6 健康のためだよ
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普段は怠惰な私だが、日曜日の朝はひとあじ違う。朝の6時には起床し、朝ごはんを食べてジャージに着替え、準備体操をしてから7時頃に家を出て一時間ほどジョギングする。
とあることをきっかけに始めたこのジョギングだが、今ではすっかり私の生活のサイクルに組み込まれている。我ながら健康的だと思う。週一回しか走らないが。
玄関を出ると、同じタイミングで隣の家からも人が出てきた。
「おはよう、耀君」
「ああ節。おはよう」
司君の二つ年上のお兄ちゃん、耀君。
桐原家のDNAはとても優秀らしく、彼もまたたいそうなイケメンさんだ。
生まれつき色素が薄く、髪も瞳も綺麗なハニーブラウンで、小さい頃はよくハーフと間違えられていた。切れ長な目元はよく見たら司君と似ている。だが基本的に穏やかな気質の耀君と、つんつん尖った気質の司君では、使う表情筋が違うのか、あまり似ているようには見えない。
耀君もちょうど今から朝のランニングに行くようだ。
「節、今日は風も冷たいし、その格好じゃ寒いよ。手袋もしておいで」
「走ったらあったまるでしょ。大丈夫大丈夫」
ジャージの上にはウインドブレーカーも羽織っている。寒さ対策は充分だ。
「だめ。そんなこと言ってると、マフラーと耳当ても着けさせるよ」
「まだそんなに防寒してるひといないよ! やだよ恥ずかしい!」
「嫌ならちゃんと手袋しなさい」
「へいへい……」
まったく面倒なひとに見つかってしまった。まあ毎週のことだから、よく時間が重なって玄関先で鉢合わせするのだけど。
耀君は私と違って毎日走り込んでいる。平日は大学に行く前のもっと早い時間に走ってるらしい。私のノロノロジョギングと違って、耀君はガッツリランニングだ。
いったん部屋に戻って手袋を着けて外に出ると、耀君がまだそこにいた。
「あれ? まだ行ってなかったんだ」
「うん、せっかくだから、今日は節と一緒に走ろうかなと思って」
「ふ、私のスピードについて来れるかな?」
「たまにはウォーキングも悪くないしね」
柔和に微笑む耀君は美人だが、言ってることはけっこうひどい。私のジョギングは耀君のウォーキング並みということか。あんまりだ。
じっとりと半眼で睨んでやると、冗談だよと軽やかに笑いながら言われた。
それから一時間くらい一緒に走った。
私がぜえぜえと息を切らしながらへろへろ走る横で、耀君は平然とした顔で本当に歩いてるようにしか見えなかった。しかも話す余裕なんかない私に、それをわかっていて何かと話しかけてきてすごく邪魔だった。
耀君はたおやかで優しげに見えるが、実はけっこうS要素も持ち合わせていたりする。機嫌が悪いときなどは、にこやかに微笑みながら毒を吐くという妙技も披露してくれるほど。
「体力ないなぁ」
「ひか、耀君はっ、有り余ってる、みたいだね……っ」
「おかげさまでね」
耀君は子供の頃、重い小児喘息を煩っていて、今のように走ることなど出来なかった。何度も入退院を繰り返していたし、風邪から肺炎を引き起こして冗談じゃなく死にかけたこともあるという。
成長するにつれあんなにひどかった喘息の症状も嘘みたいに軽くなり、今ではほとんど発作も起こさなくなった。とは言え、万が一のために耀君はいつも気管支の拡張薬を持ち歩いているが。
「節、暖かいものでも飲んで帰ろうか」
「奢ってくれるの?」
「いいよ」
自販機で飲み物を買って、公園のベンチに並んで座った。気温は低いが、一時間も走ったあとなので身体はホカホカしている。
熱いくらいのココアをひとくち飲むと、自然と深い息がもれた。
「ふはああ、疲れた身体に糖分が染み渡る」
「何言ってるのこれくらいで。あんな走り方じゃ準備運動にもならないよ」
