ニートエルフ、翻弄される 後編
逢魔が時に、我が家の庭先に竜に乗って姪がやってきた。
とある事情により私は竜が若干苦手だ。特に羽のない、専ら地を歩くやつだ。しかし飛んでくる竜をこのような近距離で見たのは初めてだ。
存外に美しい、と思ってしまった。
「しかもなんで、黒いので来るかなぁ?」
高祖父はがしがしと頭を掻きむしった。
黒い竜は死の裁定者、星の気に入らないものを焼き尽くす。それに乗ってきたということは、何か気に入らない事でもあったのかと思い、急に背筋が寒くなった。
屋敷の庭先にあるガゼボのそばに、黒い竜はふわりと降りた。
その背中から降りてきたのは、よく知った姪の姿かたちなのに、明らかに気配が違っている少女だった。顔つきもふんわり優しい表情ばかりが記憶にあるのに、目の前の子はきりっとした目つきで、自信にあふれた笑みを湛えていた。
姪の体、中身はこの星。分かっていても違和感ばかりが増す。
「クラウス、レビに後を託すか」
りんとしたやや高い声が響いた。
声も、知っている声なのに喋り方が全然違う。脳内での不一致が気持ち悪い。「これは誰なんだ?」と心が叫ぶ。
「こやつなら時間の都合がつきやすい。盆暗に見えるが実は優秀、良い選択じゃ」
尊大な話し方に、姪の面影はない。ゆるりと、でもきりっと伸びた姿勢で歩く姿は、神々しくすらあった。
これは、星様なんだな。そう思いながら目の前を横切りガゼボに向かう少女を目で追った。
「レビ、椅子ぐらい引かぬか。気が利かぬ男はモテんぞ?」
ガゼボのテーブルの傍で立ち止まり、アステリアがくるりとこちらを振り返った。
「あっ…はい、申し訳ない」
私は慌てて椅子を引き、姪を座らせた。
その時、自分の手が震えていることに気づいて少なからず驚いてしまった。
「黒いので来るのはどうかと思うが」
クラウスも座りつつ、自分の「ひ孫の孫」にあたる小娘に苦言を呈した。
「夕暮れだからの。こやつの方が夜目が利くので使っただけじゃ。他意はない」
アステリアも、黒い竜を見ながら事もなげに躱す。
「外に出る際は、顔を隠すようにも言ったはずでしょうが」
高祖父もひるまない。聞いていて、こちらがひやひやしてしまう。
「この夕暮れに、あの高度で飛べば誰にも見えぬわ。街からであれば、こやつの腹しか見えぬであろう」
「近場はそうかもしれんが、アリアの東西の端からなら撮影されていても不思議じゃない」
竜マニアはどこにでもいる。ずっと星の塔樹を狙って撮影し続けている暇人も何人か知っている。クラウスのいう事はもっともだ、と思った。
「顔が見えたというやつが面倒なら、黒竜に消させるが?」
姪の口から出た言葉とは思えず、私は思わず彼女の顔を二度見してしまった。あの顔で、表情一つ変えず、さらりと恐ろしいことを口にしたのだ。
「…やめてくれ、わかった。全サーバーに顔の判別できる画像が載ったら削除するようにしとくから、そういう物騒な考えはやめてくれ…」
高祖父の苦労が偲ばれる。ここ最近で彼が一気にしぼんだ気がするのは、この子のせいかもしれない。
「それより、私が来たのに茶菓子も出んのか?」
笑顔できょろきょろするその姿を見て、少し面白い、と思ってしまった。
「では、クレアを呼ぼう」
「おお、こやつも喜ぶと思うぞ」
クラウスの提案に、アステリアはぱっと明るい顔になった。
星は、姪の体を乗っ取っておきながら、彼女に対する気遣いも見せたのだ。まったく分かり合えないような存在ではないと分かって、当主もやっていけそうな気がしてきた。
少しして、大慌てで姉がやってきた。
「シ…っ…」
一瞬名前を口にしかけて、姉は慌てて口を噤む。まだ離れて20日程度だとは思うが、早々の里帰りに姉の顔は嬉しそうだった。
ふとその時、嫌な予感がした。
誰か、姪のこの状況を、姉や兄に話したのか?
