第61話 女戦士、ゆく先を決める
王都の中心部から少し離れた場所にある閑静な住宅街の一角に、ヘレンが生まれ育った館――今では夫となったラルフと共に暮らす家がある。
小さめの屋敷といっても差し支えない規模のその家には、それなりの大きさの庭も備わっている。その庭先が、朝から奇妙な緊張感に包まれていた。
「――勝負あったな」
鋭い光を放つ槍を手にした男が、低く落ち着いた声で勝利を宣言する。
男が持つ槍の穂先は、ちょうどヘレンの胸の前で止まっている。
鋭利な切っ先を突き付けられながらもヘレンは表情を崩さない。呼吸を整えるようにわずかに胸を上下させている。
「少し気が散っているな。普段ならしないはずの大振りが目立つ。特に、最後の一手は致命的だぞ?」
男は槍を下ろしながら、先ほどまで行っていた手合せの内容について振り返る。
男の名はヘクター、ヘレンの兄だ。
今からひと月ほど前、ヘクターは騎士叙勲を受けたのを機にこの家を出た。妹のヘレンがラルフと一緒になったので、気を遣ったというのも理由の一つではある。
そんなヘクターが、この家に帰ってきたのは久しぶりのことであった。
彼は、この無表情な妹が内心ではかなり不愉快になっていることを知りながらも、敢えて忠告めいたことを口にしていく。
「……最近は魔物を相手にすることが多かったから」
兄からの忠告に対し、ヘレンは言い訳がましく言葉を濁した。顔は相変わらず無表情で、どこか憮然とした態度のままだ。
言われずとも分かっている。
相手が人間なら、わずかな傷を与えただけでも動きが鈍るし、急所に一撃を入れればそれで勝負は決まる。
それは分かっている。分かっているのだが、心に焦りがあるとそうした冷静さを欠いてしまうのが自分の悪い癖だ。それが先ほどのような綻びに繋がる。
どうしても及ばない。
技量的にも、精神的にも、あらゆる面で。
「やれやれ、いきなり稽古に付き合ってほしいと庭に連れてこられたからには、何か悩みがあるとは思ったが……」
ヘクターは少し面倒くさそうに頭をかきながらも、親身になって話を聞いた。
実のところ、彼も暇なわけではない。
今日はある要件を伝えに立ち寄っただけなのだが、明らかに心を乱している様子の妹を無視するわけにもいかない。
わざわざ稽古の相手を求めてきたからには、よほどの理由があるはずだ。
「ま、大体の原因は想像がつくけどな」
「だったら教えてよ。今の私に足りないものを。ラルフに追いつくにはどうすればいいの?」
「ん? なんだ、さっそく喧嘩別れしたわけじゃないのか?」
その何気ない一言の直後、ヘクターはがくりと体を傾けた。
ヘレンが無言のまま、彼の足にいきなり蹴りを入れてきたのだ。先ほどの訓練中にも見せなかったその驚くべき速度の蹴りは、ヘクターの膝裏を見事に捉えた。
無様に地面に転がるのだけは何とか耐えたが、突然足に襲いかかった痺れるような痛みに、堪らずその場にうずくまってしまう。
「……ひっでえ」
ヘクターは抗議の言葉を口にしたが、その続きは途中で飲み込んだ。
日頃から表情に乏しいヘレンだが、意外と怒りの沸点は低く、静かに怒り出す性格であることは重々承知している。そのヘレンが、今や殺気を込めた冷たい目で見下ろしてきていた。
ラルフとの仲を少し茶化したくらいで、ここまで怒るとは予想外だった。
やがて足に力が戻ってきたため、ヘクターはのろのろと立ち上がったが、今後この話題でからかうのだけは絶対に止めておこうと心に誓った。
「あの人がいないのは、朝から出かけているだけよ。しばらく王都を留守にしたから、きっと色んな用事がたまってるんでしょ」
「そりゃ失礼しました……で、ラルフに追いつくにはどうすればいいかだって? それが分かるなら苦労はないぞ。何か秘訣があるなら、俺が教えてほしいくらいだ」
