表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
身代わり花嫁の契約期間は三年です  作者: 九葉(くずは)
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/20

第19話 手紙と、振り向いた時の目

砦が、静かだった。


エーリッヒが王都に送還されてから一週間。監察官のヴィルヘルム卿も証拠を携えて発った。残されたのは、いつも通りの砦の日常。竈の火と、鍋の音と、兵士たちの笑い声。


——平穏が、こんなに贅沢なものだとは思わなかった。


朝の厨房で仕込みを終え、中庭に出た。冬の終わりの空気は、まだ冷たいけれど、どこかに春の気配がある。石壁の隙間に、雪解けの水が光っていた。


中庭のベンチに、ロゼリアが座っていた。


砦に来てもう二週間以上になる。最初の数日は客室に閉じこもっていたが、グレーテに「食べないなら厨房に来なさい。皿洗いくらいはできるでしょう」と引きずり出されてから、少しずつ砦の空気に馴染み始めていた。


「メルル」


「姉上。朝ごはんは食べました?」


「食べたわ。……パンがおいしかった」


少し、頬に色が戻っている。来た時よりは。


ロゼリアが膝の上で手を重ねた。何かを言おうとしている。言いにくいことがある時の、姉の癖だ。


「……もう少しだけ、ここにいてもいい?」


声が小さかった。


子爵家の嫡女。「北の白百合」。社交界を渡り歩いた女性が、妹に——居場所を求めている。


返事は、口をついて出た。


「好きにしなさい」


言ってから気づいた。グレーテの口調だ。いつの間にか、うつっている。


ロゼリアが目を丸くして、それから——笑った。


声を出して笑ったのを、姉妹になってから初めて聞いた気がする。社交界用の控えめな笑みではない。目尻に皺ができる、素の笑い。


「あなた、変わったわね」


「……そうですか?」


「前はそんな言い方しなかった」


たぶん、そうだ。前は姉に向かって「好きにしなさい」なんて言えなかった。


「姉上も、変わりましたよ」


ロゼリアが少し驚いた顔をして、それから穏やかに目を伏せた。


「……そうかもしれないわね」


二人で、ベンチに並んで座った。しばらく何も言わなかった。中庭に差し込む朝日が、石壁を白く染めていた。



部屋に向かう途中、廊下でマルクスとすれ違った。


「一つ報告がある。王都から続報だ」


マルクスが歩きながら、短く告げた。


「ブラント侯爵家に対する爵位降格の審議が開始された。謹慎違反と組織的不正介入の両件が対象だ」


足が止まった。


爵位降格。侯爵家が——侯爵でなくなるかもしれない、ということだ。


「……そうですか」


「以上だ。発注書は明日までに出せよ」


マルクスは仏頂面のまま去っていった。


同情はしない。けれど、胸のどこかが小さく軋んだ。エーリッヒ個人の問題が、侯爵家全体に及んでいる。自業自得だと分かっていても。


——でも、私がすべきことは変わらない。

部屋に戻ると、机の上に手紙が二通届いていた。


一通目。差出人を見て、手が止まった。


トルーデ子爵、ゲオルク。


父だ。


封を切った。


『メルルへ。


 お前がいないと、保存食の品質が維持できない。手順書通りにやっても同じものができないと、現場が言っている。


 帰ってきてくれ。領地が回らない。お前の技術が必要だ。


 ゲオルク・トルーデ』


短い。いつもの季節の挨拶もない。余裕がないのだ。


(……父上)


手紙を読み返した。三度。


「お前の技術が必要だ」。技術が。——私が、ではなく。


知っていた。この人は最初からそうだった。「お前でいい」と言った時も、保存食の技術を実家に残した時も、身代わりに送り出した時も。私という人間ではなく、私の持つ機能を見ていた。


恨みはない。もう、ない。


ただ——遠い。


便箋を広げた。ペンを取った。


一度書いて、消した。二度書いて、消した。三度目で、筆が止まらなくなった。


『父上へ。


 お手紙、拝受いたしました。


 保存食の基礎マニュアル(簡易版)を同封いたします。全工程を文字と図で記したものです。これを元に、現場の方が手を動かして覚えていくしかありません。塩の加減と乾燥の見極めは、手の記憶でしか身につかないものです。私が文字にできるのは、ここまでです。


 なお、私の技術は私個人のものであり、トルーデ家の資産ではございません。この点は以前の書面でもお伝えした通りです。


 お身体にお気をつけてお過ごしください。


メルル・フォン・ノルトハイム』


帰らない。恨まない。けれどもう、戻らない。


マニュアルは昨晩のうちに仕上げておいた。保存食の基礎工程を、この世界の食材に合わせて簡略化したもの。完璧ではない。私の手の感覚を文字にするのには限界がある。でも——何も渡さないよりはましだ。


