第10話 おかえりなさい、と言える場所
王都からの封書は、焼きたてのパンの匂いがする厨房で受け取った。
封蝋を見て、指が止まった。王室裁定院の紋章。
「……来たわね」
隣でグレーテが呟いた。私の手元を見て、それ以上は何も言わなかった。竈の火の番を黙って引き受けて、鍋の前に立った。その背中が「読みなさい」と言っていた。
封を切った。
『王室裁定院告示
一、宮廷外交官エーリッヒ・フォン・ブラントは、王太子の名を無断で使用し、正式な王命なく北方辺境伯への命令書を発行した。これは王命の私的利用であり、不敬に準ずる行為と認定する。同人を宮廷外交官の職より解任し、ブラント侯爵家に対し謹慎を命ずる。
一、トルーデ子爵家嫡女ロゼリア・トルーデとエーリッヒ・フォン・ブラントの婚約は、上記処分に伴い白紙とする。
一、トルーデ子爵家の北方守備軍への兵糧供給契約は、品質基準の継続的不履行を理由に正式に解除する。
一、トルーデ子爵ゲオルクに対し、次女メルルの婚姻に際して本人の正式な同意を得ず家長の権限で代理承認を行った件につき、王室より注意処分を発する。
一、メルル・フォン・ノルトハイムの北方砦残留を認める。白い結婚の契約は当事者双方の合意を以て破棄し、新たな婚姻届の提出を許可する。』
二度、読んだ。
三度目は、文字が滲んで読めなかった。
「グレーテさん」
「何」
「——終わりました」
鍋の前のグレーテの肩が、小さく震えた。振り向かなかった。ただ、鍋をかき混ぜる手が一瞬だけ止まって、また動き出した。
◇
部屋に戻って、裁定書をもう一度広げた。
エーリッヒ・フォン・ブラント。解任。——姉の婚約者だった人。あの穏やかな笑顔の裏で、王太子殿下の名を騙って命令書を出していた人。
ロゼリアとの婚約、白紙。
子爵家の兵糧契約、解除。
父への注意処分。
(……終わった、のか)
窓の外を見た。北方の冬の空。白い。何もない。
不思議と、溜飲が下がるという感覚はなかった。嬉しくもない。悲しくもない。ただ——遠かった。実家のことが、王都のことが、もう遠い場所の出来事のように感じられた。
裁定書の片隅に、父の名前がある。トルーデ子爵ゲオルク。注意処分。
(父上は——気づいたかしら。私の技術に頼りすぎていたこと)
きっと気づいただろう。今頃、あの書斎で額を押さえているに違いない。手順書を広げて、誰かに「これ通りに作れ」と命じて、また同じ品質のものができなくて、途方に暮れているのだろう。
姉のことを考えた。
ロゼリア。「北の白百合」。社交術と美貌で王都を渡り歩いた、華やかな姉。
婚約は白紙になった。エーリッヒの後ろ盾はなくなった。子爵家の収入源も失われた。——でも。
(姉はきっと、立ち直る人だから)
あの人には、人を惹きつける力がある。それは本物だ。使い方を間違えただけで、力そのものは姉のものだ。
——私の技術が私のものであるように。
裁定書を畳んで、引き出しにしまった。
◇
砦の聖堂は、小さかった。
石壁に囲まれた祈りの間。蝋燭の光が壁を橙色に染めている。正面に聖教会の祭壇。その前に、司祭が一人。
参列者は——砦の全員だった。
聖堂に入りきらなかった兵士たちが聖堂の外にまで溢れ、窓から覗き込んでいる。グレーテが最前列で腕を組み、マルクスがその隣で背筋を伸ばし、セオが——泣いていた。もう泣いていた。式はまだ始まっていない。
「セオ副官、早くないですか」
「うるさい。感動してるんだ」
白い結婚の契約書は、昨日、二人で破棄した。署名の上に二本の線を引いて、「無効」と書き入れた。閣下の字は意外なほど几帳面で、私の字は少し震えていた。
新しい婚姻届には、二人の名前が並んでいる。
アルヴィン・フォン・ノルトハイム。メルル・フォン・ノルトハイム。
——フォン・ノルトハイム。契約上の仮の名前だったものが、今日から本物になる。
司祭の言葉が始まった。誓いの文言が聖堂に響く。正直、ほとんど耳に入らなかった。隣に立つ人の肩幅と、軍服の袖口と、不器用に握られた拳ばかりを見ていた。
「誓いの言葉を」
司祭に促されて、閣下が——アルヴィンが、こちらを向いた。
「……俺は、言葉が下手だ」
知っている。
「だから一つだけ言う」
蝋燭の光が揺れた。アルヴィンの目が、真っ直ぐに私を見ていた。祈祷室であの花を見つけた朝と同じ目。でもあの時より——ずっと近い。
「お前の料理が食いたいんじゃない」
