第17話 お前がいい、と言った声
机の上に、書簡が七通。
エーリッヒから私に宛てた一通と、ロゼリアに送られていた六通。全部で七通の書簡を、日付順に並べた。
兵站事務室。朝の光が窓から差し込んでいる。マルクスが向かいの椅子に座り、一通ずつ目を通している。
「最初の一通は、婚約中のものだな。……ロゼリア嬢に宛てた私的な書簡だが、追伸に『北方辺境伯領の交易状況について、情報があれば教えてほしい』とある」
「婚約中から、北方の交易に目をつけていたということですか」
「そうなる。二通目。ロゼリア嬢が北方に嫁ぐ可能性を示唆する内容。『辺境伯との婚姻が成立すれば、侯爵家として北方の食材流通に関与できる』と」
マルクスが書簡を裏返して日付を確認した。
「この日付は——白い結婚の契約が成立した直後だ。つまりエーリッヒは、メルル殿が身代わりとして北方に送られた時点で、既にロゼリア嬢を『本来の花嫁』として送り込む計画を持っていた」
背筋が冷えた。
最初から。最初から、全部仕組まれていた。
私を身代わりに送り、契約期間が終わったらロゼリアを送り込む。ロゼリアが辺境伯夫人になれば、侯爵家は北方の交易利権に手が届く。——エーリッヒの計算は、そこまで見通していた。
「三通目以降は謹慎処分の後だな。代理人を通じた商人への接触の報告、ヴァルトシュタイン商会の設立経緯、独占契約の移行計画……」
マルクスが書簡の束を揃えた。
「全部揃っている。——法的にはこうだ」
太い指が机を叩いた。
「代理人を通じた間接的な活動は、謹慎処分の条件には直接違反しない。だが、王太子殿下の名を使った命令書の件——あの一件がある。あれと今回の証拠を合わせれば、『組織的な不正介入』として立件できる」
「組織的な不正介入」
「ああ。個人の逸脱ではなく、侯爵家の名を背景にした計画的な利権獲得の試み。——監察官が来れば、これを提出できる」
マルクスの目が、帳簿を読む時と同じ鋭さで私を見た。
「証拠は揃った。あとは、出すべき相手に出すだけだ」
「……はい」
七通の書簡を革紐で綴じた。手が震えていないことを、自分で確認した。
◇
ブラント侯爵邸。書斎。
窓の外は冬枯れの庭園。噴水は止まり、薔薇の枝が骨のように突き出している。
エーリッヒは机に向かい、代理人からの報告書を読んでいた。
『ヴァルトシュタイン商会の提案は、全ての取引先から拒否されました。メルル・フォン・ノルトハイム殿との交易協定が正式に調印され、辺境伯領の公印が押された以上、法的に介入する余地はありません』
指が、報告書の端を折った。
『また、ロゼリア・トルーデ嬢が北方の砦に滞在中です。滞在目的は不明ですが、辺境伯夫人と行動を共にしているとのことです』
ロゼリアが砦にいる。
予定にはなかった。エーリッヒの計算では、ロゼリアは子爵邸に留まり、父ゲオルクを通じてメルルの帰還を働きかけるはずだった。——それが、自ら砦に行った。
何のために。
嫌な予感が、胸の底で蠢いた。
ロゼリアには書簡を送っていた。婚約中から、計六通。北方の交易についての情報収集、辺境伯への接近の手順、侯爵家の利権計画の断片——全て、丁寧な言葉で包んであったが、読む人間が読めば意図は明白だ。
もし、あの書簡がメルルの手に渡ったら。
「……まずいな」
声に出していた。
報告書を畳んだ。窓の外を見た。冬の空は灰色で、低い。
代理人は失敗した。商人たちは動かなかった。メルルへの直接交渉も、返答がない。——ロゼリアが砦にいる。書簡が渡っているかもしれない。
手詰まりだ。このまま待っていたら、監察官の巡回で全てが明るみに出る。
立ち上がった。
「直接、行くしかない」
謹慎処分。侯爵家の屋敷から出ることを禁じられている。出れば謹慎違反。爵位降格審議の対象。
分かっている。分かった上で——動かなければ、もっとまずいことになる。
外套を手に取った。
「ロゼリアを迎えに行く。——それが名目だ」
