第18話 謹慎を破った男と、握った手
朝の冷気の中に、車輪が石畳を叩く音が混じった。
砦の門前に馬車が止まる。王室の紋章が入った馬車。護衛が二名。扉が開き、灰色の外套を纏った壮年の男が降り立った。
監察官ヴィルヘルム卿。王太子リヒャルト殿下の直轄代理人。四十代半ば、髭を短く刈り込んだ厳格な顔。
「北方守備軍の定期巡回として参った。——ノルトハイム辺境伯閣下に、お目通り願いたい」
セオが門前で出迎え、将軍執務室へ案内した。
私も同席を許された。辺境伯夫人として、そして砦の厨房管理官として。
◇
執務室。
アルヴィンが机の向こうに座り、監察官が正面の椅子についた。私はアルヴィンの右手側に立っている。
「巡回のついでに、一件確認したいことがある」
ヴィルヘルム卿の声は落ち着いていた。書類を取り出す動作に無駄がない。
「ブラント侯爵家の活動について、何か報告すべきことはあるか」
(——やはり、ただの定期巡回ではないのね)
この人は有能だ。「巡回のついで」という形を取りながら、本題を単刀直入に切り出す。
「あります」
革紐で綴じた書簡の束を差し出した。七通。
「ブラント侯爵家嫡男エーリッヒ・フォン・ブラントが、謹慎処分中に代理人を通じて北方の交易網に介入していた証拠です。婚約中から現在に至るまでの書簡六通、および私に直接送られた取引提案の書簡一通。日付順に整理してあります」
ヴィルヘルム卿が受け取り、最初の一通を開いた。
目の動きが速い。一通目を読み終えるまで二十秒もかからなかった。二通目。三通目。ページをめくる指が淀みない。
(……速い。事前に情報を持っていたかのような——)
四通目で、ヴィルヘルム卿の眉がわずかに動いた。五通目で、一度だけ書簡を裏返して日付を確認した。六通目、七通目。
全て読み終えるまで、五分とかからなかった。
書簡を机に置いた。
「これに加え、砦側の記録もございます」
マルクスが整理した帳簿の写しを重ねた。ヴァルトシュタイン商会の登記情報、商人たちへの接触記録、独占契約の勧誘と拒否の経緯。
ヴィルヘルム卿がそちらにも目を通し、顔を上げた。
「十分な証拠だ」
短い。だが、その三文字に法的な重みがある。王太子直轄の監察官が「十分」と認めた証拠は、裁定院で正式な審理の対象になる。
「正式な調査の開始を宣言する。——ノルトハイム辺境伯閣下、ノルトハイム夫人。ご協力に感謝する」
アルヴィンが頷いた。私も頭を下げた。
(——間に合った)
胸の中で、何かが一つ、確かに収まった。
◇
その日の午後だった。
昼食の片づけを終えて、厨房から食堂に戻ろうとした時、門前が騒がしくなった。
「馬車だ。——紋章は……見たことがないな」
見張りの兵士の声が聞こえる。
門前に出た。
馬車が一台。地味な旅用。護衛はなし。——ロゼリアが来た時と似た構成だ。
扉が開いた。
降りてきた男を見て、空気が変わった。
亜麻色の髪。穏やかな顔立ち。仕立ての良い外套。年は二十代半ば。一見すると、どこかの貴族の若当主が私的な旅をしているようにしか見えない。
でも、知っている。この顔を。
エーリッヒ・フォン・ブラント。
写真で見たことはなかった。この世界に写真はない。けれど、ロゼリアが実家の居間に飾っていた肖像画と同じ顔だ。穏やかで、知的で、笑顔が自然な——
「ロゼリア・トルーデ嬢の迎えに参りました。ブラント侯爵家の使者として」
声も穏やかだった。門前の兵士に向けた微笑みに、嫌味がない。
(——使者。使者と名乗った)
本人が使者を名乗っている。侯爵家の代理人ではなく、自分自身が。
嘘だ、と思った。謹慎中の人間が「使者」として領外に出る正当な理由にはならない。
隣に、アルヴィンの気配が立った。いつの間にか、門前に出てきていた。
「ブラント侯爵家嫡男か」
アルヴィンの声が、冬の空気を切った。
エーリッヒの目がアルヴィンに向いた。一瞬だけ——本当に一瞬だけ、その穏やかな顔の奥で何かが計算された。
「ノルトハイム辺境伯閣下。突然の訪問をお許しください。ロゼリア嬢が長期にわたりご迷惑をおかけしていると聞き——」
「ヴィルヘルム卿」
アルヴィンが、エーリッヒの言葉を遮った。
門の内側から、監察官が歩いてきた。
エーリッヒの顔が変わった。
穏やかな微笑みが、凍りついた。ヴィルヘルム卿を知っている。王太子直轄の監察官の顔を、宮廷外交官だった人間が知らないはずがない。
