狂想曲
全身の毛並みを逆立てて怒る猫のような娘を目の前にして、いったい何をどう話し合えば良いのか、男には皆目見当もつかなかった。
自分が怒らせたのは間違いない。
に、してもだ。ネイロがこれほど怒りの感情を露にした姿は今まで目にした事がなかった。
くるくるとよく変わる表情の下に不安や本音を押し隠し、傍目にも無理をしていると感じる機会は幾度もあったが、これほど繕わない純粋な怒りを見せたのは初めての事だ。
だが不思議と、取り繕われた偽りの表情を向けられるよりはよほど良いと思えた。
男はここで何を言うべきかと悩み、気の利いた言葉ひとつ思い浮かばない自分の口下手さに呆れ、気が付けば口より先に身体の方が動いていた。
謝罪をするのに相手を上から見下ろすのもどうかと思い、片膝をついて視線を合わせれば、今度は男の方が娘を見上げる格好になる。
「―――お前に不快な思いをさせた事は謝る。これまでの事は申し開きのしようも無いが、これからは身を慎むと誓う」
緊張のあまり棒読み。
芝居がかった台詞と所作で周囲の見物客達の視線が一気に男に集中する。
芸人一座の講演の直後に、それなりに着飾った見目の良い役者(と見られている)男女二人が、人目も憚らずに痴話喧嘩。
当人達に毛ほどもその気が無いとしても、周りで見ている者達にこれが『余興の寸劇の一幕』だと勘違いされるだけの充分な要素が揃っていた。
しかも、怒りで頭に血が上りきっている娘と、如何にして己の信用を回復するかで必死の男には周囲の状況が全く見えておらず、自分達が派手に人目を集めまくっている事にはこれっぽっちも気付いていない。
「………なんのつもり。守れもしない口約束なんかいらないよ。それに…、ただの気紛れで拾っただけの子供に義理立てする必要なんてないじゃない!一人で好きなだけハーレムでも何でも築き上げてたらいいんだよ!―――――もう私、グリフォンとは一緒に行けない。ここで別れるから!!」
おお、と『観客』からどよめきが上がる。
「なんだなんだ?今度の芝居は愛憎劇か?」
「―――《楽神》が題材なんじゃないの?…ほら、色好みの優男で有名な…」
「あー、なるほど。弾き語りとかにもよくあるしねぇ…」
ヒソヒソとおかしな憶測が飛び交う。
気が気でないのは傍迷惑な“痴話喧嘩”に否応なしに巻き込まれた商人の三人と、辛うじて無事に講演を終わりにまで漕ぎ着けた《暁の女神》の面々だ。
綱渡りするような気分で芝居になんとかケリをつけ、仕切り直しにと営業活動を始めたら、今度は脚本の無い昼ドラが勝手に繰り広げられている。
(あの男~~~!何考えてんのよっ!!収集つかなくしてんじゃないわよォ―――――――!!!)
