀬先生の胸に顔を埋める木南先生。


「……早瀬先生。……助けてください」


 木南先生が、しがみ付く様に早瀬先生の背中に自分の腕を回した。


「はい。任せてください」


 早瀬先生が木南先生の不安を取り除く様に、優しく木南先生の背中を擦る。


 木南先生と早瀬先生の間の誤解が解消し、木南先生の『生きたい』という言葉も聞けた。


 一件落着。めでたしめでたし。宿題の提出はまた後で。と、病室のドアを閉めてその場を離れようとした時、


「何をしているんですか? 柴田先生」


 背後から声を掛けられ、『静かにして‼ 今、いいところなの‼』とばかりに、口の前に人差し指を当てながら振り向く。


「……あ。桃井さん」


 そこにいたのは、病室の中の様子を知られたくない人物だった。


「桃井さんこそ、何故外科病棟に?」


 この状況を上手く切り抜ける方法が浮かばず、質問に質問を返しながら時間稼ぎを試みる。どうにかして、桃井さんをこの場から遠ざけなければ……。


「今度外科から受け入れる患者さんのことで、早瀬先生にご相談したいことがあって……。柴田先生、早瀬先生を見掛けませんでしたか? 探しているんですけど、どこにもいらっしゃらないんです」


 質問を質問で返すなどという卑怯な真似をした罰が当たったのか。桃井さんに、最早嘘を吐くしかない問い掛けをされてしまうハメに。


「見てません」


 桃井さんに嘘を吐くのは心苦しいが、病室の中の光景を桃井さんに見せてはならない。桃井さんが傷付く顔を見たくない。


「ここ、木南先生の病室ですよね? 明日、木南先生のオペがあるんですよね? 早瀬先生、中にいるんじゃないんですか?」


 ドアの隙間から中の様子を見ようとする桃井さん。


「いませんて」


 その隙間を埋める様に身体を挟み込み、桃井さんの行動を阻止する。


「何ですか? この怪しい動きは。明らかに何かを隠してますよね? 柴田先生」


 鈍感で不器用な木南先生や早瀬先生と違って、桃井さんは勘が鋭かった。イヤ、俺の嘘が下手くそ過ぎたのかもしれない。


「何も隠していませんて」


 それでも嘘を吐き続ける。大根役者すぎる自分が嫌になる。


「じゃあ、退いてください」


「本当ですって‼」


「あ‼ コンタクト外れたかも」


 突然床にしゃがみ込み、コンタクトを探す桃井さん。


「大丈夫ですか? 桃井さんは動かないでください。俺、視力は両目2・0なので、俺が探します」


 俺も膝を曲げて態勢を低くした瞬間、桃井さんがスクっと立ち上がり、俺の頭上から病室の中を覗き込んだ。


「……柴田先生の嘘吐き」


 木南先生と早瀬先生が抱き合っているところを見てしまったのだろう桃井さんが、涙目になりながら俺を見下ろし、病室のドアを静かに閉じた。


「桃井さんもでしょう。コンタクト、落としていませんよね?」


 ゆっくり立ち上ろうとしていた俺に、


「だって、私も両目2・0ですから」


 桃井さんが右手を伸ばした。


 まだ二十代だし、足腰弱ってないし、自力で余裕で立ち上がれるが、桃井さんの好意を有難く受け止め、桃井さんの右手を握り、引っ張り起こしてもらった。というか、二十代の元気な男子が、好きな女の手を握れるチャンスをみすみす逃すわけもない。