息が止まった。
「お前がいる食卓がほしいんだ」
聖堂が静まり返った。
そして——崩れた。
泣いた。
堪えるつもりだった。私は泣かない人間だ。前世でも今世でも、泣いて状況が変わったことは一度もなかったから。出発の三日前、父の書斎で「お前でいい」と言われた時も泣かなかった。砦に着いた日も。深夜の厨房で一人で作業した夜も。荷造りをした朝も。
泣かなかった。ずっと。
でも——「お前がいる食卓がほしい」。
この一言が、全部壊した。
涙が止まらなかった。声を殺そうとしたけれど、だめだった。嗚咽が漏れた。聖堂の天井に反響して、自分の泣き声が自分の耳に返ってきて、恥ずかしいのに止められなかった。
アルヴィンの手が、そっと私の頭に触れた。大きくて、硬くて、不器用な手。
「……泣くな」
「む、無理です」
「そうか」
その手は、離れなかった。
◇
食堂は、宴だった。
普段の三倍の量を仕込んだ。結婚式のごちそう——とはいっても、北方の砦だ。豪華な食材があるわけではない。いつもの干し肉と根菜とハーブのシチューに、特別にブレンナー伯爵領から取り寄せた蜂蜜を使った焼き菓子を添えた。それだけ。
それだけで、食堂は笑い声で溢れた。
「あんた、本当にここの人間になったのね」
グレーテが、目を赤くしながら言った。
「最初から言ってたでしょう」
「言ってないわよ。最初は『お嬢様に何ができるの』って言ったわ」
「……言ってましたね」
二人で笑った。
マルクスが近づいてきて、私の前にジョッキを置いた。
「初日に来た時は、正直、三日で音を上げると思っていた」
「グレーテさんと同じこと言ってますね」
「だが——こいつは」
マルクスが帳簿を軽く叩いた。私が作った保存食マニュアル。引き継ぎのために書いたものだ。去るつもりで書いたものだ。
「これは砦の公式手順書にする。俺が本部に申請を出した」
「え——」
「去るために作ったもんだろう。だが、残るための土台になった。——いい仕事だ」
言葉が出なかった。黙って頭を下げた。
「さすがに俺も泣いていいですか」
セオがアルヴィンに聞いた。
「……好きにしろ」
「了解です。——あ、メルル殿。一つだけ暴露していいですか」
嫌な予感がした。
「赴任初日に部屋にあった防寒具。あれ、団長が自分で選んだんですよ。サイズ指定して、裏地の毛皮まで指定して。あと五話の——じゃなくて、風邪の時のマント。あれ団長の特注品です。他の誰にも貸したことないやつ。俺、三年仕えてますけど初めて見ましたあの人が自分のマント人に渡すの」
食堂がどよめいた。
アルヴィンの耳が——赤い。この鉄壁の無表情の人の耳が、はっきりと赤い。
「セオ」
「はい」
「明日の巡回、お前が行け」
「了解しました。喜んで」
セオは全く懲りていなかった。食堂の笑い声がさらに大きくなった。
◇
夕暮れ。
宴が落ち着いた頃、アルヴィンは砦の巡回に出た。結婚式の日にも巡回を欠かさない人だ。
私は食堂に残って、片づけをしていた。皿を洗い、鍋を磨き、竈の灰を掻き出す。いつもの手順。いつもの場所。
窓から夕焼けが差し込んでいた。北方の冬の夕焼けは、短くて、鮮やかで、すぐに消える。
食堂の扉が開いた。
冷たい外気と一緒に、大きな影が入ってきた。
外套に雪の欠片がついている。頬が赤い。巡回帰りの、いつもの姿。
私は振り向いて、笑った。
「おかえりなさい、アルヴィン」
名前を呼んだ。初めて。「閣下」でも「将軍」でもなく。
アルヴィンの足が止まった。
一瞬——本当に一瞬だけ、あの鉄壁の顔が崩れた。驚きと、戸惑いと、それから——もう名前をつけなくてもいいものが、全部混ざった顔。
それから、小さく。
「——ただいま」
歩み寄ってきた手が、私の額に触れた。冷たい指。外気に晒された指。あの深夜の厨房で薪をくべてくれた手と、同じ温度。
額に、唇が触れた。
冷たくて、温かかった。
食堂の窓から、北方の夕焼けが最後の光を投げていた。鍋底がそれを受けて、ぴかりと光った。
磨き上げた鍋。温かい竈。帰ってくる人。
——ここが、私の食卓だ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
もし、この物語を少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや★評価などの形で応援をいただけますと、大変励みになります!!




