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春よ来い

春節を過ぎてすぐのこの時期、まだ日没の時刻はかなり早い。


あかりに使用する蝋燭や油も庶民にとってはけして安価な品ではないため、必然的に切り詰めて日の出日の入りを基準とした生活を送る事になる。


一年前、こちら側に落ちて間もない頃のネイロにとって、灯りの無い夜はただひたすらに長く恐ろしいものだった。


雨風を防ぐ屋根さえ無い道端で、小さな焚き火の炎を頼りに膝を抱えて丸くなり、得体の知れない獣の鳴き声や絶え間なく草むらをザワザワと揺らす風の音にも酷く神経を磨り減らした。


ありとあらゆる照明器具に囲まれた、恵まれた文明生活を送っていた人間であればそれも当然の感覚に違いない。


それでもただ、慣れるしかなかった。



『やっぱ、お金持ちってすごいんだ。邸中あちこちに照明がある。蝋燭のシャンデリアかー、キレイだけど手入れとか大変そう…贅沢だなぁー』


いつもの時刻に邸の使用人が晩餐を知らせに訪れたため、この数日間で勝手知ったるネイロは二つ返事でスタスタと一人で食堂に向かって歩いていた。

意識して使い分けている訳では無いが、独り言だとやはり母国語になるようだ。


日本人の感覚では些か広すぎる邸内の装飾をじっくり鑑賞しながら進んで行くと、しばらくして見覚えのある扉の前にたどり着く。


「おお、やっと来たか!具合はどうだ?昼間は無理をさせてすまなかったな。じいさんもお前さんの容態を気に掛けてたんだが、若い娘の寝室に踏み込むのもどうかと思ってな」


「あー、うん。もう平気、ただの酸欠だったし」


「サンケツ?」


「えっと、呼吸不足?」


「ああ!例の下着ーーー」


「レジオ、貴方という人は…いったい何歳になったらその失言癖が治るんでしょうねえ」


「全くだぜ…」


扉を潜った途端の聞きなれたやり取りに、これが“雉も鳴かずば”というやつだろうかとネイロは妙な感想を抱いた。

レジオの余計な一言は今に始まった事ではないらしい。


いつもの場所、いつもの顔触れーーーーそして今夜の晩餐の席には、そこにもう一人見知った顔が増えていた。

予想の内にしろ、アレグロ邸の食堂ダイニングに端然としたいずまいのその男の姿を見つけたネイロは、ほっとすると同時に胸の奥に諦めにも似た微かな苦味を感じた。


「………体調は?」


「もうなんともないよ…グリフォン。ベロニカさん達とは別れたの?」


「ああ…、お前のお陰で良い後援者パトロンが出来たと大喜びだった」


「???」


どことなく繋がらない会話に首を傾げるネイロ。


「いやぁ、それがな!例の一座の連中をうちの爺様が妙に気に入ったらしくてなあ。お試しで期間限定の出資をする事になったんだ」


「ええっ!?」


横から入った補足に大きな琥珀の目が思わず点になる。

何がどうしてこうなった!と言いたげだ。


「ご…御隠居さま……勇気あるね。や、確かにスゴい人達だけども」


「変わり種は爺さんの好物だからな。後は連中の実力次第ってとこだ。さ、早いとこ飯にしようや。堅苦しい作法は抜きでな!」


最後の一言は当然新しく席に加わった男の為であったのだが、以外にも生粋の流民であるはずの男は器用に銀のカトラリーを使いこなして見せ、他の面子を驚かせた。


「グリフォン、食事の作法を習った事があるの?」


「…習ってはいないな。見よう見まねだ」


他の男達がどういう事かと話を向けると、過去に何度か身分のある者の屋敷に招かれた事があるという。

その時は何も分からなくていい笑い者にされたが、と感情のこもらない声が語る。


芸能を生業とする者の多くは、力のある後援者を得る事で大成する機会を掴み取る。

そして身分も地位もある裕福な人間の中には、気紛れに己の眼鏡に叶う者を囲いたがる者もいる。

その実態のあらかたが綺麗事で済まない内容であったりするのだが、そこら辺は言わずもがなというやつだ。


