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身代わり花嫁の契約期間は三年です  作者: 九葉(くずは)
第1章

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第8話 荷造りと、将軍の拳と、好きな味のメモ

荷造りは、料理と似ている。手順通りに、淡々と、一つずつ。——泣くのは、全部終わってからでいい。


契約満了まで、あと二週間。


寝台の上に木箱を二つ並べて、荷物を詰めていく。衣類は少ない。赴任の時に持ってきたものと、砦で支給されたもの。宝飾品はない。本もない。


私の荷物は、ほとんどが紙だった。


砦の全レシピ。季節ごとの献立表。保存食の製法マニュアル——乾燥肉の塩分量と乾燥時間の対応表、発酵野菜の温度管理記録、ハーブソーセージの配合比率。食材調達先のリストと、各商人との取引条件の覚書。


一年半かけて書き溜めた、この砦の食の全て。


(これはグレーテさんとマルクスに渡す分。……こっちは、商人のヴェーバーさんへの引き継ぎ書簡)


一枚一枚、確認しながら束ねていく。指先が勝手に動く。丁寧に、正確に。引き継ぎ資料の作成は、前世でも得意だった。退職するたびに完璧なマニュアルを作って去る。そういう人間だ。


(……そういう人間なのよ。私は)


いなくなる準備が、上手い。


木箱の底に、一冊の帳面があった。


手が止まった。


薄い革の表紙。角が擦り切れている。開くと、自分の字が並んでいた。


『塩気は控えめ。ハーブは強め——特にローズマリー。パンは柔らかいものより固めを好む。汁物は熱いうちに。冷めたものには手をつけない。甘味は苦手。果実の酸味は可。根菜は大きく切る。肉は赤身。脂身を避ける。


——二年目の春、セオ副官に確認。「団長は昔から猫舌なんですよ」とのこと。矛盾。汁物は熱いうちにしか飲まないのに、猫舌? 要観察。


——二年目の夏。判明。猫舌なのに冷めたものを食べないのは、「冷めた汁物は不味い」という主義が猫舌に勝っているから。熱いのを我慢して食べていた。……この人は。


閣下の、好きな味のメモ。


赴任してすぐにセオ副官に聞いたのが始まりだった。料理人として当然のリサーチのつもりだった。そのはずだった。


なのに気がつけば一年半分の記録になっていた。日々の食事の反応を観察し、完食した日の献立に印をつけ、残した日の原因を分析し——


(これは引き継ぎ資料。グレーテさんに渡して、私がいなくなった後も閣下の食事が適切に——)


手が、震えた。


帳面を閉じた。木箱に入れた。入れてから、また取り出した。入れ直した。


(……引き継ぎ資料よ。それ以上の意味はない)


指先が帳面の表紙を撫でた。革の感触が温かい。何度も開いたから、手の温度が染みているのだろう。


木箱の蓋を閉めた。


    ◇


その日の午後、砦の門前に馬車が一台到着した。


王都からの使者だった。


正装の文官が一人、護衛の兵士が二人。文官は砦の兵士に案内されて将軍執務室に向かい、私もアルヴィンの許可を得て同席した。白い結婚の契約当事者として、内容を確認する権利がある。


使者が差し出した命令書を、閣下が受け取った。封蝋を切り、広げ、目を通す。そのまま私に回された。


『北方辺境伯アルヴィン・フォン・ノルトハイム殿


トルーデ子爵家の婚姻再整理に伴い、本来の婚約者であるロゼリア・トルーデを北方に送る手続きを進める。現在の契約婚姻者メルル・トルーデは、契約満了を以て王都に帰還すべし。


   宮廷外交局 エーリッヒ・フォン・ブラント』


読み終えて、もう一度、末尾を見た。


署名はエーリッヒ・フォン・ブラント。宮廷外交官。姉の婚約者。


——それだけだった。


(王太子殿下の印が、ない)


北方軍への命令は王命として発されるものだ。王太子殿下の印、もしくは国王陛下の御璽がなければ、正式な王命とは認められない。


これは、宮廷外交官の個人名義の書簡でしかない。


(エーリッヒ様が、独断で?)