座長代理の額の血管が何本かキレたのはまず間違いない。
「あーこれ…、どうしたら良いんでしょうかねぇ」
「……俺に訊かんでくれ。再会の挨拶前にこの展開とは…イヤハヤ…」
呆気にとられて成り行きを見守るばかりの同業者に、レジオが苦笑いを浮かべた。
「―――まだ若ぇんだよ、あの男。以前の見てくれのまんまだったら到底信じられんが、…二十六だとよ」
「何だって?!」
「おや。それじゃあ、本当に“痴話喧嘩”なんですかね」
「そこまでは何ともなぁ…」
――――と。すぐ近くで交わされる会話も、二人の耳にはまるで届いていない。
「……ネイロ!頼む、思い直してくれ。お前の代わりなど何処にもいない。俺にはお前しかいないんだ…」
段々と台詞が三文芝居めいてきているが、本人にとっては至極必死の訴えに他ならない。
表情筋の不具合から周りの人間にはさほど切迫しているようには見えないが、男はこれ以上無いぐらいに取り乱していた。
「私程度の竪琴弾きなら探せばすぐに見つかるよ。…もっと腕の良い人だってきっと」
「そういう事じゃないんだ…!」
「――――じゃあ、何」
二つの琥珀が更に冷たい輝きを増し、跪く大鷲をねめつける。
「少なくとも私は、日替わりで女性と寝床を共に出来る人に“一生”とか言われても信じらない。処世術にしたって大概だし、断るのが面倒臭いなんていう理由でグリフが手を出した相手にイチイチ悋気をぶつけられてたんじゃ身が持たないよっ!」
華奢で可憐な容貌の娘の訴えに観客は無言でウンウンと頷いて、男に生暖かい視線を注いだ。
「…それにいつか、グリフに本命の情人が出来たら私は邪魔になるよ」
保護者といえど元は赤の他人。
けして対等ではない相手の情けに縋らねば生きられないネイロの立場は、根の無い浮き草に等しい。
後ろ楯を失えばたちまち生活に困窮するのは目に見えている。
ある日突然何の覚悟も無しに捨てられて路頭に迷うよりは、自ら幕を引いてしまえば余計な恨みも抱かずに済むだろう。
そう考えての別離宣言だったのだが。
「有り得ない」
速攻で否定が返された。
「………なんで、…そんな簡単に断言出来るの!そういう所が信じられないんだよっ…!」
ネイロの尤もな言い分に、誰もが男の次の台詞を固唾を飲んで注目する。
「―――ならば、それを証明しよう。お前は俺の傍にいて十年でも二十年でも確かめると良い。今日この日から俺は、お前以外の女には触れないと誓う」
一同唖然。
当然ながら、大真面目な面の裏で男がダラダラと冷や汗をかいている事に気付く者は誰も居ない。
営業用に華やかに飾り立てられ、いかにも遊び人といった風貌に仕立てたあげられたその男が、普段は自ら女を口説く事も無ければ本心から睦言を囁いた経験も無い、などと誰が信じるだろう。
数だけはこなしていても手練手管とは一切無縁の男であるとは、誰も予想だにしていないに違いない。
「―――頼む、俺から離れないでくれ」
ザワリ、と周囲が再びどよめく。
見物客の方にはすっかり『芝居』の成り行きを見守る雰囲気が出来上がっていて、中には口笛で囃し立てる者までいる。
「言葉が信じられないと言われれば、後は行いで示すほか手立ては無い。俺に今一度お前の信頼を取り戻す機会を与えてくれ―――頼む!」
懇願の響きが滲む声に駄々漏れの色香が際限無く撒き散らされ、そこかしこで若い娘達の呻きが漏れる。
その効果は最早殺虫剤。
だが一番効いて欲しい相手に微塵も作用する気配が無いため、無駄もいいところではあるが。
ジリジリと緊迫した沈黙がしばらく続いた後で、交わっていた視線をふと外したのはネイロの方だ。
激情が消えたその面は迷子になった小さな子供のように寄方無い、頼り無げな表情だけが残されている。
男は堪らず手を差し伸べたくなって腰を浮かしかけたものの、自分が近付いた分だけ後退りする娘を見て、思いきり抱き締めたくなる衝動を既のところで何とか押さえ込んだ。
「ごめん…、私…いま何も考えられない。しばらく一人にして…」
「ネイロ…!」
二人が見つめ合ったまま再び膠着状態に陥りそうになったその時、自分達のすぐ近くから掛けられた声に我に返った。
「ちったぁ正気が戻ったか、お前ら!」
「レジオさん…」
「………」
「ったく、訳の分からねぇ大暴走しやがって。人が折角旧交を温めようと顔馴染みを連れて来たってのによ。――――いいか。おチビはニ、三日俺が預かる。てめえは頭冷やしてから迎えに来やがれ」
「――――!」
「レジオの商会には女手もありますから、楽士殿が心配するような事は何もありませんよ。我々もちゃんと見張っていますし」
「ま、そういう事だ。安心してくれ」
男が何かを言う前に商人達が口を挟んで反論を許さない手際の良さで焦然と項垂れる娘をその場から連れ去り、広場には抜け殻になった男だけが取り残された。
一部始終を見ていた見物客からは盛大なブーイングが上がった。




