はじめての〇〇〇〇
ーーー時は遡って、数時間前。
気力を振り絞りどうにかこうにか最後の一小節まで歌い終えたネイロは、グリフォンの胸に倒れ込むような姿勢で意識を手放した。
そしてその思わぬ事態に最も驚いたのは、弟子を腕の中に抱き止める格好になったグリフォン本人に他ならずーーー。
「医者を…医者を呼んでくれ!頼む、レジオ・アレグロ…!」
歌の終わりに突然意識を失い崩れ落ちた弟子の身体を掬い上げるようにして屋内に運び込んだ男は、酷く取り乱した様子で邸の主にそう詰め寄った。
いつもの無表情が嘘のような楽士のその狼狽ぶりに、詰め寄られた方も驚きの表情を隠せない。
「ちょっ…、待て待てっ。大丈夫だ!あれは単なる下着の締め付け過ぎが原因だとうちのばあや…女中頭がそう言ってただろーがっ。女物の下着って物は鎧並の装備のヤツもあるんだよ!」
「……だが万一ということも…!」
「ねえって!!」
どこまでも心配気な男に対して、驚きを通り越して少々呆れた気分になったレジオだった。
「女の下着なんざ散々脱がして見慣れてんだろうが。ええ?この助平野郎」
「……っ、そ…」
「ちったあ落ち着けつってんだよ。あいつは時間が経てば元通りピンピンして目を覚ます。お前さんはそれまで俺達に付き合え。話があんだよ、話が」
そう言われて幾らか平静を取り戻した男が部屋の中を見渡すと、いつぞやの見慣れた顔触れがやれやれといった顔で自分達のやり取りを見守っている状況に今更ながら気がついた。
「貴方とまともに話をするのは一年ぶりですね。私は首都の薬師街で商家を営んでいる者でリフレ・エリキサと言います」
「うちは布地や小間物なんかが主力の取り扱いだな。入り用の際は是非声を掛けてくれ。ラルゴ・ドラクロワだ」
どちらも働き盛りの商人といった風体の男二人。
一年前カレニアの宿に雨季で足留めされた際に、幾らか交流があった相手。
グリフォンの記憶ではその程度の認識であったが、実際交流していたのはまだろくに言葉が通じない弟子のネイロの方で、しかもお互いかなり馴染んでもいた。
弟子が手慰みに思い付いたらしい遊戯に飛び付いて、日がな一日それに夢中になっていたと思ったらいつの間にやら商品化まで果たしていた。見上げた商人魂である。
「あいつの今後の身の振り方についてだよ」
その言葉が発された直後、室内の温度が急激に冷え込んだように感じられたのは、けして気のせいだけではなかっただろう。
*
案の定“話し合い”は難航した。
控え目にネイロを引き取りたいと申し出た商人達に対して、楽士の反応が目に見えて硬化。
背後にブリザードが吹き荒れんばかりの無言の抗議が繰り出された。
この上余計な刺激を与えようものなら、ギタールをナイフに持ち替えて即座に目の前の商人達の首を刈り取りそうな雰囲気を漂わせている。
(……レジオ。この人本当に楽士なんですかね。暗殺者とか言われても納得しますよ私は)
(偶然だな…俺も今自信がなくなって来たとこだ…)
(オイオイ勘弁してくれ。俺はまだ可愛い妻と一人息子を置いて先立つ予定は無いんだがね)
コソコソと器用に視線で会話を交わす男達。
よくよく考えてみると、以前この楽士と交流があった際、傍にはいつもあの娘の姿があった。
今思えば客商売とは思えないその寡黙さで絶えず滞りがちになる男の会話を、明らかに軽口と判る口調のネイロの異国語が、場を和ませる緩衝材の役割を担っていたのだろう。
「まったく…、年長者の話は聞くもんだぜ若いの。俺達は何もおチビをお前さんから無理矢理引き剥がそうって言ってる訳じゃねえ。ただ、あいつにも選択肢がある事は覚えててやってくれ」
いつまでもお互い無言のままでは進む話も進まないため、家主であるレジオが仕切る形で話し合いは続く。
「身寄りのいないおチビにしてみれば、今のところお前さんが唯一無二の存在なんだろうが…。俺としちゃあ元はかなりの家柄の娘を、そのまま野に置いとくのも如何なものかと思うぜ」
レジオの台詞に氷結していた男の表情が僅かに崩れ、軽く目が見開かれた。
「…まあ、その辺の事情はそっちの方が詳しいだろうから、余計な世話というか完全なるお節介だがな」
続けられた言葉に今度はその面に目に見えて動揺の色が滲む。
なんとも気まずそうに視線を泳がせる仕草は、己の身にやましい覚えがあると告白しているようなものだ。
「……おい?…何がどうした?」
「…………………………………………………ぃ」
「ああ?」
「…………………………俺は、あいつの……昔の事情は何一つ知らない……」
