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第40話 初夏の巡察、実りゆく大地と、嵐ののちの新たなる野望

元和三年(1617年)五月


新緑の若葉が萌え立つ初夏、吹き抜ける風にはどこか心地よい潮の香りと土の温もりが混じっていた。


俺は、筆頭家老の桑名吉成と、農政の実務を一身に担う田代五郎右衛門、そして数名の供を連れ、馬を走らせて領内の巡察に出ていた。


最初に訪れたのは、緩やかな段々畑が広がる村落だった。


そこでは、藩の直営で栽培が本格化している琉球芋の畑に、多くの村人たちの姿があった。青々とした葉が太陽の光を浴びて元気に茂っている。


馬を降りて畑のあぜ道を歩いていると、作業をしていた村の年配の男が俺たちの姿に気づき、慌てて手を止めて深々と平伏した。


「お、お殿様……! こんな隅っこの畑まで、一体いなされたでございますか」


「面を上げよ。今年の育ち具合はどうだ?」


俺が優しく声をかけると、男は恐縮しながらも、誇らしげな笑顔を浮かべて答えた。


「はっ! お殿様と御奉行様がご指導くださった新しい植え方と、村中みんなで知恵を出し合ったお陰で、虫の害も少なく、ご覧の通り見事な育ちっぷりにございます。これなら秋の収穫も去年に劣らぬ大豊作間違いありません。お殿様が作ってくださったこの芋のお陰で、我が村の者も飢えの心配などすっかり忘れ、子どもたちの顔色も見違えるほど良ようになりました。本当に、ありがとうございます……!」


男の言葉に、傍らに控えた田代五郎右衛門が嬉しそうに目を細め、あぜ道に歩み出て村人に声をかけた。


「うむ、よくぞここまで大切に育ててくれた。葉の張り具合を見るに、根の肥立ちも申し分ない。この調子で夏の水管理さえ怠らなければ、秋には多くの収穫が見込めるはずだ」


「おぉ、御奉行様のお墨付きをいただければ百人力です!」と、村人たちが破顔一笑する。


その様子を温かく見守りながら、桑名吉成も感深げに髭を撫でながら小さく頷いている。


(前世の知識をこの時代に持ち込み、五郎右衛門のような優秀な実務家を動かして、民が自ら誇りを持てる仕組みを作ってきた。その結果が、今こうして目の前の人々の笑顔として返ってきている……。悪くない、実に良い眺めだ)


胸の内で温かい充実感を噛み締めながら、俺は村人たちにねぎらいの言葉をかけ、次の目的地へと馬を進めた。


次に向かったのは、深江川の上流に位置する山葵沢であった。


清冽な湧水が絶え間なく流れ落ちる谷あいに足を踏み入れると、ひんやりとした冷気が心地よい。


駿府から派遣された腕利き職人たちの指導のもと、石を精巧に組んで作られた棚田状の沢には、濃い緑の葉をつけた山葵がびっしりと育っていた。


「殿、こちらをご覧ください」


案内役の村の若者が、育ったばかりの山葵の根を丁寧に掘り起こして見せてくれる。


泥を洗い流すと、鮮やかな緑色の太い根茎が現れ、鼻を突くようなツンとした爽やかな香りが周囲に広がった。


五郎右衛門がその根茎を手に取り、感嘆の声を漏らす。


「見事なものだな。これほど茎が太く、色艶が良い山葵は京や上方の市場に出しても最高値がつくはずだ。職人たちの指導だけでなく、村の者たちが丹精込めて水と向き合ってきた証拠にほかならん」


五郎右衛門の称賛に、若い村人は顔を輝かせた。


「へへっ、ありがとうございます! 駿府の親方衆や御奉行様から教わった水管理の秘訣を、みんなで毎朝晩欠かさず守ってきたかいがありました。この山葵が日野江の名物として遠くの都まで届いていると聞いて、村の者もみんな鼻が高いんです!」


険しい山あいの村であっても、確かな技術と販路があれば、そこに強固な現金収入の道が生まれる。日野江の経済の血流が、山間の隅々までしっかりと行き渡っている手応えを実感した。


だが、その順調な内政の歩みに、初夏の終わり、突如として自然の猛威が牙を剥いた。


巡察のあと、日野江城へと戻る俺たちのもとに、口之津の湊から一頭の早馬が砂塵を巻き上げて駆け込んできた。


馬上の使者は、口之津で治安維持を任せている渡辺源五からの書状を差し出し、息を切らせて報告した。


「殿! 口之津湊の治安維持奉行の渡辺源五様より早馬にございます! 湊に停泊中の船乗りたちの間で、『南の海上でとてつもない大風が発生した。すでに幾隻もの南蛮船や廻船が慌てて避難を始めている』との噂がしきりに飛び交っております! この島原にも、猛烈な野分が直撃する恐れがあるとのこと!」


源五の緊迫した報告に、吉成や五郎右衛門の顔色が変わる。


迷っている暇はない。すぐさま市中へ大風、野分の触れが下され、夕刻を迎える頃には、鉛色の雲が空を塗りつぶし、立っていられないほどの暴風雨が日野江を狂ったように叩きつけた。


「殿! 風雨がさらに激しさを増しております! このままでは日野江や原の村々で河川が氾濫し、家屋が倒壊するおそれがございます!」


城の大広間。風圧でガタガタと鳴る障子の音をかき消すように、桑名吉成が険しい顔つきで報告を飛ばした。


俺は即座に立ち上がり、迷うことなく命を下した。


「一刻を争う。全軍に伝えよ。被害が出る前に、日野江城の周辺および原の村々に暮らす民を、ただちにこの曲輪内へ避難させろ! 城門を全開にし、雨風を凌げる場所はすべて民に開放するのだ!」


