悪魔
ヒムラーが部屋を出てから、俺は三十秒ほど息を止めていた。
静寂。外からは、雪を踏む衛兵の足音だけが聞こえてくる。殺されなかった。とりあえず、まだ生きている。
(……ヒムラーの野郎、諦めてないな)
机の上には、スターリングラードの地図が広がったままだ。1943年1月。歴史通りなら、今この瞬間も、あの地獄で25万を超えるドイツ兵が包囲されている。2月2日の降伏まで、あと一ヶ月足らず。
パウルス大将。あの真面目で優秀な参謀将校は、今頃どんな思いでいるだろう。ヒトラーの「死守命令」によって脱出を許されなかった――そして、自らも信念の元に選ばなかった。
───それは、雪と飢えの中で死を待つ日々。
それを命じたのは、この肉体の持ち主だ。
俺は、壁に掛けられた鏡を見た。そこに映っているのは、青白く痩せこけた54歳の男。髪は後退し、目の下には深い隈。パーキンソン病と疑われる震えは止まらない。
アドルフ・ヒトラー。
史上最悪の独裁者。この肉体に染み付いた記憶が、淀んだ水のように俺の意識に混ざり込んでくる。演説の興奮。群衆の歓声。そして、血と煙の匂い。
机の引き出しから、一枚の写真を取り出した。若い女性が微笑んでいる。ゲリ・ラウバル。姪だ。1931年に自殺した。この肉体の持ち主は、彼女の死をひどく悲しんだ。その後、次第に肉を遠ざけるようになった。
(……本当に、菜食主義者だったのか)
記憶を探る。そうだ、この身体は肉が大嫌いだ。動物の屠殺場の光景が、吐き気を催させる。アスパラガス、人参、ジャガイモ。シンプルな野菜料理を好む。酒はほとんど飲まない。タバコは大嫌いだ。周りの者が吸っていると、露骨に顔をしかめる。
だが、肉体は健康とは程遠い。
ドアがノックされた。
「閣下、モレル医師がお見えです」
副官の声だ。俺は深く息を吸った。
「……入れ」
扉が開き、丸々と太った男が入ってきた。テオドール・モレル。ヒトラーの主治医。そして、この身体を薬漬けにした張本人だ。
「総統閣下、お加減はいかがでしょうか」
モレルは、脂ぎった笑みを浮かべながら近づいてくる。手には、いつものように注射器の入った黒い鞄。
「今日も、いつものビタミン剤を。それから、新しい調合を試してみましょう。気分が高揚しますよ」
(……これだ。こいつのせいで、ヒトラーは薬物中毒になった)
モレルが処方していたのは、ビタミン剤と称した覚醒剤や鎮痛薬を含む正体不明の混合薬。ペルビチン、グルコース、そして得体の知れない「特製調合」。それが、この身体の判断力を狂わせ、震えを悪化させた。
「モレル」
俺は、掠れた声で言った。
「今日は、いい」
モレルの笑顔が、わずかに固まる。
「……閣下。しかし、お身体が」
「今日は、いい」
繰り返す。モレルは、困惑した表情で鞄を抱えた。
「閣下、これまで毎日お打ちしていた処方です。突然やめると、禁断症状が」
分かっている。この身体は、すでにモレルの薬に依存している。だが、このまま続けていたら、俺の判断力はさらに狂う。
「……では、量を減らせ。半分だ」
妥協するしかない。いきなりゼロにはできない。
モレルは、ほっとした表情で頷いた。
「分かりました、閣下。では、ビタミンB12とグルコースのみを少量」
注射器が、腕に刺さる。ひんやりとした液体が血管に流れ込む感覚。体が、わずかに軽くなる。だが、以前ほどの多幸感はない。
(……これで、少しはマシになるか)
モレルが退室した後、俺は再び地図を見つめた。スターリングラード。東部戦線。クルスク。そして、西からは連合軍が迫っている。
歴史を知っている俺には、この戦争の結末が見えている。ドイツは負ける。1945年5月、ベルリンが陥落し、ヒトラーは自殺する。
だが、それまでの間に、どれだけの人間が死ぬか。
ユダヤ人。ポーランド人。ロシア人。そして、ドイツ兵。民間人。合計で、数千万人。
それを、少しでも減らせるか?
扉が、また開いた。今度はゲッベルスだ。宣伝大臣。小柄で、足を引きずって歩く。だが、その目は鋭い。
「総統閣下。ヒムラー長官から報告を受けました。『最終解決』の計画を却下されたと」
ゲッベルスの声には、探りが含まれている。この男も、ヒトラーの「変化」を察知している。
「……資源の問題だ、ゲッベルス」
俺は、できるだけ冷静に答える。
「輸送列車も、人員も、前線で必要だ。スターリングラードで25万を超える兵が包囲されている。優先順位を間違えるな」
ゲッベルスは、細い目をさらに細めた。
「しかし、閣下。これまで、閣下ご自身が『ユダヤ問題の最終的解決』こそがドイツの使命だと」
「状況が変わった」
俺は、机を叩く。手が震える。だが、それを隠すために、怒りを演じる。
「今必要なのは、勝利だ! イデオロギーではない!」
ゲッベルスが、わずかに後退る。だが、納得していない顔だ。
「……承知しました。では、プロパガンダの方向性を調整します。『総力戦』への国民動員を強化しましょう」
ゲッベルスが去った後、俺は窓の外を見た。雪が、静かに降り続けている。ベルリンの街は、まだ平穏に見える。だが、あと一年もすれば、この街も連合軍の爆撃で焼け野原になる。
(……俺に、何ができる?)
22歳の現代日本人の大学生の魂が、54歳の病んだ独裁者の肉体に閉じ込められている。周りは、全員が権力闘争の化け物。信用できる人間は、誰もいない。
...時間がない。
机の上のカレンダーを見る。1943年1月27日。
スターリングラードの降伏まで、あと6日。
クルスクの戦いまで、半年。
ベルリン陥落まで、2年と3ヶ月。
「……最悪の後始末、か」
俺は、震える手で紅茶のカップを持ち上げた。ヒトラーが好んだ、ハーブティー。砂糖は入れない。
窓の外では、衛兵が交代の時間だ。親衛隊の制服を着た若者たちが、きびきびと動いている。彼らの多くは、あと数年で死ぬ。
俺は、その紅茶を一口飲んだ。苦い。
人生で最も苦い、紅茶だった。




