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身代わり花嫁の契約期間は三年です  作者: 九葉(くずは)
第1章

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第4話 弁当と商人と、まずくはない午後

朝五時。湯気の立つ弁当を竹皮で包みながら、私はこの世界に「おにぎり」という概念がないことを心から惜しんでいた。


米がない。


この世界の北方の主食は麦と芋だ。粘り気のある穀物がないから、握って固めるという発想自体が存在しない。


(じゃあ、作ればいいのよ)


麦の粉を練って薄く焼いた生地に、ハーブソーセージの薄切りとピクルスを巻く。しっかり巻けば片手で食べられる。崩れないように、焼いた生地の端を折り込んで——


「何それ」


グレーテが覗き込んだ。


「携帯食です。馬車の中でも手を汚さず食べられるように」


「あんた、食べ物にかける情熱が尋常じゃないわね」


褒められている気がしない。でもグレーテの目が少し面白そうに光っていたので、よしとする。


今日は食材の調達で、近隣のブレンナー伯爵領まで遠出する。砦の食料庫だけでは限界がある。冬が来る前に、新しい仕入れ先を確保しておきたかった。


護衛が必要だと申請したら、将軍閣下が自ら同行すると言い出した。


(……なぜ)


合理的に考えれば、将軍が食材調達に同行する理由はない。副官のセオでも、古参の兵士でも務まる仕事だ。


「北方は魔獣が出る。領外への遠出には相応の護衛がいる」


閣下はそれだけ言って、それ以上の説明はなかった。相応の護衛が将軍本人である必要があるかどうかについては、誰も突っ込まなかった。突っ込めない空気だった。


    ◇


馬車は二台。荷馬車と、護衛兵を乗せた馬車。


私が荷馬車の荷台に乗ろうとしたら、閣下が既にそこにいた。


「……あの、閣下。護衛の馬車のほうが広いと思いますが」


「ここでいい」


会話、終了。


荷台は狭かった。積み上げた空の木箱の間に、大人二人がどうにか座れる程度。肩が触れる。避けようがない。


(近い。近いんですけど、閣下)


北方の将軍は、間合いという概念をお持ちでないらしい。戦場では剣の間合いを正確に測る人が、人との距離についてはまるで無頓着だ。


馬車が揺れるたびに肩がぶつかる。三度目で諦めた。


「……お弁当、食べますか」


沈黙に耐えかねて、朝作った携帯食を差し出した。竹皮を広げると、ハーブの匂いがふわりと立った。


閣下は一瞬それを見下ろし、無言で受け取った。


一口。


咀嚼。


また一口。


表情が、変わらない。美味いのか不味いのか、まるで読めない。この人の顔面は鉄壁だ。


「——まずくはない」


出た。


赴任してから何度か聞いた、閣下の最上級——かどうかも怪しい——評価。


「ありがとうございます。……たぶん」


お礼を言うべきなのかどうか判断がつかないまま、曖昧に頭を下げた。


閣下は無言で食べ続け、携帯食をきれいに平らげた。竹皮を丁寧に畳んでいるところを見ると、少なくとも不快ではなかったのだと思いたい。


    ◇


ブレンナー伯爵領の市場は、北方にしては活気があった。


皮革、毛皮、薬草、鉱石。北方の産物が並ぶ中に、食材の店が数軒。品揃えは限られているが、砦にはない調味料や乾燥果実が手に入る。


「すみません、この乾燥ベリー、大口で仕入れたいのですが——」


商人と交渉している最中、鞄から保存食の試作品を取り出した。ハーブソーセージと改良型の干し肉。商談の手土産として持ってきたものだ。


商人が一切れ口にして、目を丸くした。


「嬢ちゃん、これ——あんたが作ったのかい」


「はい。北方の食材だけで作っています」


「この干し肉、王都に持っていったら飛ぶように売れるぞ。保存がいい。味がいい。軽い。旅商人が泣いて喜ぶ」


隣の店の商人が覗き込み、そのまた隣の商人が匂いに釣られてやってきた。気がつけば、五人の商人に囲まれていた。


「定期的に卸せるか?」


「量は月にどれくらい出せる?」


「独占契約にしないか? うちは王都まで販路がある」


(ちょ——ちょっと待って。食材を買いに来ただけなんですけど)