体が乗っ取られていることを、姉は知っているのか?
クラウスの方を見たが、彼は母娘の再会をただニコニコと嬉しそうに見ているだけだ。
「元気か?ちゃんとご飯は食べているか?塔のみんなは良くしてくれているか?」
姉はそう声をかけながら、姪の顔に手を伸ばした。その瞬間、アステリアの表情が明らかにおかしくなった。
「あ…あ…ああああああ!」
叫びながらぼろぼろと涙をこぼし始め、体がガタガタと震え始めた。
「か…母様ぁ…」
椅子を倒しながら立ち上がり、姪は姉に抱き着いた。
姪が、アステリアから体を取り戻したのか。
そう思った直後、得も言われぬ恐怖が体を貫いた。
ガゼボのそばの大樹の傍らにいた黒竜が、いきなり立ち上がって、吼えた。
声なのか音波なのか、分からない何かが体の中を駆け抜けていった。周囲の木々から大量の鳥が羽ばたいていく影が夕闇の中で見え、星の塔樹でも複数の何かが叫んでいるのが聞こえてきた。
頭が痛い。耳の奥がガンガンと殴られているような感覚に、思わず頭を押さえた。
「どうした、辛いのか?いつでも会いに来ていいんだぞ?」
いつでも竜に乗ってきていいわけがない。そもそも巫女は公式行事以外で外に出て良いはずもない。今は他に人材がいないので、ちょっと交代して里帰り、なんて事も出来ないのだ。
無責任なことを言うなと怒りたくなったが、首都全体が異様な空気になってしまっていることに姉は気づいていないようだった。
【レビ、クラウス、私をクレアから離せ!】
頭の中ではっきりとした声が響いた。
頭を抱えたまま高祖父の方を見た。同じように頭を押さえた彼はこちらを見ながら
「レビ、今のは星の声だ!二人を離せ!」
と叫んだ。
「クレア、その子から離れろ!」
私は姉の手を強引に引っ張り、姪の肩から引きはがした。
ようやく森や空の異常さに気づいたようで、姉はびくっと周囲を見回した。
「どうしたのだ、この空気は!?」
「わからない、でも、クレアが…アステリア様に近づいたらこうなった。とにかく、屋敷に戻って」
私は姉と姪の間に立ち、二人が近づかないように物理的に壁になった。
「わ…かった…」
後ろ髪をひかれる思いだったのだろう。姉はずっと泣きじゃくる自分の娘から目を離さない、離せないまま辛そうな顔で、何度も振り返りながら円盤に乗って帰っていった。
「ふうー…これはこれは予想外。久しぶりに焦ったの。竜どもも私が消えたと勘違いして大騒ぎ。いや、びっくりじゃ」
紅茶を飲みながら、目を真っ赤に腫らした巫女が笑った。
姉が置いていったポットから、私が3人分の紅茶をセットして配った。あの騒ぎのせいで少し出すぎてしまった気がするが、まあ香りは良いので及第点と思うことにした。
「姪が…一時的に体を取り戻したように見えましたが」
「うむ、その通りじゃ。親を目にしたら一気に感情が爆発したようじゃの。なかなかに強かったぞ。抑えるのに苦労したわ」
私の発言に、面白い見世物でも見た後の感想でも述べるようにアステリアは答えた。
「クラウスおじい様…クレアは知らなかったんですね、乗っ取られていることを。考えてませんでしたね?後々どうなるのか。絶対に説明が必要になると思いますが…今現在、乗っ取られていることを知っているのは他に誰がいるんですか」
「うん、考えがすっぽ抜けてたな、すまんすまん。知っているのは私以外はフィオレとお主だけだな。説明、どうしようかなぁ」
何という事だろうか、この家のほとんど誰も知らないということではないか。
「まあ、ジゼルは知ってるかもねぇ。…だったら、孫娘も知ってる可能性が高い、か」
