第23話 迷いの霧を断て――八尾若江の同時遭遇
慶長20年(1615年)5月6日、大坂夏の陣。
藤堂高虎率いる河内口の先鋒は、大坂城の南東、八尾および若江の方面へ向けて進軍していた。深い霧が立ち込める中、各備えは手探りでの行軍を続けていた。
藤堂軍の陣立ては、右翼の先鋒に藤堂良勝(多賀新七郎)、中央の中備に俺、そして左翼の先鋒に藤堂高刑が配置されている。
「――右翼の方角か……っ!」
午前10時頃、遠く離れた右翼の若江方面から、微かに地響きのような轟音と、それに続く鬨の声が伝わってきた。鉄砲の一斉射撃の音が、戦場の喧騒を割るように重く響く。
直後、伝令の騎馬が土煙を上げて駆け込んできた。
「右翼の多賀新七郎様の備えが、敵と遭遇! 交戦に入りました!」
報告を受けた俺が、右翼で始まった激戦に顔を険しくさせた、その時だった。
「敵の部隊が姿を現しました! 我が備えに向かって突撃してきております!」
前方を警戒していた我が中備の先から、緊迫した声の伝令が飛び込んできた。
向こうもこちらの存在に気づき、鬨の声を上げて突撃してきたのだ。激しい槍合わせの末、ぶつかり合う声の少なさを耳にして、俺は眉をひそめた。
(――声が少ない。先鋒か、あるいは――?)
先陣を切ってきた敵の兵数は、どうやら見たところ多くはないらしい。
我が中備の勢いに気圧されるや、その一団はたちまち崩れ去るように退却を始めた。
敵を追い立て、手応えを感じた者たちの間に「勝てるぞ」という空気が広がりかける。
その時だ。
すぐ傍に控えていた桑名吉成の様子がおかしいことに気づき、俺は視線を向けた。
吉成の視線は、退いていく敵のさらに奥、霧の晴れ間に翻る軍旗一点に釘付けになっていた。
そこに描かれていたのは、紛れもない、かつての主家・長宗我部家の家紋「七つ引き」の旗印、そして待ち構えていた長宗我部盛親の本隊――圧倒的な大軍勢の影だった。
(――やはり、あの旗印か)
史実において、吉成はかつて仕えた長宗我部父子への複雑な恩義や旧臣としての情念を抱えながらも、徳川方に与した藤堂家のために戦わねばならないという過酷な矛盾に引き裂かれた。
そして、まさにこの八尾の遭遇戦で、かつての友や旧臣たちの旗印を、敵として目の当たりにしたのだ。
敵との遭遇という緊迫した状況の中、吉成の乗る馬が動揺に怯えるようにいななき、彼は混乱のあまり完全に硬直していた。
このままでは、かつての旧主の幻影に囚われた吉成が、これから待ち受ける本隊との激突に対して致命的な隙を見せるか、あるいは自ら精神を崩壊させてしまう。
正面の小勢を撃破したと油断した先には、長宗我部本隊の大軍勢が牙を剥いて待ち構えている。一刻の猶予もない。
俺は吉成の乗る馬へと歩み寄り、その手綱を掴んで引き寄せた。
「吉成! 目を覚ませ! 目の前にいるのは、今まさに我が軍を討ち取らんとする敵だ!」
俺が低い、しかし切迫した声で一喝すると、吉成は唇を噛み締め、苦悶の表情を浮かべたまま俯いた。
「……殿。あれは、かつて私が忠義を誓った長宗我部家の御旗……。元親公や盛親様への恩義が、この胸を引き裂くのです。旧主と刃を交えるなどと……我が心が耐えられませぬ!」
吉成の声は微かに震えていた。
武士としての忠義と、過去の絆の板挟みになり、彼の足元がぐらついているのは明白だった。史実の彼は、この遭遇の衝撃と迷いを断ち切れぬまま激戦へと身を投じ、そして命を落としたのだ。
だが、俺は許さない。これまで変えてきた歴史のすべてを無駄にしないために、ここで結実させる。
俺は吉成の馬に歩み寄り、その肩にしっかりと手を置いた。
「吉成、顔を上げろ。今は敵との遭遇戦のその最中だ。その迷いが、お前の命だけでなく、お前の後ろに控える兵たちの命をも奪うぞ」
力強い俺の声に、吉成が驚いたように顔を上げる。その真剣な眼差しを真っ直ぐに見据え、俺は静かに、しかし力強く言い放った。
「お前が抱く恩義の重さは分かっている。だが、思い出せ。お前はいま、どこに立ち、誰と共に生きている? かつての主家への忠義だけに縛られ、目の前で命を預けてくれる今治の兵たちや、俺との絆を忘れるというのか」
吉成の瞳が激しく揺れる。
「俺がこの今治勢で何を目指し、どうやってここまで這い上がってきたか、お前なら知っているはずだ。俺たちは過去のしがらみに引きずられて滅びるためにここにいるのではない。俺たちの手で、新しい時代を切り拓き、共により良い後の世へ生き残るために戦っているんだ。長宗我部への過去の情念など、ここで俺がすべて受け止めてやる。だから吉成、お前のその迷いを、今この場で断ち切れ!」
俺の言葉が、遭遇戦の喧騒を切り裂くように吉成の胸の奥深くに突き刺さった。
彼の震えていた肩がピタリと止まり、迷いに曇っていた眼差しの中に、かつての猛将としての鋭い光が徐々に戻ってくる。
「……殿」
吉成は深く息を吐き出すと、これまでの苦悶が嘘のように引き締まった表情を作り、ゆっくりと俺に深々と一礼した。
「我が愚かさをお許しください。……仰る通り、今の私の主はあなた様であり、共に歩むべきは今治の者たちです。過去の亡霊に惑わされ、命を預かる兵たちを危険に晒すなど、武士としてあるまじき姿でした」
吉成は顔を上げ、その瞳から完全に迷いが消え去ったことを示すように、前方へと鋭い視線を向けた。
「吉成、行くぞ。これより先の戦場は、かつての因縁を断ち切るための道ではない。我らが後の世を切り拓くための戦いだ!」
「はっ! この吉成、殿の御心に応え、二度と迷いませぬ。我が命に代えても、この戦場を勝ち抜いてみせます!」
吉成の力強い返事を聞き届けた俺は、ふたたび己の備えへと馬を返した。
先鋒を撃破したと油断した藤堂隊の前に、真の牙をむいた長宗我部本隊の大軍勢が立ちはだかる。
八尾の戦い――真の激突の瞬間が、いま幕を開けようとしていた。