もちろんそんな事情はネイロには何一つ分からないが、一年連れ添った男のさして面白くも無さそうな口調から、良い思い出ではなかったであろう事くらいの察しはつけられた。


「しかし以外だな?ちまちまとした食卓の作法なんざ気にも留めない感じの男に見えたんだが…」


「お前ね…客人相手にどんだけ失礼な奴なんだ」


「全くですよ」


先程と突っ込み役が交代しただけの同じやり取りが交わされて、ネイロは小さくクスリと笑いをこぼした。


「でもそうだよね?ちょっとでもグリフォンを見知っていればそう思うよねぇ…。だって普段からホントに自分のやりたいようにしかやらないもん」


「ほう、いかにもだな!」


「そーなんだよ。それでもって仕事中でもお客さんをおだてたりとかのお世辞リップサービスは一切無し」


「おやおや、それでよくまぁ…とと、あの歌声ならなんとかなる…のか?」


「…主に女性客はね…」


「「「………そ、そうか」」」


思わずネイロの背後に真っ黒な闇が見えた瞬間だった。


それ以降はごく当たり障りのない会話を選んで晩餐が進み、食事の締めくくりに飲み物が供される頃合いになって「後はお若いお二人で」と、お決まりの放置プレイが実行された。






「………馴染んでいるようだな」


何に、とも説明一つ無い呟きは、極力感情が抑えられたものだった。

そこには責める色も驚きの色も含まれておらず、ネイロは身構えていた自分の身体からふっと力が抜けるのを感じた。


「グリフこそ…あんな行儀作法マナーの真似事もやれば出来るんじゃないの。私…ちっとも知らなかったし…驚いたよ」


「普段は必要ないからな」


「…………そうだね」


「ネイロ……その、身体の具合は本当にもういいのか…?」


「うん、問題無いよ?あれはただ息が苦しくて目を回しただけだから。貴族の女の人は大変だよねぇ、毎日ずっとあんな衣装を身に付けてるんだからさー。中には鉄板や針金みたいなのが仕込まれた補正下着もあるんだって。ビックリだよね」


「………………………着慣れた衣装ではないのか?」


「なんで?」


「…かなり…様になって……、…………似合っていたから………」


らしくもなく言い換えられた台詞は、相手にこれっぽちも感銘を与えた様子が無く、サラリと流された。


「そお?でもあれは駄目だね。苦しくてちっとも走り回れないし」


「お前は…あの格好でも走り回るのが前提なのか」


「だってそうでしょ?あれじゃあ何処にも出歩けないよ。街中でスキップだって出来ないし、酔っ払いに絡まれたって回し蹴りも出来ない!」


「……………………」


酷く何かがズレたその発言に、今度は男の全身からどっと力が抜ける番だった。

何処の世界に酔っ払いに回し蹴りを食らわす貴婦人おんながいるというのだ。

向かい合わせに座ったテーブルの片端で、片手で額を押さえたまま俯く男に向かって娘は不思議そうに声を掛ける。


「グリフ?」


キョトンとして小首を傾げる仕草は、小動物めいていて実年齢以上に幼く見える。


「……………お前は。目を離すと何処へ跳び跳ねて行くのか分からない娘だ。この上まだ俺の目の届かない場所へ行こうというのか…?」


普段は自分よりかなり高い位置にある深緑の双眸に、上目遣いにカチリと捕らえられて娘の動きがゆるりと固まる。


そこに、自分のなかにあるのと同じ色彩いろを見つけて。


ただひたすらに乞い願うような。

それでいて、何もかもを諦めてでもいるような。

失う事に慣れすぎてりきれた、石灰色の傷痕が残る心臓が軋む音。

注げどもけして満たされぬ、ひび割れた聖杯が奏でる虚ろな音色を。


「……ぐ…りふ……」


ああ、駄目だ。と胸の最奥が騒ぐ。

自分は後悔するだろう。

何度もくだろう。


ひび割れたお互いの傷口に手を当てて塞いでも、一度ひとたび手が離れた瞬間、幾度となく傷口が疼くことだろう。


それでも。


ああ、もう、おしまいだ。


(………大の大人にそんな捨て犬みたいな目をされたら…、降参するしかないないじゃないよーーーーーっ!!!)