その返答に三人組は揃って怪訝そうに首を傾げた。
「あの子が話したがらなかったのですか?」
考えられそうな事ではある。
そもそも去年の時点でまだ言葉による意思疏通は不完全なものだった。
複雑な会話が交わせるようになるまで、相当の時間を要した事だろう。
あれから約一年足らずで日常会話に困らない現在の状態というのは、実はかなり驚異的な語学力だともいえる。
そして言葉の壁という事情を差し引いても、思い出すのも辛い過去を他人に打ち明けるのは気が重い話。
根掘り葉掘り聞き出した三人組としては少しばかり後ろめたい気がするが、それも必要な事であったと思う事にしていた。
「…………必要なかった」
「…どういう事ですか?」
「あれに身の上を問うた事も、こちらが問われた事も、一度も無い」
「「「……一度も?」」」
予想外の答えに思わず三人の言葉が重なる。
「………」
それを問うてしまえば、己自身も問われる側になる。
男には他人に語れる程の身の上話など持ち合わせてはいなかった。
清貧には程遠く、どこまでも後ろ暗い事情が付きまとう。
そんな生き方ばかりをしてきた。
適当な法螺話をでっち上げてさも事実であるかのように語る、などという気の利いた才能も無い以上、問われれば黙するしか手立ては残されておらず、何かを誤魔化すには最も向かないやり方になる。
そういった面倒事を避け続けた結果、現在に至っても弟子の事情を何一つ理解していないという、あまり褒められたものではない状況が出来上がっていた。
「…悪いこた言わん。お前らもうちっと会話をしろ。特にお前さんだ、グリフォン。言葉を惜しむな。別に話したくない事まで話せとは言わんが、せめて信用を取り戻すぐらいの弁明はした方がいい」
「同感です。なんでもかんでも思った事をすぐ口にして女性に敬遠されるレジオに言われてはおしまいですが」
「その通り。気持ちはきちんと言葉にして伝えるべきだな!美辞麗句を並べたてる必要はないが、好意は常日頃からはっきりと形にして表すのが夫婦円満の秘訣だ」
三人の“年長者”からの助言に、男はふと今までの自分を振り返る。
自分はかつて一度でも自らの好意を言葉にして他人に伝えた事があっただろうか。
ーーー何度考えても思い当たる節が無かった。
そう正直に口にすると、三人は自分達よりはるかにガタイの良い男をまるで出来の悪い息子を見る親のような眼差しで見詰め、
「「「………………はぁぁぁ……………」」」
と、それはそれは深い溜め息を落とした。
「…うちの息子は五歳の時に、三軒先の染め物屋の娘んとこに毎日花束持って求婚に行ってたっけなぁ」
「おや、微笑ましいですね」
「んで、毎日フラれて帰って来ちゃあ『明日こそは!』って息巻いてた」
「…不屈の闘志を感じるぜ。んでどうなった?」
「数年前隣の街に嫁に行った。九つ年上だったんだ」
「ぷ…気の毒したな」
「いやいや?初恋ってやつは大概そんな結末を迎えるもんさ」
「真理ですね。自分にも覚えがありますよ」
ひとしきり話題が横道にそれた。
「ですから、楽士殿は切羽詰まって公衆の面前で見世物紛いの告白をするのではなくて、こまめにきちんと自分の気持ちを伝えるべきだったんですよ」
「『すきです。ぼくのおよめさんになってください』ってな。五歳の伜にも言えた台詞だぜ?」
「……そりゃ些かマセてる気もするがな」
「………………嫁………………」
かなりの間を空けて男がぽつりと呟く。
その声音には考えてもみなかったとでもいうような、茫然とした響きが含まれており、年長者三人はそれに更に呆れ返った。
「人前であんだけ歯が浮くような台詞を吐いておきながら、よもやそんなつもりじゃなかったとか言わねえだろうなあ?エエ?」
「そうか……嫁にすればいいのか……」
定住者と異なりその日暮らしの流民は、『結婚』というものにあまり重きを置かない。
夫婦になるにしても神殿に御布施を用意してまで祝福を受ける者はごく少数派で、一般的にはお互いの合意があればそれで成立する。
理由は単純明快、そこまで生活に余裕が無いからだ。
そのため弟子を口説き落とそうと考えていたこの男の認識も、なんとなく“情人”辺りの括りに留まっており、『嫁』という発想は思い浮かばずにいたようだ。
ただし、結婚の定義があいまいな分重婚や浮気といった問題も多く、あえて夫婦という形を求めない流民も多い。
余程信頼できる相手でなければ、共同生活を始めてもすぐに破綻する可能性が高いからだ。
性に奔放な流民ならではの事情だが、それを最も体現しているのがこの男であるのはまず間違いない。