「はっ!」


渡辺源五を中心とした藩士たちが雨の中を走り出し、不安に駆られる前に領民たちを統率して城内へと導いた。


轟音を立てる暴風雨と戦いながら、城内にはぞくぞくと避難してきた数百名の領民たちのざわめきと、それを懸命に支える藩士たちの声が響き渡った。


避難所となった大広間の一隅には、引き締まった面持ちで周囲の女中たちにテキパキと指示を出すさやの姿があった。


外では轟音を立てて暴風雨が吹き荒れ、見知らぬ村人たちの不安なざわめきが充満する中、さやは冷静に避難民の対応にあたっていた。


やがて、雨の中の陣頭指揮を終えた俺が広間へ戻ると、さやは静かに歩み寄ってきた。その瞳には、過酷な夜を乗り切るための強い覚悟が宿っている。


「殿……、ご無事で何よりにございます。外の荒れ模様を見るに、甚大な被害が出ぬかと案じておりました」


さやは深く頭を下げると、すぐさま避難民たちの方へ向き直り、凛とした声を響かせた。


「皆さま、過酷な夜の中、本当にお疲れ様でございました。まずは暖をとり、お体を休めてくださいませ」


さやが中心となり、集まった女中たちに指示して避難民用の温かい握り飯や汁物が次々と手際よく配られていく。冷え切った体に温かい食事が行き渡ると、怯えていた領民たちの顔にようやく安堵の色が戻ってきた。


その頼もしい背中を見つめながら、俺はそっとさやの肩に手を置いた。


非常事態にあっても、こうして内側から藩を支えてくれる妻の存在が、どれほど心強いことか。


そして――翌朝。


嵐は嘘のように去り、上空には眩しいほどの太陽が戻っていた。


だが、早馬や使者たちにもたらされた各地の被害報告は過酷なものだった。


南端の口之津などは大きな被害を免れたものの、島原半島の東側に位置する大三東、島原、そして海の玄関口であった島原船津の一帯は、高潮と暴風によって家屋の多くが倒壊し、深刻な打撃を受けていたのだ。


「……東側の海岸部は、見事なまでにやられたな」


視察に赴いた船津の惨状を前に、俺は冷徹に周囲の被害状況を見渡した。


傍らに控える吉成や古市三郎左衛門も、言葉を失い、重い沈黙を保っている。


だが、感傷に浸っている暇はない。俺はすぐさま、傍らの側近たちに力強く命じた。


「何よりもまず、民の命を救うことを第一とせよ。被災した者たちを救うため、領内の寺々に命じて炊き出しを行わせる。――瀬尾忠次を呼べ。救い米と諸物資をただちに各寺へ滞りなく運び込ませるのだ」


吉成と三郎左衛門がハッとした表情で頭を下げる。


その上で、俺の脳裏には、この災害を絶望ではなく「最大の好機」へと転換するもう一つの青写真がすでに鮮やかに描かれていた。


島原船津に広がる町や湊をそのまま復旧させれば、いつの日か訪れる「島原大変」の大津波と山体崩壊の魔手から民を救うことはできない。――今こそ、町ごと高台へ移す絶好の機会なのだ。


「吉成、三郎左衛門、よく聞け」


俺の声に、二人がハッと顔を上げる。


「あの島原船津や東海岸は、満ち潮のたびに波をかぶり、荒れれば容易に高潮の憂き目に遭う。今回の被災を、ただ元通りに復旧させるだけの愚は犯さぬ。――これより、湊も町も、すっかりあの地から引き払うぞ!」


「なっ……! 湊だけでなく町ごと移転させるとおっしゃるのですか!?」と、吉成が目を見張る。


「そうだ。場所はより土地が固く、安全な森岳の麓――あの猛島神社の周辺だ。湊をそこへ移し、猛島神社から森岳にかけての土地を高く均し、新たな町と湊をごっそりと造り替える!」


「猛島から森岳へ……! なるほど、そこならば高潮の被害も免れ、有明海の要衝としても比ぶべくもなく強固になりますな!」


古市三郎左衛門がすぐにその戦略的価値を理解し、鋭い光を宿した瞳で頷いた。


「そうだ。さらに、新しく作る湊には、有明海全域から集まる物資を保管するための『貸蔵』を大規模に建設する。肥前の諸津・住ノ江・牛津・若津・飯田・多良、筑後の沖端・大川榎津・黒崎、肥後の高瀬・百貫石・大浜・川尻・長洲、そして島原半島の口之津・深江・多比良といった有明海のあらゆる湊と結びつき、我が島原の新湊がその中心として機能する仕組みを作るのだ」


表向きの藩財政だけに頼る必要はない。


この大事業に必要な莫大な移転費用、新築費用の一切は、茶屋のネットワークが生み出す「誰にも知られぬ莫大な運用金」から全額を惜しみなく投入する。


民の命と暮らしを救うための即座の救済、そして有明海の経済的覇権を握り未来の悲劇を防ぐための巨大プロジェクト――「新生・島原湊と森岳遷都計画」が、この災害の泥の中から静かに、しかし圧倒的な規模で動き始めたのだった。


いつもお読みいただきありがとうございます。

また、たくさんの温かいご評価をいただき、心より感謝申し上げます。

さて私事ではございますが、仕事の都合により、次回の更新は 9月1日(火) となる予定です。

お待ちいただいている読者の皆さまにはご迷惑をおかけしますが、再開まで今しばらくお待ちいただけますと幸いです。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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