「乗っ取っているとは、随分じゃな」
横で聞きつつ巫女は楽しそうに笑った。
「これからは、用があるときはレビにも伝えるようフィオレに言うておくが…面倒だったら一気にここへ飛んでくる。いちいち細かいことは気にするな。それと、覆面は風で吹っ飛ぶから無理じゃ。覚えておったら他はなるべく守るようにはする」
紅茶を飲み、焼き菓子を一つ手に取ると、目を細めてそれを眺めた。
「この菓子を懐かしいと思うのは、こやつの感情じゃな。…すまんが、あれをやられると竜が町一つくらい潰しかねん。今後、この体を借りている間、クレアと…念のためジークも、会うことを禁じる」
先ほどの恐怖を思い出した。親子の邂逅で大量虐殺が起こっても困るので、これは仕方ないだろう。
クラウスに目配せされ、私は頷いて巫女のほうに向きなおった。
「二人に伝えておきます。トルテは…?兄はどうしましょう」
「ふーむ、名前を聞いても特に感情の揺れはないな。レビと同じくらいの反応じゃ。まあ会っても害はなさそうじゃが、特に会いたいというふうでもないようじゃな」
「そうですか…」
トルテに、心の中で「なんかごめん」と謝った。
姉の焼いた菓子を、下に敷いてあったペーパーに包んで巫女に持たせた。
「フィオレにもよろしくお伝え下さい」
私が次期当主に決まった、という話を知った巫女が飛び出してきて「善き」と言いに来ただけの事だったのに、大ごとになってしまった。
「この屋敷以外への移動は、なるべく控えるようにする。まあ、約束は出来んがの」
そう言って笑うと、巫女は黒い竜に乗ってすっかり暗くなった空を飛んで帰っていった。
久々に食堂で夕食を取った後、私は姉と兄の部屋を訪ねた。
娘の体が完全に乗っ取られていて、感情の揺れで体を取り返すことがあること、その際星の意識が消えたと勘違いした竜が暴れる危険性を二人に説明した。
先ほどアステリア全土で大規模な竜による超音波が発生して、大量のガラスや陶磁器が割れたという臨時ニュースも流れていたので、姉はすっかり落ち込んでいた。
「この屋敷でも、かなりの数グラス類が割れていたのだ…まさか私があの子と会ったせいだったなんて。…しかも、街を消す危険性があったなんて」
それに引き換え、兄は実に楽しそうだった。
「竜に乗ってきたのか。それは楽しそうだな…見たかったよ」
しょんぼりと俯く姉の肩をポンポンと叩きながら、
「元気ならば、それでいいよ」
と笑った。
部屋に帰ろうと廊下に出ると、向かいの自室の前に曽祖父のイーデンが立っていた。
「イーデンおじい様、何か私に用ですか」
「あの子が、竜に乗ってきたと聞いて!しかも黒だったんだろう!?前は白で飛んでいるのを見たって話だったけど!」
私とよく似た顔の曽祖父は、口ひげを付けただけで同じような髪色髪型で、父と甥のトルテも含めてそっくり4人組と呼ばれていた。特に菓子作りを始めたトルテとドラゴンの農園に行く曽祖父はどちらも髪を一つに束ねているので、髭だけで区別するしかない。
ただ、この曽祖父は異常なまでのドラゴンマニアだ。農園にいる竜以外、近づけない竜ばかりなので研究が滞って困ると言っていた。曽祖父が生まれた時の巫女はリューリだったので、残念ながら彼は私と同じ巫女しか知らないのだ。
やっと竜に乗る巫女が現れたことで、興奮が抑えられないといった顔だ。
「ちょっとだけお邪魔していいかい?話を聞きたくて」
子供のようなキラキラの目で見られて、断れる雰囲気ではない。仕方なく曽祖父を部屋に通した。
「父から聞いたよ、レビが後を継ぐって」