 そして、泣きそうなくらいに辛いのにも関わらず、こういう気遣いが出来る桃井さんのことが、やっぱり好きだなぁと再確認した。


「……何だよ。元サヤかよ」


 桃井さんが、鼻を啜りながら俺に背を向けて歩き出した。


 辛い思いをしている大事な人を独りにしてはいけないことを、早瀬先生の大失敗を見て思い知った俺には、桃井さんの後を追い掛けるという選択肢しかない。


 がしかし、追ってきたは良いが、何て声を掛ければ良いのか分からず、


「思わせぶりですよね、早瀬先生。桃井さんとあんなに仲良くしておいて……」


 何故か早瀬先生の悪口を言ってしまった。


「そんなんじゃないですよ。早瀬先生には『妹のようにしか思えない』って、とっくに振られてますから、私。それなのに諦められなくて、私が一方的に付き纏っていただけです。早瀬先生がフリーなら、まだチャンスはあるんじゃないかって。しつこいですよね、私。それに私、矛盾しているんですよ。早瀬先生のどこが好きかと聞かれたら【一途なところ】なんです。私の両親は、父親の浮気で離婚をしています。だから、男の人が一人の女性を愛し続けることは不可能だと思っていました。でも、早瀬先生は違った。結婚した後も離婚をしても、ずっと木南先生一筋で。そんな早瀬先生だから、好きになってしまいました。不毛ですよね」


 泣くまいと天井を見上げながら話す桃井さん。


 桃井さんが早瀬先生を好きになった理由を聞いて、『あぁ。この子は俺が守りたい』と思った。


「『妹みたい』って、そんな少女漫画に出てくるモテ男のセリフを言うヤツ、現実にいるんですね」


 俺の両親から、これほどまでに可愛い顔は絶対に生まれない為、俺には桃井さんが妹のようになど、到底思えない。バリバリの恋愛対象でしかない。絶賛恋愛中の俺に、


「柴田先生も失恋しちゃいましたね」


 桃井さんが俺に憐れみの視線を向けてきた。


「え? 誰に?」


 俺はまだ、桃井さんに自分の気持ちを伝えていない。


 これは、俺の気持ちに気付いている桃井さんが、俺を遠回しに振っているということなのか?


「好きだったんでしょう? 木南先生のこと」


「は? 何を言っているんですか?」


 早瀬先生と同じ勘違いをしている桃井さんに、白目を剥いて盛大に白ける。


「いっつも『木南先生、木南先生』って金魚の糞みたいにくっついていたくせに」


「『金魚の糞』て。そりゃあ、あんなに優秀な医者の傍で学べるなら、金魚の糞にでもなるでしょうよ。木南先生のこと、物凄く尊敬しているので。それこそ……あ。早瀬先生が桃井さんを『妹みたい』って言ったこと、あながち嘘ではないかもしれません。俺、木南先生を、姉の様に慕っているから。俺が木南先生と……ダメだ。無理だ。ちょっと、木南先生と付き合った場合を想像しようと思ったけど、脳が拒否する。やっぱり、どう考えても、木南先生は尊敬する人で恋愛対象ではないわ」


 早瀬先生を馬鹿にしておいて、何だかんだ自分も少女漫画の登場人物の様な言動をしてしまっていることが恥ずかしい。


「それはそれで、木南先生に失礼じゃないですか?」


 俺が木南先生をディスっているように聞こえたのか、桃井さんが微妙な苦笑いを浮かべた。


「別に失礼じゃないでしょ。木南先生だって俺のことは【出来の悪い研修医】としか思ってませんから。実は、早瀬先生にも疑われていたんですよ。『木南先生のことが好きなんじゃないか?』って。桃井さんにまでそんな風に見えていたなんて……。俺、こんなに分かり易いのに。分かり易すぎて、木南先生には俺が恋に落ちた瞬間に見破られたのに」


 一番誤解されたくない人に誤解されていたことに、驚愕し落胆したが、誤解は早めに解かなければならないことも、早瀬先生という反面教師がいてくれたおかげで学べたわけで。


「柴田先生、誰か好きな人がいるんですか?」


 早瀬先生ばかりを見ていて、俺のことなど気にも留めていなかっただろう桃井さんに、


「俺、ずーっと桃井さんのことばっかり見ていたんですけど。やり方が汚いと言われようが、今の傷付いている桃井さんに付け入ってやろうと思っているくらい、桃井さん狙いです。桃井さんのことが、凄く好きです」


 ハッキリ自分の気持ちを伝えた。


「……え。そうだったんですか?」


 俺の告白に目を丸くする桃井さん。


 何だよ。結局、桃井さんも鈍感組かよ。どいつもこいつも……。この病院には鈍感な人間しかいないのか?