ペンを置いた。手は震えていない。


封をして、蝋を垂らした。


(これで——終わり)


実家との、最後の手紙になるかもしれない。ならないかもしれない。どちらでもいい。私はもう、ここにいる。



二通目の封書を手に取った。


封蝋に、王室裁定院の紋章。


息が止まった。


封を切る。便箋は二枚。公式書式。


『北方辺境伯領に対し「食糧自給特区」の認定を行う。


 当該特区においては、食糧生産・保存・流通に関する行政権限を辺境伯領に委譲し、独自の食糧政策を認める。


 なお、辺境伯からの詳細な報告を参考に、当該特区の運営責任者として以下の者を任命する。


 北方食糧管理長官 メルル・フォン・ノルトハイム


リヒャルト』


読み終えた。


もう一度読んだ。


食糧自給特区。北方食糧管理長官。


(……私が?)


便箋を持つ指が震えた。今度は——嬉しさで。


「辺境伯からの詳細な報告」という一文が気になった。報告。アルヴィンが王太子に何を報告したのか、私は知らない。


でも今は、それよりも——


明日の仕込みだ。


この通達を砦の全員に知らせるなら、祝宴を開かなければ。いつもの三倍の量を仕込む。ブレンナーから取り寄せた蜂蜜の焼き菓子も出そう。


便箋を大切に畳んで、引き出しにしまった。父への返書の隣に。


片方は決別。片方は始まり。同じ引き出しの中に、両方がある。



夕方。厨房。


明日の祝宴の仕込みを始めた。根菜を刻み、干し肉を塩抜きし、ハーブソーセージの仕込みに取りかかる。厨房班は明日の朝から合流する。今夜は下準備だけ。


鍋に水を張り、竈に火をつけた。


いつもの手順。いつもの場所。ローズマリーの枝を一つ折って、鍋に落とす。香りが湯気と一緒に立ち上る。


——背中に、気配を感じた。


振り向いた。


厨房の入口に、アルヴィンが立っていた。


外套は脱いでいる。軍服のまま。腕は組んでいない。ただ、立っている。


こちらを、見ていた。


目が合った。


逸らさない。


いつもなら——視線が合うと、どちらかが先に逸らす。私が照れて目を落とすか、アルヴィンが無表情のまま書類に視線を戻すか。


今日は、違った。


アルヴィンの目が、真っ直ぐに私を見ている。あの鉄壁の無表情の奥に、何かがある。怒りではない。悲しみでもない。もっと——静かで、深くて、温かいもの。


祈祷室で「ありがとう」と言ってくれた時の目。屋上で「お前がいい」と言った時の目。——同じ温度の、剥き出しの目。


「……閣下」


「ああ」


「何か、ご用ですか」


「いや」


用はない。用はないのに、ここにいる。


鍋が小さく泡立っている。ローズマリーの香りが厨房に満ちている。


「……メルル」


名前を呼ばれた。敬称なしの。


「はい」


「執務室に、来てくれ」


アルヴィンが踵を返した。ついていく。廊下を並んで歩く。無言。


執務室の扉を開けた。


書類の山が相変わらず積まれた机。その脇に——一輪挿し。


陶器の小さな壷。水。そこに、白い花弁の小さな花。


ローズマリーの花。


あの日見つけた一輪挿しと同じ。でも花は違う。前のは枯れたはず。——つまり、替えている。誰かが。


「……これ、ずっと替えてくれてたんですか」


アルヴィンが机の角に視線を落とした。


「枯れたら替える。——当然のことだ」


当然のこと。


薪をくべるのも。マントをかけるのも。花を替えるのも。全部——「当然のこと」。


(この人は、全部そう言うのね。当然のこと。当然のことだって)


当然なわけがない。毎朝四時に薪をくべることも、眠った人の肩にマントをかけることも、誰にも気づかれない一輪挿しの花を替え続けることも。


全部——言葉にしない代わりの、この人の愛情だ。


「閣下——」


「明日」


アルヴィンが、私を見た。


「明日、言いたいことがある」


初めてだった。


この人が「言いたいこと」があると、予告したのは。いつも行動が先で、言葉は後だった。言葉すら出ないことのほうが多かった。


それが——「言いたいことがある」と。


「……はい」


声が震えた。小さく。


「明日、聞きます」


アルヴィンが頷いた。


一輪挿しのローズマリーが、執務室の灯りの中で、かすかに揺れていた。


明日。


明日が来る。この人の言葉が、聞ける。


部屋に戻る廊下で、私は自分の頬が熱いのに気づいた。冬の廊下は寒いはずなのに、全然寒くなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