「ーーーグリフ、私ね。とっっっても心が狭いの」


唐突に意を決したような表情で語りだした娘に、男は何事を言われるのかと僅かに目を瞬き、黙って口をつぐんで次の言葉を待った。

すると娘はすぅと深く息を吸い込んでから、立て板に水の勢いでまくし立て始めた。



「そもそも恋愛にはちょっとばかし夢があって、出来れば初恋が実るといいなーとか、出来れば一生を添い遂げる相手と結ばれたいなーとか。

それに、私は欲張りだから好きになった相手の事はまるごと欲しいと思うし、相手にも自分だけを想って欲しい。

すっごいワガママ言ってる自覚はあるけど、コレが本音だから!

それと!!

浮気は絶対許さないし!

バレないようにやれば気にしないとか、死ぬまで騙してくれれは許すとか、そんな綺麗事言う気ないからねっ。

私、浮気されたら泣きわめくし、詰るし、暴れるよ!!

その度ぶち切れて暴走するような面倒臭い小娘なんだよっっっ!!」



一息に言いたい放題を言い終えた娘は、ハァハァと呼吸を乱したまま真っ赤な顔で男の顔を睨み付けるようにして正面から見据えた。

男はというと何を言われたかまるでサッパリ解っていない顔で、相変わらずの無表情の上に微かに困惑の色を滲ませている。


「…………ね…ネイロ?……何が言いた…い…………?」


そこで娘がプチリとキレた。


「『何が言いたい』!?『何が言いたい』かだってえぇえーーーーー!?この朴念人のスットコドッコイやろおおおぉーーーっ!!こちとら少ない語録を総動員で必死に気持ちを切々と語ってるてのに!!うわあああん!グリフォンの激鈍うぅうっ!!

もげてしまえぇえぇーーー馬鹿ーーーっ!!!」


「……いや、それだけ罵倒出来れば、語録は充分だろう」


「伝わんなきゃ意味ないし!!」


「…伝わる…?」


「だから!好きだって言ってんの!!」


「ーーーー」


「もぉヤダ…、なんだってこんな人好きになったの私…。初恋なのに無惨過ぎるよぅ…」


さめざめと泣き崩れる娘の姿に気を彼方に飛ばし掛けた男は一瞬で我に返り、その身体を素早く腕の中に囲うと膝の上に抱き上げた。


「…今…俺の事が好きだと言ったのか…ネイロ…?」


「しかも疑われてる!?ヒドイよ……」


「いや、そうじゃなくて…っ。俺には信じられなくて…」


「ほらぁ!やっぱり!うぅ…ふぇぇ…」


「だから!ちが…っ」


膝の上でめぇめぇ泣き続ける娘に何と言えば伝わるのか、土壇場に来てまで恋愛脳が壊滅的な男は途方に暮れた。



『五歳の伜にも言えた台詞だぜ?』




「ーーーーーー」


ああそうか、と、男はここでようやく先程の“年長者”との会話を思い出した。

歌の歌詞のように飾る必要などどこにもなかったのだ、と。


「ネイロ」


「うぅー…っ」


男の胸元に顔を押し付けるようにして泣きじゃくる娘の耳許に、囁くようにして紡ぎだされる言葉は。


「…お前が好きだ」


腕の中で華奢な身体がふるりと震える。

だがまだ、涙は止まらない。


「苦労を掛けるのが決定事項な上に、女心に疎い夫で申し訳ないが…。俺の嫁になってくれ…るか?」


「……………何故そこで疑問系?」


「いや、いまひとつ自信が持てないんでな。……だめか?」


「……もう一声」


「……………」


「もう一声」





「……愛してる……」





男の腕の中に抱きすくめられた娘の耳許に囁かれた言葉が、ジンワリとその胸に染みるまで数拍。


僅かなようでいて永遠にも似た間合いの後に、大鷲が捕らえた茶色い兎は今度こそ弾けるような笑顔を見せて笑った。


「うん!グリフのお嫁になる!」





































あと、もう一押し。

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