「そうだったんです。だから、ちょっとは俺のことも見てくださいよ。俺、そこそこ良い物件だと思いますよ? 早瀬先生から比べたら築浅だし、とりあえず医者だし、嘘なく今まで一度も浮気をしたことがない、一途男子だし。……元気いっぱいだし‼」


 失恋直後の桃井さんに自分の長所を並べ、売り込もうとするが、並べられるほど数がなく、最後になけなしの『元気いっぱい』をぶっ込む。


「築浅って……普通に【若い】って言えばいいのに。そして、『元気いっぱい』。面白いですね、柴田先生って」


 泣きそうだった桃井さんが『ふふっ』と笑った。


「楽しいですよ、俺といると。めちゃめちゃ楽しくさせますよ、桃井さんのこと」


 畳みかける様に自分を猛烈アピール。


「大丈夫ですか? 自分でそんなにハードル上げちゃって」


 桃井さんが試すような目でオレを見上げた。


「そりゃあ、芸人さんに比べたら相当つまらないとは思うけど、ノリは良い方だと思うし、元気だし、少なくとも早瀬先生といるよりは楽しいと思いますよ。俺、あんなに口下手じゃないし」


 さすがに大きく出過ぎた気がして、上げ過ぎたハードルを少しずつ下げる。


「さり気なくハードルを下げていますよね? バレバレですよ。あと、元気を推しすぎ。……確かに柴田先生といると楽しいですね。今、割と辛いのに、笑えてますもん。……今度、柴田先生の研修が終わったら、どこか美味しいものを食べに連れて行ってください」


 俺の魂胆はアッサリ桃井さんに見抜かれてしまったが、思いがけず桃井さんからお誘いを受けることになった。


「研修が終わらないとダメなんですか?」


 お誘いは嬉しいが、もっと早く一緒に食事に行きたい。


「だって、研修医って看護師より給料少ないじゃないですか。別に奢ってもいいんですけど、ナースにご馳走されるのって、プライドが許さないかなと思って」


「別に俺は『ドクターはナースより偉い』とか考えたこともないから、そういうプライドはないけど、桃井さんに奢って欲しいわけでもないから、桃井さんの言う通り、俺の研修が終わってからにしましょう。研修が終わるのに、あと二か月ありますけど、忘れたりなかったことにしないでくださいね、この約束。研修後、一発目の給料で俺がご馳走しますから。二人で美味いものを腹いっぱい食べましょう」


 桃井さんとの食事が二か月先伸ばしになったのは残念極まりないが、やっぱり桃井さんの前では格好つけたい。木南先生にはケチっても、桃井さんには惜しみなく給料を使える。


「こっちのセリフです。急に心変わりしないでくださいね、柴田先生。楽しみにしていますから」


 男にあまり信用を置いていない桃井さんが「絶対ですよ」と約束を固めた。


「俺、一途だって言ったでしょ」


 俺が桃井さんを裏切るはずがないのに。だけど、好きな人に心配を掛けるのは好きじゃないのに、桃井さんに心配してもらえるのが、何だか嬉しい。


 桃井さんは俺の返事に微笑みながら頷くと、


「仕事に戻ります」


 と俺に軽く頭を下げた。


「早瀬先生に相談があったんじゃないんですか?」


「いくら失恋したからって、ヤケになって二人の邪魔をしに行くほど、私はそこまでカッコ悪い人間じゃないですよ。出直します」


 と歩き出そうとした桃井さんに、


「俺、今まで桃井さんのことを【可愛い人】だと思っていたんですけど【カッコイイ人】でもあるんだなって、今日思いました。更に惚れました。仕事、頑張ってください」


 笑顔で手を振ると、


「私も今まで柴田先生の事を【木南先生の家来】だと思っていましたが【面白くて元気な人】なんだなって思いました。お疲れ様です、柴田先生」


 桃井さんが手を振り返した。


「【家来】て。てか、俺の元気を馬鹿にしていますよね、桃井さん‼」


「してませんよ。元気であることはとても素晴らしいことです。柴田先生といると、元気をもらえます」


 俺のツッコミをおどけながら受け流す桃井さん。


 桃井さんが笑ってくれるなら、元気になれるなら、何でもいいや。


「もう、そういうことでいいです。お疲れ様です、桃井さん」


 会釈をしながら、仕事に戻る桃井さんを見送る。


 桃井さんが突き当りを曲がり、見えなくなったところで、


「よっしゃ‼」


 両手でガッツポーズ。


 遂に食事の約束に漕ぎ着けた。大前進でしょう、これは‼


 美味しいものかぁ。お洒落なお店がいいだろうな。そもそも何がいいの? 和食? 洋食? 中華? あー‼ 分からん‼ 明日、宿題提出ついでに木南先生にお勧めの店を聞いてみよう。木南先生ならセンスの良い店を知っていそうだし。桃井さんと進展したことを話したら、木南先生はどんな反応をするだろう。木南先生のリアクションを早く見たい。