部屋に入り、入口すぐのソファに座ると、イーデンはキラキラの目のまま私の顔をじっと見つめている。
「もう聞かれたのですか。ついさっきこちらも持ち掛けられたところなのですが」
「うん、黒い竜の噂を聞いて父のところに行ったら、レビに聞けって言われて」
つまり、高祖父は自分で説明するのが面倒だったので、こちらに話を投げたということなのだろう。実際、クラウスと私は同じ話しか聞いていないので、どっちに聞いても同じ内容しか話せないのに。
面倒を押し付けられたな、と思ったが、自分が一番暇なのだと思うと諦めるしかない。
「別に竜の話に来たわけではなかったので、そんなに詳しいことは聞いていませんが…」
「いいよいいよ、何でも!」
期待されすぎても困るので、前置きしてみたが、ワクワクの目は変わらない。
「黒は…夜目が利くので乗ってきたと言っていました。私が聞いたのはそれだけです」
「ふおおおお!そうなのか!」
こんな小さな情報でも、イーデンは非常に嬉しそうだった。
「今度ぜひ取材をさせてくれと!言っておいてくれないか!?」
「フィオレに言付けておけばいいのでは?」
「巫女に関することはすべて当主を通して、じゃないか。よろしく頼むよ!ああ、楽しみだなぁ」
とても断れる雰囲気ではない。
「私はまだ見習いなので、クラウスおじい様に相談して依頼するよう話してみます」
何とかイーデンを追い返すと、私はアステリア図書館のデータを検索し、巫女に関する文献を漁って読み始めた。
巫女に関する公式な文章は、すべて過去のグラーティア家当主が書いている。昔の当主が書いたものに、後の当主が加筆する形で改定されて出されているものだ。リューリとイリスの情報は、当然クラウスによって書き足されている。
「ここに…いずれ私の名も載るのか」
一人、それを口にした瞬間とても恥ずかしくなってきた。
過去の巫女の本などを見ると、正史は当然我が家の名の者ばかりだ。それ以外、個別の巫女のエピソードものは、全部原本はグラーティア家の者が書いている。
その後アレンジされた娯楽本などは別の作家の名前ばかりだが、ベースとなる原典は必ずグラーティアの名が書かれていた。
え。待って?それを、うっかり学生時代の同級生に見つかったらどうなる?そもそも学校ではグラーティアを名乗ってなかったのに、今更バレるのも死ぬほどハズい。読んだよー、なんて連絡が来たら本気で心が死ぬ。
『当主を引き継ぐ』事の影響に今はじめて気づき、両手で顔を覆ったままソファに倒れ込んだ。
「あ…」
いずれ、じゃない。今朝書き上げた物語は、近々世に出てしまう。
「ヤバい…ヤバいヤバいヤバい、ヤバいぞ」
「何がヤバいのだ?」
「うわあ、びっくりした」
また、いつの間にか目の前に姉が座っていた。
「最近お前の耳が遠すぎてそっちのがヤバい。エルフかどうかも疑わしいレベルだぞ?」
一つため息をつくと、目の前で、姉は紅茶を入れ始めた。
「何度かノックしたのに…」
「ご…ごめん、え?何時からいた?」
「本を読んでいるところから。集中しているようなので少し待とうかと思ったが、いきなり叫んで転がりまわり始めたから、声を掛けさせてもらった」
紅茶と共に、姉の焼いたと思われる小ぶりなクッキーが目の前に置かれた。
「それで…リューリ様から聞いた話で、何が知りたいのだ?」
「ああ…うん…」
何から聞いていいのか分からない。クラウスの本を読んでいない姉に、内容に関する質問は難しい。