ヘクター自身、実戦においてラルフとの間に越えがたい差を感じることがあり、それについて本人に直接尋ねてみたことがある。
そのときに返ってきた答えは、「大した差はない」とか「お前は十分に強い」といった誉め言葉ばかりで、ヘクターが期待していた助言の類は何もなかった。
そのことを告げると、ヘレンも同じ答えを返されたと不満げに語る。
「まあ、結局のところは経験の差って話になるんじゃないか? こればかりは一朝一夕にはどうにもならないぞ。地道に積み重ねていくしかない」
「そういう聞き飽きた話以外での助言を求めてるんだけど」
「いや、そう言われてもな……」
ヘクターは顔をしかめ、さらに困ったように頭をかいた。
訓練でラルフを相手に一本取るためのアドバイスならいくらでもしてやれるが、ヘレンが求めているのはそういう類の話ではない。
実戦において、今すぐにでもラルフと並び立ちたいと言っているのだ。
しばらく頭を悩ませた末、ヘクターは一つ思い当たる節があることに気づいた。
「これは俺の想像なんだが……ラルフは自分が強くなることには、もうあまり関心がないのかもしれない」
「……そんなことってある? 戦士が自分の強さに関心がなくなるなんて」
「あくまで想像だからそのつもりで聞いてくれ。――ラルフがこだわっているのは、何のために戦うのかと、いかにして戦いに勝つかだけのように思える。あいつは自分より強い相手との戦いでも、確実に勝ち残るからな」
ヘクターは、持っている槍で自分の肩をトントンと叩きながら話を続ける。
「ラルフ自身も確かに強いが、あいつが自分の力を誇示しているところを見たことがない。大抵は、形勢が不利な味方を見つけてそのフォローに回ってる」
「言われてみれば、その日初めて会った仲間ともすぐ連携を取ってる気がするわ」
「たぶん、根が冒険者だからだろうな。不利な戦場においても、周りの味方が有利になるよう常に気を配っている。俺たちよりも戦いに対する視野が広いんだ。それがより広義の意味での強さに繋がっているんだろう」
ヘクターの推測をもとに、ヘレンは自分の記憶の中にあるラルフの姿に照らし合わせてみた。
すると確かに、どれもこれも兄の言い分に当てはまった。
ラルフに憧れて、ずっと彼を追ってきたはずなのに、ただ漠然と頼もしさを感じていただけで可視化ができていなかったことに、今さらながら気づかされる。
「明確な違いがあるとすればそこだな。どれだけ個としてのこだわりを捨て、全体のために動くことができるか。――俺自身、まだそこまで達観できているわけではないから、これが助言と言えるかどうかは分からんが」
「いいえ、おかげで参考になったわ」
ヘレンは、何かが吹っ切れたような穏やかな笑顔で礼を言った。
ヘレンの望みはもう決まっている。ラルフに戦士としての実力を認めてもらい、パートナーとして彼を支えること。
その思いが強すぎるあまり、今の自分ではその役を担うには実力不足ではないかとの焦りに繋がってしまっていた。もちろん、技量面や精神面での更なる成長も続けていかなければならないが、今すぐにできることは他にもある。
常にラルフの隣に立ち、彼にとって信頼できる存在であり続けること。
立ち位置そのものはこれまでと変わらないが、それで良いのだと自信が持てた。
「そうか」
ヘクターも静かに笑い、手にしていた借り物の槍を返すために、建物の壁に立てかけた。
「おかげで俺のほうも踏ん切りがついた。お前だけでも一緒にきてもらうべきかと思ってたんだが、そこまでベタ惚れだと引き離すのは気がとがめる。やはり、お前たち二人は巻き込まないほうが良さそうだ」
