第19話 手紙と、振り向いた時の目
砦が、静かだった。
エーリッヒが王都に送還されてから一週間。監察官のヴィルヘルム卿も証拠を携えて発った。残されたのは、いつも通りの砦の日常。竈の火と、鍋の音と、兵士たちの笑い声。
——平穏が、こんなに贅沢なものだとは思わなかった。
朝の厨房で仕込みを終え、中庭に出た。冬の終わりの空気は、まだ冷たいけれど、どこかに春の気配がある。石壁の隙間に、雪解けの水が光っていた。
中庭のベンチに、ロゼリアが座っていた。
砦に来てもう二週間以上になる。最初の数日は客室に閉じこもっていたが、グレーテに「食べないなら厨房に来なさい。皿洗いくらいはできるでしょう」と引きずり出されてから、少しずつ砦の空気に馴染み始めていた。
「メルル」
「姉上。朝ごはんは食べました?」
「食べたわ。……パンがおいしかった」
少し、頬に色が戻っている。来た時よりは。
ロゼリアが膝の上で手を重ねた。何かを言おうとしている。言いにくいことがある時の、姉の癖だ。
「……もう少しだけ、ここにいてもいい?」
声が小さかった。
子爵家の嫡女。「北の白百合」。社交界を渡り歩いた女性が、妹に——居場所を求めている。
返事は、口をついて出た。
「好きにしなさい」
言ってから気づいた。グレーテの口調だ。いつの間にか、うつっている。
ロゼリアが目を丸くして、それから——笑った。
声を出して笑ったのを、姉妹になってから初めて聞いた気がする。社交界用の控えめな笑みではない。目尻に皺ができる、素の笑い。
「あなた、変わったわね」
「……そうですか?」
「前はそんな言い方しなかった」
たぶん、そうだ。前は姉に向かって「好きにしなさい」なんて言えなかった。
「姉上も、変わりましたよ」
ロゼリアが少し驚いた顔をして、それから穏やかに目を伏せた。
「……そうかもしれないわね」
二人で、ベンチに並んで座った。しばらく何も言わなかった。中庭に差し込む朝日が、石壁を白く染めていた。
◇
部屋に向かう途中、廊下でマルクスとすれ違った。
「一つ報告がある。王都から続報だ」
マルクスが歩きながら、短く告げた。
「ブラント侯爵家に対する爵位降格の審議が開始された。謹慎違反と組織的不正介入の両件が対象だ」
足が止まった。
爵位降格。侯爵家が——侯爵でなくなるかもしれない、ということだ。
「……そうですか」
「以上だ。発注書は明日までに出せよ」
マルクスは仏頂面のまま去っていった。
同情はしない。けれど、胸のどこかが小さく軋んだ。エーリッヒ個人の問題が、侯爵家全体に及んでいる。自業自得だと分かっていても。
——でも、私がすべきことは変わらない。
部屋に戻ると、机の上に手紙が二通届いていた。
一通目。差出人を見て、手が止まった。
トルーデ子爵、ゲオルク。
父だ。
封を切った。
『メルルへ。
お前がいないと、保存食の品質が維持できない。手順書通りにやっても同じものができないと、現場が言っている。
帰ってきてくれ。領地が回らない。お前の技術が必要だ。
ゲオルク・トルーデ』
短い。いつもの季節の挨拶もない。余裕がないのだ。
(……父上)
手紙を読み返した。三度。
「お前の技術が必要だ」。技術が。——私が、ではなく。
知っていた。この人は最初からそうだった。「お前でいい」と言った時も、保存食の技術を実家に残した時も、身代わりに送り出した時も。私という人間ではなく、私の持つ機能を見ていた。
恨みはない。もう、ない。
ただ——遠い。
便箋を広げた。ペンを取った。
一度書いて、消した。二度書いて、消した。三度目で、筆が止まらなくなった。
『父上へ。
お手紙、拝受いたしました。
保存食の基礎マニュアル(簡易版)を同封いたします。全工程を文字と図で記したものです。これを元に、現場の方が手を動かして覚えていくしかありません。塩の加減と乾燥の見極めは、手の記憶でしか身につかないものです。私が文字にできるのは、ここまでです。
なお、私の技術は私個人のものであり、トルーデ家の資産ではございません。この点は以前の書面でもお伝えした通りです。
お身体にお気をつけてお過ごしください。
メルル・フォン・ノルトハイム』
帰らない。恨まない。けれどもう、戻らない。
マニュアルは昨晩のうちに仕上げておいた。保存食の基礎工程を、この世界の食材に合わせて簡略化したもの。完璧ではない。私の手の感覚を文字にするのには限界がある。でも——何も渡さないよりはましだ。
ペンを置いた。手は震えていない。
封をして、蝋を垂らした。
(これで——終わり)
実家との、最後の手紙になるかもしれない。ならないかもしれない。どちらでもいい。私はもう、ここにいる。
◇
二通目の封書を手に取った。
封蝋に、王室裁定院の紋章。
息が止まった。
封を切る。便箋は二枚。公式書式。
『北方辺境伯領に対し「食糧自給特区」の認定を行う。
当該特区においては、食糧生産・保存・流通に関する行政権限を辺境伯領に委譲し、独自の食糧政策を認める。
なお、辺境伯からの詳細な報告を参考に、当該特区の運営責任者として以下の者を任命する。
北方食糧管理長官 メルル・フォン・ノルトハイム
リヒャルト』
読み終えた。
もう一度読んだ。
食糧自給特区。北方食糧管理長官。
(……私が?)