「どこのアスリートですか。私はあれでいっぱいいっぱいなんだから。耀君と一緒にしないでよ」
「虚弱体質だった頃の俺を外に引っ張り出したのは節なのに。形勢逆転だね」
「ほんとにね。想定外だよ」
そう、私がジョギングを始めたきっかけは耀君だ。
小学生の頃、いつも近所を走っている初老の夫婦がいた。
その頃の私は走ることの意味がさっぱりわからず、走っているひとが不思議でたまらなかった。だってとても楽しそうには見えないし。
だからある日、その夫婦に訊いてみたのだ。「どうして毎日走ってるの?」と。そしたらその夫婦は穏やかに笑って答えた。「健康のためだよ」と。
それを聞いて思ったのだ。だったら耀君も走れば元気になるんじゃないかって。
いつもベッドで退屈そうに本ばかり読んでいた耀君。
夏には、庭に設置したビニールプールで遊ぶ私と司君を寂しそうに眺めていた。冬になって雪が降れば、外で駆け回る私と司君を家の中から窓越しに羨ましそうに眺めていた。私たちが楽しいことをするとき、耀君はいつもいつも眺めているだけだった。
耀君も一緒に遊べたらいいのに。プールも雪遊びも鬼ごっこもボール遊びも、三人ならもっと楽しい。
そんな私に朗報だ。なんと走れば健康になるという。苦いお薬も痛い注射も要らない。走るだけ。これは素晴らしい。
私はすぐにでも耀君と一緒に走ろうと思いおばさんを説得したが、もちろん最初は許可がでなかった。でも成長に伴い症状も軽くなってきた頃には、寒くも暑くもない時期に、短時間だけなら、という条件つきでお許しをもらった。最初はおばさんも同行という形から。
司君も誘ったが、司君はなぜかふてくされていて、一緒には来なかった。だからいつも私は耀君と二人で走りに行った。健康になるために。いつか三人で一緒に遊ぶために。
「最初はさ、ただの散歩だったよね私たち。二人とも体力無さ過ぎて」
それが今となっては、耀君は私なんかとは比べものにならないくらいスタミナがある。
私が週一回しか走らなくなっても、耀君は毎日ずっと走ってるし、筋トレなんかして身体を鍛え、食べ物も健康にいいものを率先して選んで食べている。昨日一緒に鍋をつついたときも、主に野菜ときのこ、それから魚を食べていた。肉もバランスよく少々。早寝早起きはマストだし。ちょっとした健康オタクだ。
高校の頃には弓道部に入って大会で優勝なんかも経験している。あの病弱で、普通に生きるのも大変そうだった耀君が。
「俺は節と外を歩いてるだけで楽しかったよ。司には悪いけど」
「なんで司君?」
「だってあいつ、節が俺と走りに行くたびに拗ねてむくれてただろう。いつも独り占めにしてたんだから、少しくらい俺にわけてくれてもいいのに。心狭いと思わない?」
なんじゃそら。私は物か。
耀君の言いぐさに呆れて、私は黙ってココアをまたひとくち飲んだ。少しぬるくなっている。
しばらくお互い無言でジュースを飲んでいた。耀君はお茶だけど。
「……そんなことも、司は忘れてしまったんだよね」
ふいに、耀君がぽつりとこぼした。
白い吐息に紛れそうなほど些細な声だった。
「司君が忘れても、私たちが覚えてるから大丈夫なんだよ。つっくんが消えてしまったわけじゃない」
家族にしかわからない寂寥感やもどかしさがあるのかも知れない。でもそんなに悲しい顔はしてほしくない。司君はちゃんと私たちのそばにいるのだから。
「そうだね、 ごめん。……記憶をなくした司が、俺たち家族のことまで他人を見るような目で警戒して、最初はどうなることかと思ったけど。最近は少し態度が軟化してきたんだ。やっぱり節のおかげかな」
「いやそれは慣れただけだと思うけど。それか、無意識にあの家と家族が自分の縄張りだと理解したか」
「動物じゃないんだから」