 しかし、人生とは不思議だ。


 悪いことがドミノ倒しの様に立て続けに起こったかと思えば、良いことが数珠繋ぎの様に次々と舞い込んだりする。


 このラッキーがいつまで続くか分からないし、また辛いことが押し寄せてくるかもしれないけれど、それでも俺は生きていたいと思うし、誰も死んで欲しくないと願う。




 そして、木南先生のオペ当日がやってきた。


 木南先生のオペは午後からとのことで、午前中に木南先生の病室を訪ねる。


「失礼しまーす」


 とドアを開けると、すっかり元通りの仲になった木南先生と早瀬先生が談笑していた。


 笑顔の二人見ると、『あぁ、本当に良かったな』とほっこりした気分になった。


「仕事中じゃないの? 研修医」


 以前の調子を取り戻した木南先生に【研修医】と呼ばれることも、不思議と嬉しい。


「柴田です。俺のオーベン、吉田先生なんですよ。ちょっとだけ時間を貰ってきました。だから大丈夫です」


 と木南先生の問い掛けに答えると、


「甘いなー、吉田は。私たちの時代には有り得なかったよね、研修抜け出すとか」


 木南先生が早瀬先生に同意を求めた。


「家族に生命の危機が訪れるか、自然災害が起きない限り、考えられないよね。俺、お腹下した時でさえ、五分でうんこ断ち切って戻ったもん」


 早瀬先生が激しく頷いた。


 てか、早瀬先生のキャラが若干変わっている気がする。一人称が【私】から【俺】になっているし、早瀬先生の口から【うんこ】などという言葉が出てくるとは……。余所余所しさの取れた今が、きっと早瀬先生の本当の姿なのだろう。


「サボりに来たわけじゃありませんから。宿題の答えを出しに来ました。渡したいものもあるので。あと、報告も」


「宿題って?」


 生きる理由を見出した木南先生に、今更俺の宿題の回答など必要ない様で、木南先生は「何のことだっけ?」と宿題の存在そのものを忘れ去り、首を傾げた。


「『何故生きるのか。何故死んではいけないのか』ってヤツ。でもその前に、これをどうぞ。オペ成功祈願のプレゼントです。手ぶらで来るとケチ扱いされるので、心ばかりのものですが……」


 桃井さん程惜しみなくは使おうと思わないが、木南先生に鐚一文も支払いたくないというわけでもない為、これからオペに挑む木南先生を元気付けるべく、実は昨日プレゼントを買いに行っていたりする。