便箋を持つ指が震えた。今度は——嬉しさで。
「辺境伯からの詳細な報告」という一文が気になった。報告。アルヴィンが王太子に何を報告したのか、私は知らない。
でも今は、それよりも——
明日の仕込みだ。
この通達を砦の全員に知らせるなら、祝宴を開かなければ。いつもの三倍の量を仕込む。ブレンナーから取り寄せた蜂蜜の焼き菓子も出そう。
便箋を大切に畳んで、引き出しにしまった。父への返書の隣に。
片方は決別。片方は始まり。同じ引き出しの中に、両方がある。
◇
夕方。厨房。
明日の祝宴の仕込みを始めた。根菜を刻み、干し肉を塩抜きし、ハーブソーセージの仕込みに取りかかる。厨房班は明日の朝から合流する。今夜は下準備だけ。
鍋に水を張り、竈に火をつけた。
いつもの手順。いつもの場所。ローズマリーの枝を一つ折って、鍋に落とす。香りが湯気と一緒に立ち上る。
——背中に、気配を感じた。
振り向いた。
厨房の入口に、アルヴィンが立っていた。
外套は脱いでいる。軍服のまま。腕は組んでいない。ただ、立っている。
こちらを、見ていた。
目が合った。
逸らさない。
いつもなら——視線が合うと、どちらかが先に逸らす。私が照れて目を落とすか、アルヴィンが無表情のまま書類に視線を戻すか。
今日は、違った。
アルヴィンの目が、真っ直ぐに私を見ている。あの鉄壁の無表情の奥に、何かがある。怒りではない。悲しみでもない。もっと——静かで、深くて、温かいもの。
祈祷室で「ありがとう」と言ってくれた時の目。屋上で「お前がいい」と言った時の目。——同じ温度の、剥き出しの目。
「……閣下」
「ああ」
「何か、ご用ですか」
「いや」
用はない。用はないのに、ここにいる。
鍋が小さく泡立っている。ローズマリーの香りが厨房に満ちている。
「……メルル」
名前を呼ばれた。敬称なしの。
「はい」
「執務室に、来てくれ」
アルヴィンが踵を返した。ついていく。廊下を並んで歩く。無言。
執務室の扉を開けた。
書類の山が相変わらず積まれた机。その脇に——一輪挿し。
陶器の小さな壷。水。そこに、白い花弁の小さな花。
ローズマリーの花。
あの日見つけた一輪挿しと同じ。でも花は違う。前のは枯れたはず。——つまり、替えている。誰かが。
「……これ、ずっと替えてくれてたんですか」
アルヴィンが机の角に視線を落とした。
「枯れたら替える。——当然のことだ」
当然のこと。
薪をくべるのも。マントをかけるのも。花を替えるのも。全部——「当然のこと」。
(この人は、全部そう言うのね。当然のこと。当然のことだって)
当然なわけがない。毎朝四時に薪をくべることも、眠った人の肩にマントをかけることも、誰にも気づかれない一輪挿しの花を替え続けることも。
全部——言葉にしない代わりの、この人の愛情だ。
「閣下——」
「明日」
アルヴィンが、私を見た。
「明日、言いたいことがある」
初めてだった。
この人が「言いたいこと」があると、予告したのは。いつも行動が先で、言葉は後だった。言葉すら出ないことのほうが多かった。
それが——「言いたいことがある」と。
「……はい」
声が震えた。小さく。
「明日、聞きます」
アルヴィンが頷いた。
一輪挿しのローズマリーが、執務室の灯りの中で、かすかに揺れていた。
明日。
明日が来る。この人の言葉が、聞ける。
部屋に戻る廊下で、私は自分の頬が熱いのに気づいた。冬の廊下は寒いはずなのに、全然寒くなかった。