目が回りそうになったところで、背後から影が差した。


閣下が黙って私の後ろに立っていた。腕を組んで、商人たちを見下ろしている。無表情。身長差。軍服。


商人たちの勢いが、すっと引いた。


「……あの、この方は護衛で」


「ノルトハイム辺境伯だ」


閣下が自分で名乗った。短い。けれど効果は絶大だった。商人たちの背筋が伸びる。


「取引の条件は後日、書面で詰める。今日は顔合わせだ」


商人たちが揃って頷く。こうして、交渉が一瞬で整理された。


(……便利。将軍って便利)


感謝すべきなのだろうが、なんだか複雑な気持ちだった。


    ◇


帰路の馬車。


荷台には行きより多くの木箱が積まれていた。乾燥ベリー、蜂蜜、数種類のハーブ、北方産の岩塩。冬を越すための食材が、ようやく揃い始めた。


「閣下」


「何だ」


「この土地の食材で、もっとたくさんの料理を開発したいです。保存食だけじゃなく、冬場でも温かい食事を安定して出せる仕組みを作りたい。商人さんたちとの取引が続けば、砦の食材調達の選択肢も広がります」


我ながら、よく喋った。普段は閣下の前でこんなに長く話さない。馬車の揺れと、取引が成功した高揚のせいだろう。


閣下は黙って聞いていた。


ふと横を見たら、閣下の横顔が——前より、ほんの少しだけ柔らかかった。


口元が動いたわけではない。目尻が下がったわけでもない。ただ、あの凍りついたような無表情の中に、ほんのわずかな温度が差した。そんな気がした。


気のせいかもしれない。


「……好きにしろ」


閣下の口癖。でも今日の「好きにしろ」は、いつもより少しだけ声が低くて、少しだけ穏やかだった。


(——気のせいよ、きっと)


馬車の向こうで、後続の護衛馬車から副官のセオが身を乗り出し、隣の兵士に何か話しているのが見えた。声は聞こえない。ただ、やけに興奮した顔をしていた。


聞こえていたら分かったのだろう。


「いや聞いてくれ——団長が弁当を完食した。それだけじゃない。二個目を要求した。二個目だぞ? あの団長が?」


——聞こえなくて、よかったのかもしれない。


    ◇


砦の門が見えた頃、日はとうに傾いていた。


門前にセオが先回りして待っていた。護衛馬車から飛び降りて走ったらしい。息が白い。


「団長。王都から通達です」


差し出された封書を、閣下が受け取った。封蝋を切り、目を通す。


「……年次査察が前倒しだ」


閣下の声に、感情はない。いつも通りだ。けれど封書を畳む指先が、ほんの一瞬だけ止まった。


「前倒し? いつですか」


セオが聞く。


「来年度の査察を、今年度中に実施する。日程は追って通達、と」


セオの顔から笑みが消えた。


査察。北方軍の年次査察は、王太子殿下またはその代理が北方を視察する定例行事だと聞いている。それが前倒し。——何か、政治的な動きがあるのだろうか。


私にはわからない。わからないが、空気が変わったことだけは感じた。


「……メルル」


閣下が、初めて敬称なしで私の名を呼んだ。


振り向く。閣下は荷台から降り、私に手を差し出していた。馬車から降りるための、ただの手。


「足元が暗い」


それだけ。


手を取った。硬くて、大きくて、あの深夜の厨房で触れた指と、同じ冷たさだった。


——あの夜の薪は、巡回の当番兵。


そう思っていた。たぶん、そうだ。たぶん。


「ありがとうございます、閣下」


手を離した。砦の門をくぐりながら、鞄の中で今日の取引先の名刺代わりの木札がかちゃりと鳴った。


北方の、小さな交易路の始まり。


この砦の食を変えるために——私にできることが、また少し増えた。

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