そして姉はエルフにしてはせっかちな方だ。人間の兄と結婚してから、殊更時間を大事にするようになったと言っていたが、その影響か私も今のところ人間に近い時間感覚だと思う。
でも、こちらはまだ質問もまとまっていない状態なのだ。
「レビが、クラウスの後を継ぐ件に関係する話か?」
姉にまでもう話が回っていた。彼女は紅茶を一口飲むと、少し嬉しそうな顔をした。
「あの子のそばにレビがいてくれるなら、私は安心だ。正直良かったと思ってる」
「うん…」
姉が久しぶりに穏やかに笑っていたので、私も引き継いでよかったと初めて思えた。
「巫女に関する記録も書かねばならないのだろう?その関連の質問なのか?」
「…ご明察」
私は少しだけうーんと唸ると、今朝書き上げた文章を姉に送った。
「これで…事実と違うところがあったら教えてほしい」
文章を見て、姉は急に顔を曇らせた。
「私は…本を読むのは苦手なのだが」
「大丈夫、子供向けだよ」
「そうか…でも、リューリ様からの話は、一緒にジークも聞いていたのだ。彼に聞いた方がいいかもしれないぞ?」
兄は勉強家で読書家だ。ガチの人に読まれるのはまだ怖い。私はぶんぶんと激しく首を振った。
そんな私の表情を見て、嫌々ながらも姉は目を通し始めてくれた。
「あ…うん、本当に子供向けだな。私でも読める」
意外に早く読み終わった姉は、
「うん、読みやすかった!」
と笑顔でファイルを閉じた。
「読みやすさじゃなくて、内容的にどこか事実と違うところはないかって…」
「あー!そうだったな、うん」
記憶を探るように、姉はじっと机に目を落とした。
「細かいところを言えば色々あるんだが…少年は、木をよじのっぼったってのは違うな。イリス様の父親が近くの茂みに梯子を隠していたので、それを見つけて使っていた」
「え…そうなんだ」
まあ確かに、毎日食事を届ける父親が木をよじ登るはずがない。なるほどな、と思ったが直すほどの事でもない。
「少年が来なくなった後、イリス様はずっと泣かずに我慢して、5年後に泣き始めたってのは嘘だな。まあまあ早いうちから毎日夕方になると泣いていた」
「…そ、そうか…」
感情の揺れ方は、その人の性格を表すのに重要なファクターだと思っている。これだと解釈違いになるな、と書き直しの必要性を考え始めた。
「でも」
私の思考を打ち破るように、姉が声を上げた。
「事実じゃなくても、こっちのほうがエルフっぽいな。あと…イリス様のイメージに合ってて私は良いと思う」
「…そうか」
姉からお墨付きをもらったようで嬉しかった。思わず口元が緩んだ。
「さっきのあれは、レビが書いたのか」
一番恥ずかしい点に早々に気づかれてしまい、顔が真っ赤になるのが自分でもわかった。
「いや…ちちちちが…ちが…」
「レビは昔から嘘が下手だな」
姉は苦笑しつつ、困った子を見る目でため息をついた。
「…ソウデス…ネ」
「すごいな、こういう才能があるなんて。私は本が苦手だが、ジークはよく読んでいる。ジークにも見せていいか?」
「や…やめて…」
涙目になりそうだ。実際によく本を読んでいる身内の評価なんて怖くて聞けないし、そもそも知られたくない。姉にバレたのも顔に出してしまった自分のミスだ。
「困ってる。自分の名前なんて出したくないし…正史の方は加筆だから表紙に名前が出ないからまだマシだ。こういうのは…本当に困る…」
「…いやなのか。…そうか…」
姉は頬に手をやって、本気で考え込んでいた。
私がこんな感じで情けないことを言っても、笑わずに聞いてくれるので姉にならばまだ相談できる。母には言えないし、父には言いたくもない。
