最終章 光の名
一年が経った。
蒲生嘉一郎は、あの夜の約束を半分だけ守った。第七研究棟は正式に閉鎖され、保護された被験者たちは匿名の医療基金を通じて手当てを受けることになった。だが、蒲生自身は表舞台から静かに姿を消しただけで、罪に問われることはなかった。政治とカネの力学の中で、事件そのものが公にされることはなかった。
「これが、この国の現実だ」
久我はそう言って、それ以上を望まなかった。妹の行方は、結局分からずじまいだった。だが、少なくとも同じ被害を生む工場は一つ、止めることができた。それだけで十分だと、彼は自分に言い聞かせているようだった。
石田はその後も、時折連絡をよこした。仕事の話ではなく、ただの近況報告のような、ぶっきらぼうな短いメッセージだった。「生きてるか」――それだけの文面に、亮は毎回「生きてます」とだけ返した。裏社会の男たちの間にも、言葉にならない形の絆があるのだと、亮は少しずつ理解するようになっていた。
保護された少年は、少しずつ回復していった。言葉を取り戻すのに半年、笑うようになるまでにはもう少しかかった。ある朝、庭先で亮が声をかけると、少年は小さく答えた。
「……名前、まだない」
「決めなくていい」亮は隣に座った。「決まったら、教えてくれ」
少年は頷いた。それから数ヶ月後、彼は自分で名を選んだ。「陽」――太陽の陽。理由を聞くと、少年は「暗いところにいたから」とだけ答えた。それ以上、亮は何も聞かなかった。
その夜、亮は書斎の引き出しから、あの灰色の石を取り出した。幼い日の自分が高宮に差し出し、そして高宮の死後、自分が拾い直した石だった。彼はそれを、陽の枕元にそっと置いた。理由は説明しなかった。ただ、誰かに何かを贈るという行為を、自分の手でもう一度、繰り返してみたかっただけだった。
翌朝、陽はその石を握りしめたまま、庭で遊んでいた。何かに使うでもなく、ただ大事そうに握っている。亮はその姿を、しばらく黙って見ていた。憎しみの証だったものが、誰かの手の中で、ただの石ころに戻っていく。それだけで、救われる気がした。
西条正志とは、あれから連絡を取っていない。それでいいと思っていた。彼は彼の人生を、亮は亮の人生を生きればいい。血の繋がりでも、遺伝子の由来でもなく、選んだ生き方だけが、人を決める。
亮は久我の仕事を手伝いながら、この一年、蒲生の周辺に残る組織の残滓を追い続けていた。セイレーンメディカルのような仕組みは、この国のどこかに、まだいくつも眠っているはずだった。それを一つずつ潰していくことが、自分に与えられた意味だと、彼は思うようになっていた。
高宮征一が地下室で書き続けたノートの最後のページに、こう記されていたのを、亮は屋敷を出る前に読んでいた。
――人は、影から逃げられない。
高宮はその言葉通りに生き、その言葉通りに死んだ。憎しみを再現することでしか、自分の存在を証明できなかった男。
だが亮は、その答えに頷かなかった。
影から逃げることはできないかもしれない。だが、影を継ぐかどうかは、選べる。
高宮に与えられた設計図から外れて、自分の意志で名を選び、自分の意志で誰かを守った。それだけで、十分だった。
夜、亮は陽の隣に座り、星を見上げていた。
「なあ」陽が聞いた。「俺たちみたいなの、他にもいるのかな」
「いるだろうな」
「怖くないの」
亮はしばらく考えて、答えた。
「怖いさ。でも、もう一人じゃない」
陽は小さく頷き、それきり黙った。夜風が庭の木々を揺らし、遠くの街の灯りが、静かに瞬いていた。
真壁亮は、影を継がなかった。
彼が継いだのは、ただ一つ――生きようとする意志、それだけだった。