くすくすと笑われた。耀君は性格はちょっとアレなところもあるが、本当に綺麗なひとだ。優しく微笑まれたら見惚れそうになる。
「それにしても……節は変わらないね。司に忘れられて、寂しくはない? 早く思い出してほしいと焦ったりはしない?」
気遣うような声で言われて、なぜ耀君がこの話を切り出してきたのかを察した。
きっと私を心配してくれたのだ。いくら幼なじみとは言え、血の繋がった家族とは違い、私は忘れられてしまえばただの他人でしかない。私と司君の間に、確たる繋がりは何もない。
そんな事実に打ちひしがれてはいまいかと、耀君は気にしてくれたようだ。基本的には穏やかで優しいひとだから。
「最初はもちろん戸惑ったし、寂しいとも思ったよ。……でもなぁ、司君と一緒にいたら、そんなことも忘れた。たぶん私が変わらないように見えるなら、それは司君が変わってないからじゃないかな」
「ぜんぶ忘れているのに?」
「うん。記憶がなくても、司君はやっぱりプチトマトが苦手だった。それに私たちがあげたあのダメクッションも、自分じゃ使わないくせに譲ってくれないんだよ。相変わらず私の上に立ちたがる俺様だし。ネガティブだし」
司君は本当に色々忘れているだけで、本質はあまり変わっていない。だから私もあっけらかんとしていられるのだ。
「そうなんだ? あいつ、俺たちにはまだ遠慮っていうか、まだぎこちないくせに、節にはそんなに馴染んでるんだね。……まあ、それでこそ司って感じだけど」
呆れたような苦笑を浮かべ、耀君は手元のお茶をごくごくと一気に飲み干した。それから私の手からココアの空き缶も抜き取りまとめて持ち、立ち上がって近くのゴミ箱へと捨ててくれた。なんともスマートな立ち居振る舞いだ。司君も見習ってほしいものだ。
「身体も冷えてきちゃったし、そろそろ帰ろうか。節が風邪をひくといけないからね」
「大丈夫だよ、私ぜんぜん風邪ひかないし」
「ふふ、そうだね。前に39度の熱が出て『今日は頭も体もフワフワしてとても気分がいいから、ちょっと善行してくるね』とか言いだして街のゴミ拾いに繰り出そうとしたときには、馬鹿は風邪をひかないと言うのは本当なんだと確信したものだよ」
馬鹿は風邪をひいても気づかないから馬鹿なんだってさ、と笑顔で言われて私は真顔で閉口した。
兄弟揃って私を馬鹿に仕立て上げるのはやめたげて。
◇◆◇
「朝から兄貴とどこ行ってたんだよ」
シャワーを浴びてまた違うジャージに着替え、勉強道具を持ってお隣さんちに行くと、ちょっと引くほど不機嫌な司君が待ち構えていた。奴の背後に凍てつく大地に吹き荒ぶブリザードを見た。こっわ!
「な、なに……? なんでそんな怒ってるの」
「はぐらかしてんじゃねぇよ。どこに行ってた?」
こんな爽やかな日曜日の朝から、何をそんなに不機嫌になることがあるのだろう。解せぬ。
「どこって言われても、普通にジョギングだよ。日課だから、……いや、日曜日だけだから週課? まあどっちでもいいか。とにかく毎週日曜日の朝は走りに行ってるの。今日はたまたま耀君に会ったから一緒に行ったけど、いつもはひとりだよ」
「……おまえ走れんのかよ。13メートル50秒のくせに」
「私は亀か。そんな遅くないわ。50メートル13秒だよ」
私のツッコミを聞いているのかいないのか、司君は黙り込んで何やら考え出した。
どうでもいいけど、早く暖かい部屋に入れてほしい。現在私は司君の部屋の前の廊下で責め立てられている。
「――今度からは俺も行く」
「うん? どこにでも好きに行くといいよ」
「アホ。来週からは俺も付き合ってやるって言ってんだよ」
「それはいいけど、……果たして私のスピードについて来れるかな?」
「たまにはウォーキングも悪かねぇからな」
おい、ついさっき兄のほうにも同じこと言われたぞ。