最悪のスタート
───口の中が、ひどく苦かった。
安物の劇薬を無理やり飲み込まされたような、不快な後味。意識が戻ると同時に、強烈な吐き気と、頭を万力で締め付けられるような鈍痛が襲ってきた。
(……なんだ、これ。俺、どうしたんだ?)
確か、大学の講義が終わって、横断歩道を渡っていたはずだ。だが、今俺が座っているのは、アスファルトの上じゃあない。硬く、冷たい、重厚な革張りの椅子だ。
目を開ける。視界がチカチカと火花を散らし、ゆっくりと焦点を結んでいく。まず見えたのは、机の上に広げられた巨大な地図。そして、そこに並んだ文字だ。
「……スターリングラード」
自分の口から漏れた声に、背筋が凍りついた。それは、若々しい自分の声ではなかった。ひどく掠れ、湿り気を帯びた、死を目前にした老人のような、それでいて妙な威圧感を持つ赤の他人の声色。
震える手を見る。白く、不健康に痩せ細った指。その手が、俺の意志とは無関係に小刻みに震えている。パーキンソン病の初期症状──歴史の教科書で読んだ「彼」の末期そのものだ。
(まさか。……いや、ありえない。そんな馬鹿なことが)
混乱する頭に、見知らぬ記憶が濁流となって流れ込んでくる。側近たちの顔。複雑な軍事用語。そして、この身体がこれまでに下してきた、血塗られた決断の数々。俺は現代の大学生なんかじゃない。いや、俺の中身は大学生だが、この肉体は──。
「……閣下。やはり、お休みになられた方がよろしい」
すぐそばで、声がした。心臓が止まるかと思った。ゆっくりと首を動かす。そこに立っていたのは、丸眼鏡をかけた、感情の読み取れない男だった。
ハインリヒ・ヒムラー。
数百万人の虐殺を淡々と管理した、親衛隊のトップ。
「モレル医師を呼びましょうか。ビタミン剤とグルコースの注射を……それとも、この書類にサインをいただいた後になさいますか?」
ヒムラーが差し出してきたのは、一枚のタイプ打ちされた書類だった。タイトルには『最終解決』の文字。その下に並ぶ数字は、これからガス室へ送り込まれる人々の「予定数」だ。
胃の底から、せり上がるものがあった。現代人としての俺が「やめろ」と叫び、この肉体の持ち主だった怪物が「当然だ」と囁く。二つの意識が混ざり合い、脳が焼け付くように熱い。
(……サインすれば、俺は本当の怪物になる。だが、断ればどうなる?)
1943年。ドイツは負け始めている。そして目の前のヒムラーは、狂った総統を「無能」だと見限り始めている。
俺は、震える手で書類を押し返した。
「……却下だ。ヒムラー」
掠れた声で、俺は言った。ヒムラーの眉が、ピクリと動く。
「却下、ですか? これは以前、閣下ご自身が……」
「状況が変わったと言っているんだ!」
俺は机を叩いた。手の震えを隠すために、渾身の力を込めて。
「資源の無駄だ。輸送列車も、人員も、すべて前線へ回せ。……これ以上の殺戮は、国家にとって何の利益にもならん」
部屋が、墓場のような静寂に包まれた。ヒムラーの目が細められる。それは忠実な部下の目ではなく、病にかかった家畜を品定めする屠殺人の目だった。
「……閣下。閣下は、お疲れのようです」
ヒムラーが、背後の扉に視線を送った。その瞬間、扉の向こうでガチャリと金属が擦れ合う音がした。短機関銃を構える音だ。
最初から、俺を「説得」する気などなかったのだ。サインするか、それとも「病死」するか。
(……なるほどな。これが転生の初日かよ)
史上最悪の独裁者に転生し、最初にしたことが、身内からのクーデター。俺は、冷や汗で濡れた背中を椅子に預けた。外は冬のベルリン。ソ連軍が迫り、連合軍が空を焼き、そして目の前には殺意を隠さない側近。
だが、ここで死ぬわけにはいかない。この身体で犯した罪は計り知れないが、少なくとも俺の手でこれ以上増やすわけにはいかない。そして、もし生き延びることができるなら──この狂った戦争を、少しでも早く終わらせなければ。
「……下がれ、ヒムラー」
俺は立ち上がった。震える足に力を込め、ヒムラーを見下ろす。
「私は総統だ。命令を拒否する者は、親衛隊長官であろうと容赦せん」
ハッタリだ。完全な。だが、独裁者を演じるしかない。この肉体に染み付いた威圧感を、最大限に利用する。
「貴様は私を排除したいのか?仮に私を排除したところで、ゲーリングが後を継ぐだけだ。それとも、貴様自身が総統になるつもりか? 国防軍が、党が、国民が、親衛隊の奸物如きに従うとでも?」
ヒムラーの顔が、わずかに歪んだ。図星だ。ヒムラーには軍事的カリスマも、政治的基盤もない。彼は恐怖で支配する官僚であって、国を率いる指導者ではない。
「……今回は見逃してやる」
俺は続けた。
「だが、次に私の命令に逆らえば、貴様の首は親衛隊本部の門に晒される。理解したか?」
長い沈黙。
やがて、ヒムラーは書類を懐にしまい、硬い表情で一礼した。
「……失礼いたしました、総統閣下。ご静養なさいませ」
彼が部屋を出ていく。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
俺は、崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。全身から力が抜け、手が止まらずに震えている。
(……何とか、切り抜けた)
だが、これは始まりに過ぎない。ヒムラーは必ず次の手を打ってくる。そして、彼だけじゃない。ゲーリング、ゲッベルス、ボルマン──この国のトップは、全員が権力闘争の化け物だ。
俺は机の引き出しを開けた。中には拳銃が一丁。ワルサーPPK。歴史通りなら、この銃で「彼」は自殺する。
(……まだ、二年ある)
1943年の冬。終戦まで、あと二年弱。この二年で、どれだけの命を救えるか。どれだけの罪を償えるか。
窓の外を見る。雪が降り始めていた。ベルリンの街を、静かに白く染めていく。
まるで、これから流れる血を隠すかのように。
「……最悪の後始末、始めるか」
俺は、震える手で地図を広げた。スターリングラードの赤い×印。東部戦線の泥沼。そして、西から迫る連合軍の影。
史上最悪の独裁者として、史上最悪の後始末を。
これが、俺の贖罪の物語の始まりだった。