 それを木南先生に手渡す。


「おぉ‼ あんなにお金を使うことを嫌がっていた研修医が‼ ありがとう。開けてもいい?」


 早速プレゼントのリボンを解こうとする木南先生。


「どこまで俺をケチキャラにしたいんですか、木南先生は。どうぞ、開けてみて下さい」


 木南先生の軽口の復活に、イラつきと楽しさを感じながら、喜んでもらえたらいいなと、木南先生にプレゼントの中身の確認を促した。


「おぉ……。ピンクい……」


 プレゼントを手に取り、微妙な反応を示す木南先生。


「ピンクい?」


 リアクションも悪ければ、発した言葉も意味不明な木南先生に、こっちもどうすれば良いのか分からない。


 因みにプレゼントは、頭髪が抜け落ちてしまった木南先生を想い、可愛いピンクの帽子にした。


「沖縄弁。沖縄って【赤い、青い、黄色い】と一緒でピンクも【ピンクい】って言うらしいよ。可愛いよね」


「沖縄弁も可愛いけど、帽子も可愛いでしょう? 木南先生に似合うと思って選びました」


 沖縄弁について語り、なかなか被ろうとしない木南先生に「ちょっと被ってみてください」と促すが、


「うん。超可愛い。大切に床の間に飾らせてもらうね」


 何故か拒否された。


「イヤ、被ってくださいって。帽子は飾るものではなく、被るものです」


 再度「折角買ってきたんですから」と、木南先生に帽子を被る様に催促してみる。


「研修医さぁ。ちょっとは私の歳を考慮して選んでくれないかなぁ? 可愛すぎるでしょうよ、この帽子。被るのに勇気を強いられる帽子を買って来てどうするのよ」


 木南先生が「これからオペなのに、こんなところで勇気を振り絞っている場合じゃないのよ」と、俺が買ってきた帽子を枕元の棚に置いた。


「金を使ったら使ったで文句言うし……。面倒な女だな」


 プレゼントが全く喜んでもらえなかったことに文句を垂れながら、木南先生が彼女じゃなくて本当に良かったと思った。この人が恋愛対象になることは、やはり絶対にない。


「オイ、研修医。仕事抜けて私の悪口言いに来たんじゃないでしょ?」


 俺の態度に木南先生が右眉をピクつかせた。


 そうだった。俺は昨日から、宿題の提出がしたかったんだ。


「木南先生が死んではいけない理由ですが……」


「理由ですが?」


 木南先生が俺の回答を待つ。


「俺はまだ、木南先生の冥福を祈る気がサラッサラないからです」


「……は?」


 俺の答えに、木南先生は眉毛どころではなく、頬をプルプルと引き攣らせた。


「カッコつけすぎなんですよ、木南先生は。死ぬほど苦しいなら、形振り構わず誰彼構わず『助けてくれ』って叫べばいいんですよ。木南先生の家族だって、早瀬先生だって、俺だって、木南先生に生きていて欲しいんだから、木南先生が助かる方法をどうにかして探し出しますよ。木南先生の苦しい思いが無くなれば、死にたくなくなれば、生きていてくれれば、誰も悲しまない。『Two heads are better than one』ですよ、木南先生。木南先生は頭の良い人ですが、自分ひとりで答えが出せなかったからと言って、『答えが無い』と決め付けないでください。誰かが答えを知っているかもしれないじゃないですか」


 それでも構わず、俺なりの宿題の答えを木南先生にぶつけた。


「……なるほどね」


 木南先生が、頬の引き攣りを取りながら頷いた。


 納得してくれたのかなと思ったが、


「でも、その『heads』は研修医の頭ではない気がする」


 と、木南先生が意地悪な顔をしながら笑った。


「かーわーいーくねーな‼ もう‼」


 木南先生の返事に憤慨しながらも、木南先生が笑っていると何故だか安心して、一緒に笑ってしまう。


『結構真剣に答えたのに、この女‼』と思いながらも、俺はこんな風に木南先生にイジられるのが嫌いではないのだと思う。


「まぁ、研修医にしてはなかなか良い回答だったと思うよ。もうオペまであんまり時間がないんだけど、何か報告もあるんだよね?」


 クツクツと笑いながら「手短に」と時計を指差す木南先生。


「それが、ビッグニュースなんですよ‼ 俺、遂にやりましたよ‼ 今度、桃井さんと食事に行く約束をしたんですよ‼ 木南先生、オペが終わったら桃井さんが喜びそうなオシャレな店を教えてください‼」


 しかし、この喜びは短めには話せない。というか、長尺で延々と語りたい。


「まじか‼ やったな、研修医‼ でかした‼」


『ちょっと来い』とばかりに手招きする木南先生に近付くと、木南先生がワシワシと俺の頭を撫で回した。


 お互いの恋愛成就を喜び合う俺たちの関係は、友情といえるほど同等ではなく、やはり姉弟の様なゴリゴリの師弟愛で、この関係性がとても心地良いと思った。


「だけど、やっぱりアンタは馬鹿だねぇ」


 そんな心の姉・木南先生が俺の頭を撫でる手を止め、呆れた。


「え?」


「だって桃ちゃん、私を嫌っているでしょう? 私のお勧めのお店になんて行きたがらないでしょうよ。もし連れて行ってみなさいよ。もう二度とデート出来なくなるわよ。自分でチョイスしなさいよ」