「誰にも知られたくない。できればこの家の人間にも」
「では偽名を使えばいいんじゃないのか?」
「…いいの…かな?」
ペンネーム。確かにその手はあるが、グラーティア家の者が身分を偽って巫女の本を書いてもいいのだろうか。
「正史の方は偽名はまずいだろうが、それ以外は別にいいと思う」
ソーサーごとティーカップを持ち上げつつ、姉が微笑んだ。
「そう…か、そうだな。確かにそうだ。じゃあ急いで名前を考えないと…ああ、クラウスおじいさまに確認した方がいいのかな!?」
「クラウスだって偽名を使っていたぞ?ずいぶん昔…レビが幼い頃だ。イリス様が就任してすぐに出したという本をジーク宛に数冊持ってきたが、1冊以外は全ておかしな名前になっていた」
「…え…えー!?」
なぜ、高祖父はそういう事を先に言ってくれないのか。変に心臓がどきどきして、手が無意味にオロオロと宙を漂ってしまう。
「ど、どれ?その本って。イリス関連の本を」
『その時期に出た巫女関連の本は、このあたりでしょうか』
グノメが素早く10冊近い本を抽出して並べてくれた。
「ああ、これだ、この本。それと隣の2冊もそうだ。装丁が綺麗だったので覚えている。…内容は読んでないけど」
姉が指さした本は深い緑一色の表紙で、金色の細かい蔦模様で縁取られていた。
この本は昔読んだことがある。巫女が主役の、あり得ない冒険譚だ。
縁取りの模様と同じ金で刻印された作者名を見てみる。
「クラリス・バーリルンド…」
クラリスは自分の名前をもじってつけた名前だろうか。苗字の方に心当たりはない。
「女性名だな。レビもこれくらい偽ればいい」
クレアが楽し気に提案してきた。
「でも、私には偽名のアイディアも出てこない。ゼロから考えるのは本当に苦手だ…」
『バーリルンドは、クラウスの亡くなった奥方の実家の苗字です』
私の嘆きを拾って、グノメがまるでヒントを出すかのように説明してくれた。
「未婚のレビには使えない方法だが…ん?なんだ?」
自分の母親の元の苗字はどうだろう。そう思ってじっと姉の顔を見た。
「クレアの亡くなった父君の姓を使わせてもらってもいいだろうか」
「うん…なるほど?キュリーネンならまあまあ街中でもいる名前だ。いいんじゃないか?」
姉の父で、母の前のご主人の名だ。
私は一度も会ったことのない人だが、姉には大事な名前のはずだ。彼女がOKしてくれたことで、少し気持ちが楽になった。
「よし、ではそれで。じゃあ、そうだな、名前を考えてもらってもいいだろうか…」
本当に、私は名づけが苦手なのだ。
小さい頃、庭先で飼っているシュシュリューという鳥に名前を付けろと言われて、10日間悩んで何も出てこなかったことがある。
「うーん…うーん…ブラウニー?…スフレとか…ミルフィーユも良いな、ガレットとかはどうだろう」
「またケーキの名前か!?」
自分の子供にケーキの名前を付けていた姉に、聞いた自分が馬鹿だった。
「それがイヤなら私に聞くな。…他には、シャルロットとか、オペラとか…」
「あ…オペラとは?どんなケーキだろう」
その言葉の、響きが何か気に入った。
「よくうちの店に来ていた地球人から習ったケーキなんだ。いろいろな味の層を重ねて作る。表面がチョコレートで、飾りつけは金箔をあしらうだけなので、私でも出来る!」
クリームを絞るのが苦手な姉が、おかしなところで胸を張る。
「…そうか、ではオペラにするか」
かくして私は、誰にも知られないよう「オペラ・キュリーネン」の名で本を出すことになったのだった。
過去話はここまで。次に「ご当主様」近況を。