「もう正式に決まったの?」
「ああ、近衛参謀殿の承認を得て、正式に身分を継承した。俺はもう、ゲインマイル伯爵を名乗ることができる立場だ」
そう語るヘクターの顔からは、いつの間にか笑みが消えていた。
「このひと月の間に、国王陛下や宮廷貴族への挨拶など最低限の準備は済ませた。二、三日のうちに俺は王都を離れ、伯爵領に向かうことになる」
「随分と急ぐのね。情勢はそんなに深刻なの?」
「そういうことだ。伯爵家の執政官は、できれば今すぐにでも領地に赴いて、統治に協力してほしいと言ってきている」
ゲインマイル伯爵は、百人以上の騎士を直属の家臣として抱えている大貴族だ。
その規模の領主ともなると、一族の者だけで領地の経営を管理することはほぼ不可能であるため、実務の大半は専門の役人を雇って任せることが多くなる。
その役人たちの中でも最も高い地位にあるのが執政官と呼ばれる役職だ。
特に主人からの信頼が厚い執政官の中には、主人の身に何かあった際は、代わりに政治を執る権限まで与えられている場合もある。
「執政官を始めとする役人たちは全面的に俺を立ててくれているが、庶子の俺が跡目を継ぐことに不満を抱く者も多いそうだ。伯爵配下の貴族たちは勿論のこと、伯爵家に古くから仕える騎士さえもそんな感じらしい」
「これまで放置されてたくらいだもの、その反応も当然ね」
「今さら恨みごとを言うつもりは無いがな……とにかく、直属の騎士すら下手をすれば敵になりかねない状態だ。ならばこちらも信頼できる仲間を揃えてから現地入りするのが理想だが」
「そのことをラルフに伝えたら、手を貸すと言い出すかしら?」
「そういう余計な雑念を抱かせたくない。近々、南でもでかい争乱が起こりそうな気配だからな。ラルフにはむしろそちらへの対処に専念してもらいたい」
人にはそれぞれの役割がある。
そのことを自覚したのもラルフに出会ってからだ。
役割は生まれつき定められたものがすべてではなく、徐々に変わっていくものだということも、漠然とながら実感できるようになった。
あのタイミングで騎士となり、以前から伯爵家の執政官が訴えていた跡目相続の話を受ける気になったのも、それが理由だ。
己の役割を果たす番がきたのだと、ごく自然に受け入れられた。
「今回はソードギルドから顔馴染みの戦士を何人か雇って連れていくことにする。これまでに経験したことのない戦いになるだろうからな。よく知った顔がいたほうが何かとやりやすい」
「そう、気をつけてね」
「それだけか? 相変わらずそっけないやつだな。長年連れ添った兄との今生の別れになるかもしれないんだぞ?」
「これまで一緒に戦ってきて、死にそうな目に遭ったことは一度や二度じゃないでしょ。そういう覚悟はとっくにできてるわよ」
「お前ってやつは、ほんとにドライだねぇ」
言いながら、むしろ湿っぽくなっているのは自分のほうかと、ヘクターは自嘲気味に笑う。
妹とは昔からこういう間柄だ。
戦場では相棒として守り合いながらも、互いの人生には極力干渉しないように生きてきた。その距離感のおかげもあってか、肉親に抱く特別な感傷とはこれまで無縁でいられた。
「南の問題が片付いてもまだ西で苦戦しているようなら、その時は二人で手伝いに行ってあげるわよ」
「それは頼もしい限りだ。その時は妹夫婦の活躍に、せいぜい期待させてもらうとするよ」
ヘクターは笑いながら別れを告げると、生まれ育った家の敷地から出て行った。
家の前の通りからヘクターの姿が完全に見えなくなるまで見送ると、ヘレンは背後を振り返った。そこには見慣れた建物がある。
ヘレンの口から小さな声が漏れた。
「これまでありがとう。ごめんなさい――さようなら、兄さん」