誰もいない書斎で、エーリッヒは自分に言い聞かせるように呟いた。
◇
夜。
砦の屋上は、風が強かった。
石壁の上に設けられた哨戒台。夜間は交代制で見張りが立つが、今の時間は交代の合間で無人だ。
冬の夜空が、頭の上に広がっている。星が多い。北方の空は、王都の空より星が近い。
手すりに両手を置いて、下を見た。砦の中庭。松明の明かりがいくつか揺れている。兵舎の窓から漏れる灯り。厨房の煙突から、かすかに煙。
ここに来て、もうすぐ三年になる。
身代わりの花嫁として馬車を降りた日。凍りつくような風に顔面を殴られた日。鍋を磨いた日。シチューを作った日。深夜の厨房で一人で試作を繰り返した日。
全部、ここにある。
——なのに。
ロゼリアが来てから、胸の奥で眠っていたものが起き上がってしまった。
「本来の花嫁」。
姉がここに立つはずだった。父がそう決めた。エーリッヒがそう計画した。私は、その穴を埋めるための代用品で——
(……やめて。もう終わったことでしょう)
終わった。白い結婚の契約は破棄した。正式な婚姻届に署名した。聖堂で、あの人は「一生だ」と言った。
でも。
ロゼリアの顔を見ると、思い出してしまう。あの書斎で父が言った五文字。「お前でいい」。誰でもよかった。姉の代わりなら、誰でも。
(——私でよかったんですか)
声に出ていた。
星に向かって、誰にも聞かれないはずの声で。
「……私で、よかったんですか」
風が吹いた。声が散る。
——散らなかった。
背後に、気配があった。
振り向いた。
アルヴィンが立っていた。哨戒台の入口に。外套を羽織って、腕を組んで。いつからいたのか分からない。この人は、いつも音を立てない。
(聞かれた——)
「閣下、あの——」
「聞いた」
短い。隠す気がない。
心臓が止まりそうだった。一番聞かれたくない言葉を、一番聞かれたくない相手に。
アルヴィンが腕を解いた。一歩、近づいた。
「お前は」
声が低い。いつもの短い声。でも——震えては、いない。真っ直ぐだ。
「お前でいい、と言ったのは、あの男だろう」
あの男。父のことだ。
「俺は——」
間があった。
風が止んだ。星だけが見ている。
「お前がいい」
五文字。
たった五文字。「で」が「が」に変わっただけ。
それだけなのに。
その五文字が、胸の中の、三年分の——いや、前世を含めた何十年分の「代わりでしかない」を、根こそぎ引き抜いた。
「……っ」
涙が落ちた。
泣かない人間だったはずだ。前世でも今世でも。聖堂で泣いたのは、あれが最初で最後だと思っていた。
止まらなかった。
声を殺した。殺しきれなかった。肩が震えて、視界が滲んで、星が全部ぼやけた。
アルヴィンは何も言わなかった。
ただ、隣に立っていた。
手すりに並んで、同じ空を見ている。半歩分の距離。触れてはいない。でも——あの人の体温が、冬の夜風の中でかすかに伝わる距離。
どのくらいそうしていたか分からない。
涙が止まった頃、風が再び吹いた。冷たい。けれど、さっきほど寒くなかった。
「……閣下」
「何だ」
「ありがとうございます」
「礼を言われることは何もしていない」
している。全部、している。薪も。マントも。手を差し出すことも。隣にいることも。
——「お前がいい」と、言ってくれたことも。
「セオから連絡があった」
アルヴィンの声が、少しだけ硬くなった。将軍の声に戻っている。
「監察官が来週到着する。日程が確定した」
来週。
「それと——」
「はい」
「ブラント侯爵家の嫡男が、領外に出たとの報告がある」
風が、一段と冷たくなった。
エーリッヒが動いた。謹慎を破って。
「……こちらに向かっているんですか」
「分からん。だが——」
アルヴィンの横顔が、星明かりの中で刃のように鋭かった。
「来るなら、ここで迎える」
その声には、将軍の覚悟と——もう一つ、別の何かがあった。
守る、という意思。
三年前、守れなかったものを。今度は、守るという。
夜空の星が、また少しだけ近く見えた。