 と、弟分の俺のお願いを断りながらも、俺のデートの成功を願う木南先生。


 桃井さんの中にある、木南先生への嫌悪感を取り除きたいなと思った。桃井さんにも、木南先生を好きになって欲しいなと思っていると、


「私、良い店を知っていますよ」


 早瀬先生が口を挟んできた。


「あ、結構です。桃井さんが好きだった男の紹介する店の料理は、俺の口には入れられない」


 早瀬先生のことは嫌いではないが、兄の様に思えるか? と聞かれれば、無理だ。いくら早瀬先生が桃井さんに気がなくとも、俺からしたらライバルでしかない。


「酷い言いぐさだなぁ」


 俺の拒絶に、早瀬先生がしょんぼりしながら苦笑した。


「では、そろそろ行きましょうか。木南先生」


 お店の紹介を諦めた早瀬先生が、木南先生にオペ室へ行く準備を促した。


 ベッドから足を下ろす木南先生に、


「頑張ってくださいね、木南先生。俺、木南先生の冥福は祈りませんが、オペの成功は祈っていますから」


 ガッツポーズを向ける。


「早瀬先生が執刀してくれるから、何も心配ない。研修医は私のことなんか気にしていないで、仕事頑張っておいで」


 木南先生がガッツポーズを返してくれた。


 そして、早瀬先生に支えられながら、木南先生は病室を出て行った。


「よし‼ 仕事に戻ろう‼」


 オペ後にまた木南先生に会えることを楽しみに、仕事を頑張ろうと思った。




 それから二ヶ月が過ぎた。


 初期研修を終え、晴れて俺は脳外の医局に入局。


 木南先生といえば、オペで腫瘍を全摘した後の治療も良好で、来週には退院出来る予定とのこと。


 今や木南先生と超ラブラブな早瀬先生は、脳外に戻って来るのか思っていたが、『木南先生の主治医は私なので』という色ボケ発言をし、今も外科でバリバリ仕事をこなしている。


 桃井さんとはどうなったかというと……なかなか時間が合わず、約束の食事にまだ行けていない。


【桃井さんの気持ちが変わらないうちに】と、今すぐにでも行きたいのだが、正直まだ余裕がなく、時間を作れないでいる。

 

 そんないっぱいいっぱいの俺の状態を桃井さんは理解してくれていて、『もう少し仕事に慣れてきたら行きましょう』と文句を言うこともなく待ってくれている。これが木南先生だったら、嫌味の二、三個は言われていただろう。やはり桃井さんは優しい、可愛い。好き。


 そして俺は、只今春日先生と絶賛夜勤中。


 しかし、春日先生は先ほど急変した患者さんの緊急オペに入ってしまい、医局に1人で取り残されている状況だ。今、誰かの容体が悪くなってしまったら、俺が処置しなければいけない為、春日先生が戻ってくるまでは何事も起こらないことを祈るばかりだ。まだ、自分だけの力で患者さんを助けられるほどの技量がないことが、恥ずかしくて悔しい。

 

 だから、こんな穏やかな夜勤の時間は、医療ジャーナルなどに目を通し、知識を蓄える時間にしている。


 今日も医局のデスクで夢中で読み耽っていると、


「勉強熱心で何より。でもこの本を読むのは、もう少しオペを経験してからの方が良いんじゃない? あんまりピンとこないでしょ。ていうか、研修医が脳外を選ぶとはねー」


 背後から声がして振り向くと、木南先生が俺の手に持たれた本を覗き込んでいた。


「……関係者以外立ち入り禁止ですよ。ちゃんと寝てなきゃだめでしょうが」


 最近の木南先生は精神状態も安定し、グローブでの拘束がなくなった為、自由に動ける様になった上、食欲も回復し、必要以上に食べまくっているらしく、摂取したカロリーと有り余る体力を【徘徊】という形で発散している。


「関係者だもん。退職願、取り下げたもーん。あ、これ研修医にあげるよ。ここから桃ちゃんが喜びそうなお店を選びなよ。研修医、趣味悪そうだから変な店に連れて行きそうで心配でさー。今週、お出かけデート特集だったから売店で買っておいたの」


 そう言いながら、勝手に俺の隣の席に腰を掛け、俺のデスクにタウン誌を置く木南先生。


「休職中でしょうが。木南先生がここにいることが誰かにバレたら、俺が怒られるんですからね‼ 雑誌は有難く頂戴しますが、速やかに病室に戻ってくださいよ。……てか、散々文句を言っておいて、結局使うんですね」


