第9話 嘆願書と告白と、二千人の名前
「北方守備軍、総員二千百八十三名。閲兵、完了いたしました」
セオの声が、冬の空に響いた。
閲兵場に整列した兵士たちの吐く息が白い。鎧が朝日を弾き、槍の穂先が光の列を作っている。
その正面に、王太子リヒャルト殿下が立っていた。
三十歳と聞いている。金茶の髪に、鋭いが公正な目。近衛兵四名を従えて、北方の砦に降り立ったのは今朝のことだった。年次査察。——本来は来年度の予定が、前倒しになった。
私は閲兵場の端にいた。厨房管理官は文官待遇であり、閲兵に加わる立場ではない。ただ、砦の食事を担当する者として査察の場に同席することを許されていた。
殿下の視線が、一瞬だけこちらを掠めた気がした。気のせいかもしれない。
閲兵は滞りなく終わった。設備確認も問題なし。——ここまでは、予定通り。
◇
昼食は砦の食堂で供された。
査察の昼食は定例行事の一部であり、特別なものを出す必要はない。だから私は、いつも通りの献立を出した。根菜と干し肉のシチュー、ハーブを練り込んだパン、発酵野菜の付け合わせ。北方の食材だけで作る、砦の日常の食事。
殿下が一口食べて、匙を止めた。
「——これは、北方の砦の食事とは思えんな」
隣に座るアルヴィンが「厨房管理官の功績です」とだけ答えた。短い。いつも通りだ。
殿下がもう一口。もう一口。パンをシチューに浸して食べ、発酵野菜を試し、空になった皿を見下ろして、小さく笑った。
「なるほど。脱走兵がゼロの理由が分かった」
食堂にいた兵士たちの間から、控えめな笑い声が漏れた。
◇
午後。閲兵場に全軍が再集合した。
査察の総括。殿下が設備と兵站の報告を受け、問題がなければ査察完了となる。形式的な手続きだ。
——のはずだった。
「殿下。お許しをいただき、一件、申し上げたいことがございます」
声を上げたのは、マルクスだった。
兵站担当の老兵。五十を過ぎた背筋のまっすぐな男が、整列の最前列から一歩前に出た。
殿下が目を向けた。「許す」と短く頷く。
マルクスの手に、分厚い束があった。革紐で綴じられた書類。何十枚もの紙が重なっている。
「北方守備軍将兵一同より、嘆願書を提出いたします」
閲兵場が、静まり返った。
「メルル・フォン・ノルトハイム殿の北方砦残留を、請願いたします」
——え。
「署名者は、北方守備軍の将兵二千百八十三名です」
空気が止まった。
二千百八十三名。総員二千百八十三名。——全員だ。この砦の、全員。
殿下の目が見開かれた。
「全員か」
「はい、殿下」
マルクスの声は揺るがなかった。
「メルル殿が着任されてより一年半。砦の食品廃棄率は七割減。脱走兵率はゼロ。志願者数は三倍。北方交易路の食材調達網は近隣三領に拡大。——全て、メルル殿の功績であります」
足が動かなかった。
私は閲兵場の端に立ったまま、息をすることも忘れていた。
(嘆願書——? いつ——誰が——)
セオの顔が見えた。整列の中で、真っ直ぐ前を向いている。あの日、執務室で「嘆願書の準備、進めてよろしいですか」と言った時の、あの鋭い目。
マルクスが。セオが。兵士たちが。——私の知らないところで、準備していた。
二千百八十三の名前。一つ一つが、この砦で共に過ごした人たちの名前だ。
殿下が嘆願書を受け取り、最初の数ページをめくった。署名の列に目を走らせ、それからマルクスを見た。
「見事な書式だ。——受理する」
それから、殿下は私に目を向けた。
「メルル・フォン・ノルトハイム。先日、王都からの命令書が届いているな」
「……はい、殿下」
声が掠れた。
殿下の手が、机の上のもう一通の書類——エーリッヒの命令書を取り上げた。
「この命令書に、私の印がないのだが」
静かな声だった。怒りの色はない。ただ事実を述べている。それが、かえって重かった。
「宮廷外交官エーリッヒ・フォン・ブラントの署名のみ。王命としての要件を満たしていない」
閲兵場に、ざわめきが走った。
「身代わり婚の経緯を含め、この件は王都で正式に裁定する。——ノルトハイム卿」
殿下がアルヴィンに目を向けた。
「異存はないな」
「ありません」
閣下の声は、いつも通り短かった。
——ここで終わるはずだった。査察の総括としては、これで十分すぎるほどの展開だった。
閣下が、立ち上がった。
椅子を引いて、閲兵場の正面に立った。二千百八十三人の兵士の前に。殿下の前に。——私の前に。
「殿下。一件、申し上げます」
殿下が片眉を上げた。
「契約の延長を申し出る」
閲兵場が凍った。
「白い結婚の契約満了に伴い、新たな婚姻届を王室裁定院に提出する」
閣下の声は低く、硬く、一語一語を噛み砕くように放たれた。——震えていた。この人の声が震えるのを、私は初めて聞いた。
「期間は——」
間があった。
長い間だった。たぶん、一秒にも満たない。でも、その間に閣下の目が私を捉えた。あの鉄壁の無表情の奥に、初めて——剥き出しの感情が見えた。
「——一生だ」
歓声が、砦を揺らした。
二千の声が一斉に上がった。誰かが兜を掲げ、誰かが槍の柄で地面を叩き、誰かが——たぶんセオが——「やっと言った!」と叫んだ。
私は立っていた。立っているのがやっとだった。
(嘘でしょう)
膝が笑っている。目の奥が熱い。視界が滲む。
(この人が——あの、無表情の、氷の将軍が——)
泣きそうだった。泣きそうだったから、代わりに口を開いた。
「それは——契約書に書くんですか?」
声が裏返った。我ながらひどい返事だった。こんな場面で——二千人の前で——壮大な告白を受けて、最初に出てくる言葉がそれか。
閣下の目が、一瞬だけ丸くなった。
それから——笑った。
笑ったのだ。この人が。口元がほんの少し上がっただけの、不器用な、小さな笑み。
「必要なら書く。何枚でも」
歓声が、さらに大きくなった。
殿下が席から立ち、静かに手を挙げた。閲兵場が少しずつ静まる。
「この件、王都で正式に裁定する。——ノルトハイム卿、メルル殿。それまでは現状を維持するように」
「はっ」
閣下が敬礼した。
私は——敬礼のやり方を知らなかったので、深く頭を下げた。頭を下げたまま、しばらく上げられなかった。
上げたら、泣いてしまう気がしたから。
閲兵場の上に、北方の冬空が広がっていた。雲ひとつない、痛いほど澄んだ青。
二千百八十三の名前が、私をここに留めようとしている。
そして——一つの声が、一生だと言った。




