0-0-1。白骨と死体-Ⅱ-
「━━━何をしてるのかしら?」
振り返った先、ひび割れたアスファルトの上に立っていたのは、一人の少女だった。
雨が近いのだろうか、ビニール傘を開いて手に持っており。海風が吹き抜ける度に、彼女が羽織るブラウンのコートと、裾に鎖があしらわれたドレスのようなスカートが大きくはためいた。
嫌な予感がした。
透き通るような肌は、まるで精巧に作られたマネキンのようによく出来ていた。だが、その華奢な見た目とは裏腹に、彼女の存在そのものが発するオーラか、貫禄か、もしくは生物的な威圧感か。それが、ビリビリと肌を刺してくる。
大型の捕食者と檻を隔てずに対峙してしまったような、本能的な恐怖が背筋を伝っていく。あの少女には、自分を殺す用意がある。彼女の手には傘一本しかないのに、そう確信してしまう。
「……さっさと帰れ、嬢ちゃん。怖い目見たくなかったらな」
水島が低くドスを効かせた声で威嚇した。だが、いつものような迫力がない。彼自身も、目の前に立つ少女の異常性を肌で感じ取っているのだろう。
底冷えのするような虎の咆哮ではなく、その声の芯が揺らいでいた。自身よりも華奢に見える少女一人に、成人男性二人が追い詰められている。
「私はキハーナ」
少女は水島の脅しなど風の音程度にしか思っていない様子で、淡々と口を開いた。
異国の名前。だというのに、それを語る口と発音に、違和感がない。脳が自然と受け入れている。
いや、違う。
「その遺物を置いて、何も見なかったことにして去りなさい。そうすれば見逃してあげるわ」
視界が揺らぐ。脳震盪のように頭が回る。
彼女が話しているのは、日本語じゃない。
だというのに、濁流のように入ってくる。
「水島、先輩」
「黙ってろ」
水島が片手で僕を制した。
そのまま無造作に上着の懐へ手を突っ込み。黒光りする無骨な鉄の塊を引き抜いた。自分がゴルフクラブ一本を取らされた時。彼は何も持っていなかった。その記憶を、不意に思い出して。
「ダメです、先輩」
「脅しじゃねぇぞ、嬢ちゃん。止まれ」
銃だ。
それくらいしないと止められない。
その思考は痛い程に分かるし、道理だと感じた。
だけど、止まるわけがない。
この少女は少女じゃない。
人間の形をしているが、それとまるで違う。
肌が金属光沢を放っている。
髪のツヤは、まるで針金を束ねたようで。
この少女は、少女を模しただけの。
「…….ッ!」
「先輩、ダメだって━━━━━!!」
少女が足を進めると共に。鼓膜を突き抜けるような、乾いた破裂音が廃倉庫街に響き渡った。水島が躊躇なく引き金を引いたのだ。
放たれた弾丸は、キハーナの胸元を掠め、ブラウンのコートの布地を大きく弾け飛ばした。強烈な海風が吹き込み、隠されていた彼女の胸部が両側に大きく開かれる。
「……は?」
間の抜けた声が漏れた。
開かれた彼女の胸の内に、あるべきはずの柔らかな白い肉は存在しなかった。
代わりにそこにあったのは、鈍く光る鋼鉄の肋骨。それが蜘蛛の巣のように緻密に張り巡らされ、空洞となった胸郭を形成している。そして、その機械的な骨組みの中心。
そこで、真っ赤な果実のような心臓だけが。ドクン、ドクンと生々しい拍動を打っていた。
「なんだ、これ。まるで━━━━」
悲鳴は上がらなかった。パニックにも陥らなかった。ただ、目の前の非現実的な光景に、思考が急速に冷却されていくのを感じた。
隣で、水島が静かに、だが忌々しそうに悪態を吐き捨てるのが聞こえた。何か知っているのか。彼は銃を構えたまま、僕の肩を荒々しく掴み━━━
「ドラム缶を抱えて、海に飛べ!」
「……は?」
「聞き返すな、死にてぇのか!!」
僅かな逡巡。それも一拍で終わった。
水島の切羽詰まった怒声と同時に、半ば反射的にドラム缶へ体当たりしていた。
「……こん、のッ!!!」
ゴスッ、という鈍い音と共に重いドラム缶が傾き、岸壁の縁を越える。それに縋り付いていた僕の体も完全にバランスを崩し━━━真っ逆さまに、暗く淀んだ海面へと落下した。
遠い灰色と、銀色と。
視界の端を、赤色が満たして、
全身をコンクリートに打ち付けられたような衝撃。そして、視界が塩水と泡に飲まれる。
冷たい。いや、痛い。
冬に近い海の水温は、まるで全身に無数の針を突き立てるような激痛を伴って、一瞬にして体温と体力を奪い去っていく。
ドラム缶の重みに引っ張られるように、あるいは海そのものに引きずり込まれるように、体が底へ底へと沈んでいく。
「……はは。なんだ、そりゃ」
なんて末路だ。
割のいい裏バイトの初日で、皮だけになった死体の抜け殻と一緒に暗い海の底へ沈んでいく。三流映画のモブ以下の、見事すぎる犬死にじゃないか。
先輩は助かったんだろうか。いや、無理だろうな。僕がモブだとすれば、あの先輩は殺人鬼にやられるチャラい日焼け男のポジだ。
「……が、っ」
自嘲する暇もなく、肺の酸素が限界を迎え、四肢の感覚が急速に麻痺していく。低体温症の初期症状だ。脳が芯から凍りつき、思考が強制的にシャットダウンされそうになる。