「ブラント侯爵家嫡男、エーリッヒ・フォン・ブラント」
ヴィルヘルム卿の声は平坦だった。感情がない。事実だけを述べている。
「貴殿は現在、謹慎処分中であり、侯爵家の屋敷からの外出を禁じられている。にもかかわらず、本人が北方辺境伯領に出向いている。これは謹慎処分の明確な違反である」
「ヴィルヘルム卿、これは——ロゼリア嬢の安全を懸念しての——」
「弁明は王都で行え」
ヴィルヘルム卿が右手を上げた。護衛の兵士二名が前に出る。
「ブラント侯爵家嫡男エーリッヒ・フォン・ブラント。謹慎処分違反、および北方辺境伯領への不正介入の嫌疑により、身柄を拘束する」
静かだった。
怒号もなかった。剣を抜く音もなかった。護衛の兵士がエーリッヒの両脇に立ち、外套の上から腕を取った。それだけ。
エーリッヒの顔から、全ての表情が消えていた。穏やかな笑みも、計算する目も、何もない。ただ——白い。
反論不能。
名を騙った命令書。代理人を通じた交易網への介入。そして今、自分の足で謹慎を破った。全て、自分の判断だ。
(——自業自得よ)
私がそう思う必要もないほど、結果は明白だった。
門前に、もう一つの足音が響いた。
ロゼリアだった。
客室から出てきたのだろう。砦の中庭を横切って、門前まで歩いてきた。旅装ではない。砦で過ごしている時の簡素な服。髪を下ろしたまま。
エーリッヒが振り向いた。
「ロゼリア——」
「あなたには何も言うことがありません」
短かった。
声は震えていない。目も逸れていない。社交界の微笑みも、疲れた陰もない。ただ、静かに、はっきりと。
ロゼリアは振り向かなかった。
エーリッヒに背を向けたまま、砦の中に戻っていった。その背中が中庭の角を曲がるまで、一度も振り返らなかった。
◇
夜。
砦は静かだった。エーリッヒは監察官の護衛に引き渡され、翌朝の便で王都に送還される。
片づけるべきことは片づけた。監察官への追加の証言、マルクスが整理した帳簿の写しの提出、ロゼリアの証言の記録。
全部、終わった。
廊下を歩いていた。部屋に戻る途中。松明の灯りが石壁を橙色に染めている。
足音が聞こえた。前から。
アルヴィンが歩いてきた。巡回帰りだ。外套に夜気の冷たさがまとわりついている。
「……お疲れさまです、閣下」
「ああ」
すれ違う。
——はずだった。
アルヴィンの手が、伸びた。
私の右手を。
掴んだのではない。握った。指が、私の指に絡んだ。ゆっくりと。確かめるように。
足が止まった。
振り向けない。振り向いたら、この人の顔が見えてしまう。今、どんな顔をしているのか——見たいような、見るのが怖いような。
アルヴィンは何も言わなかった。
ただ、握っている。
大きな手。硬い指。外気で冷えた掌。——でも、指の奥に、体温がある。
どのくらいそうしていたか分からない。十秒かもしれないし、一分かもしれない。
「……閣下」
「何だ」
「手、冷たいですよ」
「……そうか」
離さない。
「温めてあげましょうか」
何を言っているんだ私は。
「……頼む」
アルヴィンの声が、かすかに——本当にかすかに、低くなった。
両手で、アルヴィンの右手を包んだ。冷たい指を、自分の掌で挟む。息を吹きかける。
(……何してるの、私。廊下のど真ん中で)
でも、手は離さなかった。離したくなかった。
松明の灯りが揺れている。石壁の影が、二つ分。
「メルル殿」
廊下の角から、ヴィルヘルム卿の声が響いた。
弾かれたように手を離した。アルヴィンも同時に手を引いた。——引いたけれど、表情は鉄壁のままだ。この人の切り替えの速さだけは、いつも感心する。
「監察官殿。何か」
「最後に一つ、お伝えしておく」
ヴィルヘルム卿が歩み寄ってきた。表情は厳格なまま。ただ、目の奥にほんのわずかな——何だろう、温かみ、とは違う。敬意に近い何かがある。
「この件は、ブラント侯爵家の組織的不正として調査を拡大する。王太子殿下にも直接報告が上がる」
「……左様ですか」
「覚悟しておくことだ。——良い意味で」
それだけ言って、ヴィルヘルム卿は踵を返した。
良い意味で。
何が来るのか、まだ分からない。
でも——隣に立っているこの人の手の温度は、さっきまで私の掌の中にあった。
廊下の松明が、ぱちりと爆ぜた。
冬は、もうすぐ終わる。