使者の顔を見た。使者は視線を合わせなかった。


閣下に目を向けた。閣下は命令書を机に置き、使者に「三日以内に回答する」とだけ告げた。使者が退室した後、執務室に沈黙が残った。


「閣下。この命令書には——」


「分かっている」


短かった。閣下はそれ以上何も言わず、命令書を引き出しにしまった。


    ◇


アルヴィンは自室に戻り、扉を閉めた。


机の上に命令書の写しを広げ、もう一度読んだ。エーリッヒ・フォン・ブラントの署名。王太子の印のない、紙切れ。


三年前の秋が蘇った。


南壁の崩壊。魔獣の咆哮。瓦礫の中から引きずり出した妻の手は、もう温かくなかった。


あの日から、食事の味が分からなくなった。何を食べても同じだった。砂を噛むような日々が二年続いた。


——それが変わったのは、一年半前だった。


錆びた鍋を磨く小さな背中。泣かなかった女。「三年で自由になれるなら、悪くないお話です」と言って笑った女。


毎朝、厨房から漂う匂いで目が覚めるようになった。完食するようになった。食卓に、色が戻った。


また——失うのか。


拳を机に叩きつけた。


痛みが走った。木目に亀裂が入った。


あの時は守れなかった。間に合わなかった。何もできなかった。


——今度は。


拳を握り直した。血が滲んでいた。


今度は、守る。


    ◇


翌日の夕刻。


引き継ぎ資料の最後の一束をまとめ終えた私は、将軍執務室を訪ねた。


「閣下。——お世話になりました」


頭を下げようとした。


閣下は、椅子に座ったまま、こちらを見ていた。


口が開きかけた。何か——何かを言おうとしていた。喉が動いた。唇が形を作りかけた。


言葉は、出なかった。


沈黙が、重かった。


(——引き留める気は、ないんだ)


そう思った。仕方がない。契約は契約だ。閣下は最初から「白い結婚」を望んだ人で、三年経てば終わると分かっていた。


私が一人で勝手に、この砦を好きになっただけだ。


「メルル殿」


声は、閣下ではなかった。


執務室の扉の脇に、セオが立っていた。いつの間に入っていたのか。——いや、最初からいたのだ。私が気づかなかっただけだ。


セオの顔は、いつもの軽い笑みではなかった。真剣だった。


「団長」


セオはアルヴィンに向き直った。


「年次査察が来週です」


閣下が頷いた。


「嘆願書の準備、進めてよろしいですか」


空気が、変わった。


閣下の目が、初めて——私ではなくセオを見た。数秒の沈黙。それから、短く。


「——好きにしろ」


セオの口元に、笑みが戻った。いつもの軽い笑みではない。刃物のように鋭い、覚悟の笑みだった。


「了解しました」


それだけ言って、セオは踵を返した。足音が廊下に遠ざかる。


「……嘆願書?」


私は二人のやり取りの意味が分からないまま、立ち尽くしていた。


閣下は答えなかった。ただ、机に置いた右手の甲に、薄い赤が滲んでいるのが見えた。——昨日まではなかった傷。


「閣下、お手が——」


「問題ない」


いつもの三文字。いつもの無表情。


でも、その声は——あの命令書を読んだ直後の硬さとは、違っていた。


何かを決めた人間の声だった。


意味が分からないまま、執務室を出た。廊下の窓から見える空は、冬の入口の灰色だった。


来週。査察。嘆願書。


——何が起きるのか、私にはまだ分からなかった。

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― 新着の感想 ―
「問題ない」 いつもの三文字。いつもの無表情。 ……三文字?
面白かったです。 内容的に ・辺境伯なのに使用人が少なすぎるのでは ・厨房で二千人以上の食事を一人で調理しているのか ・辺境伯夫人扱いではないから侍女の一人もつかないのか ・結婚してからも周りの人の…
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