愉快なお喋りも、頭が、回らなければ。メタ認知が、どうこうでも、死んでしま、えば、
「なん...て、あく、...」
人生を捨て、名前を捨てた。
汚れ仕事に身を投じた。
金が欲しい。だが、それは。
もっと、大きな、理由があったからで。
遠のく意識の中、
薄暗い水面越しに、あの灰色の空が見えた。
それが最後。
ごぼり、と口から最後の気泡が漏れ。
僕の意識は、暗い海底の底へと完全に沈み込んだ。
「……っ、ゲホッ、ゴホッ!!」
強烈な吐き気と咳き込みで体が揺れた。
口と鼻から大量の海水を吐き出しながら、ヒューヒューと荒い息を繰り返す。背中には、ゴツゴツとした砂利と冷たい水の感触。そして、むせ返るような潮の匂い。
生きている。現実にいる。
だが、酸欠で霞む頭が現実を否定する。
「なん、で。今のは、死んで……ッ!」
助かった筈がない。助かっていない。
誰かが、自分を水の上に引き上げたのだ。
そうでもなければ、生きている筈が━━━━
「あら。意外と頑丈なのね」
鈴を転がすような、酷く凛とした声。
聞きたくもなかったソレが、心臓を突き抜ける。
ずっと、そこで起きるのを待っていたのだろう。真っ赤な果実のような瞳を持つ、鋼鉄の肋骨の少女。キハーナが、僕の顔を真っ直ぐに見下ろしていた。
「どうして落ち着いているの?」
「……なんでだろ」
見下ろしてくる彼女の胸元には、先ほどと変わらず鋼鉄の肋骨と、その隙間から心臓が覗いている。普通なら悲鳴を上げて後ずさるか、這ってでも逃げ出そうとする場面だろう。
「怖くないの?」
「怖くは、ない……ごめん、嘘」
「嘘?」
「怖いかどうか、分からない」
砂利の上に仰向けのまま、掠れた声で答えた。
本当に、自分でも分からなかった。死の恐怖も、怪異に対する驚愕も、あの冷たい海の底に置いてきてしまったらしい。致死量の恐怖と絶望を立て続けに過剰摂取したせいで、感情のタガが完全に振り切れていた。
「水島先輩は、どうなった?」
「聞かない方が良いわ」
「……そっか」
彼女の答えに、何の感情も湧かなかった。
正確には、何を思えば良いか分からなかった。
ここで彼女に飛びかかるのも、彼女を罵倒するのも簡単だ。だけど、それをして何になる。
理由のない感情による、意味のない行動。それに舵を切れるほどに、蛮勇になれるわけもない。
ザザァ、と。
重く冷たい波が、岸辺の砂利を撫でては引いていく。
ぼんやりと視線を彷徨わせると、分厚い鉛色の雲がどこまでも広がっていた。夕暮れの赤も、夜の星空も全てを隠し尽くす、のっぺりとした灰色の天蓋。
フィルターの掛けられた映写機のように。この世界から色彩という概念が消え失せてしまったかのように、視界に入るものすべてが薄暗く沈んでいる。
骨の髄まで冷え切った体。むせ返るような潮と、微かな鉄錆の匂い。
曇天の下、ただ無意味で、どうしようもない時間だけが、波の音と共にゆっくりと流れていく。
「貴方、死にたい?」
不意に、波の音を縫うようにして。
キハーナが静かな声で尋ねてきた。
「……生きたい理由が、見つからない」
醜いほどに、絞り出されたような本音。
口を突いて出た言葉に、偽りは無かった。
「……ごめん」
独りよがりな絶望を押し付けて話を終わらせてしまった気がして、短く謝罪の言葉を口にした。
空っぽだった。
軽口を叩く余裕も、執念を燃やす力も。
今の、僕には、もう何も、
「なら、貴方の命。私がもらう」
彼女が、白い手を差し伸べてきた。
破れたコートの隙間から覗く、冷たい鋼鉄の肋骨。その奥で生々しく拍動を続ける、赤い果実のような心臓。そして、見下ろしてくる血のように赤い双眸。
「貴方が犯した事。全て、償いなさい」
「....そんな事、出来るはずが」
「出来るわ。死んでも、やらせるもの」
人間からひどく逸脱した、紛れもない異形。
だというのに。
背筋が凍り、心臓を握られるような痛みが走る。
だというのに。
人類という種族の因子が、彼女の全てを否定する。
そのはず、なのに。
だから、生きろと。
そう語る姿は、とても、眩しくて、
「……なん、て」
美しいんだろう、と。
空も海も、自分の未来さえも全てが鈍色に沈みきったこの終わりのような景色の中で、彼女の存在だけが、ひどく鮮烈な色彩を放っている。
それが、あまりにも滑稽な喜劇のようで。
それが、哀れな嘆きを誘う悲劇のようで。
言葉を続ける代わりに。
その手を躊躇いなく掴んでしまった。
「……ッ」
「契約、成立」
グン、と強い力が腕に伝わる。
流石は化け物。重機に引っ張られたみたいだ。
灰色の空の下。彼女の手に引かれ、僕は冷たい砂利浜から、無理やりその身を引きずり起こされた。
何が始まるのか、この時の僕はまだ知らない。
ただ、心臓が早鐘を打ったのを覚えている。
何かを訴えている。或いは、警告だったのか。
穏やかな日々は、もう帰って来ないと告げていた。