 木南先生の頭にある、俺がプレゼントしたピンクい帽子を人差し指で小突く。


「研修医がなけなしの給料で買ってくれたものだからねー」


 木南先生が「やめろ」と、小突き続ける俺の手を振り払った。


「似合ってますよ、木南先生。何だかんだ気に入ってるんでしょう? てか、もう研修医じゃありませんから」


「アンタは初期臨床研修が終わっただけで、後期臨床研修中のゴリゴリの研修医でしょ。あ、じゃあ呼び方を【レジデント】に変えてあげようか?」


 木南先生が「ねぇ、レジデント」と試しに俺を呼んでみたが、しっくりこなかった様で、「言いにくい」と自分の提案に顔を顰めた。


「もういいですよ、【研修医】で」


 木南先生に名前で呼ばれる日はやって来るのだろうか? と半ば諦めていると、医局の内線が鳴った。


「はい。脳外科医局、柴田です」


 受話器を取り、耳に当てる。


『105号室の田中さん、頭痛を訴え、嘔吐しました。すぐに来てください』


 ラウンド中だったと思われる看護師さんからだった。


「……え」


 看護師さんの言う【田中さん】とは春日先生が担当しているラブドイド髄膜腫の患者さんだった。


 春日先生は今、オペ中。春日先生を呼ぶわけにはいかない。


 早く田中さんの病室に向かわなければならないことは分かっているのに、自分の判断で正しい処置が出来るのか不安に駆られ、受話器を持ったまま固まり、一歩も動けない。


『柴田先生、早く‼』


 受話器の向こうで看護師さんが俺を急かす。


「何やってるの、研修医。この電話、ナースからでしょ? アンタのことを呼んでいるんじゃないの?」


 そして、こちら側では木南先生が俺を急がせる。


 分かっている。俺が行くしかない。だけど……。


「春日先生が担当しているラブドイドの患者さんなんです。でも、春日先生はオペに入っていて……。俺、まだ処置に自信がありません。もし俺のせいで患者さんに何かあったら……」


 カタカタカタと膝が震えた。


「患者さんを診てもいないうちに何をごちゃごちゃ言ってるの⁉ さっさと行け‼ 分からないなら分からないなりに、自分が出来ることをしながら春日先生の手が開くまで繋ぐの‼ オペ室にも電話はあるんだから、いざとなったら春日先生の指示も仰げる。大丈夫‼ それに私、もう少しここでダラダラする予定だから、医局に電話してくれれば私も協力出来る。手はいくらでもある‼ 早く患者さんを助けに行け‼」


 木南先生が俺の背中をパシンと強く叩いた。


「でも、木南先生はまだ入院中で……木南先生に頼るなんて……」


 自分の力で何も出来ない挙句、病気の木南先生に頼って良いのだろうかと戸惑っていると、


「オイ。有休中に家に押しかけてきて、オペまでさせたくせにどの口が言ってるんだよ。私は今、病人だけどアンタよりは知識はあるつもり。使えるものは何でも使いなさい。それで命が助かるのなら」


 木南先生が俺の手から受話器を奪い「今行きます」と看護師さんに勝手に返事をして電話を切ると、俺の背中を押した。


 そうだ。俺は医者だ。四の五の言っている場合ではない。命が助かる方法があるのなら、遠慮などしていられない。


「木南先生。『病室に戻れ』って言ったこと、撤回します。誰かに見つからない様に隠れて医局に待機していてください。木南先生の協力が必要です。電話するので指示ください。俺、行ってきます」


 医局を飛び出そうとした時、


「頑張れよ‼ 柴田先生‼」


 木南先生に聞きなれない呼ばれ方をされ、


「え?」


 思わず足を止めかけると、


「急げ‼ 馬鹿‼」


 木南先生に大声で怒られた。


 木南先生、俺のこと【柴田先生】って呼んだ? 聞き間違い? ……そんなのどうでもいいや。早く患者さんを助けに行かなければ。


「はい‼」


 木南先生に負けないくらい大きな声で返事をして、患者さんの元へと急ぐ。



 命が助けを呼ぶのなら、俺は片っ端から治したい。





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