第16話 砦の現実と、もう一つの秘密
二つ分の足音が、石の廊下に響いている。
私の足音と、姉の足音。並んで歩くのは何年ぶりだろう。実家では姉がいつも前を歩き、私が後ろをついていった。今は——私が先導している。
「こちらが食料庫です」
扉を開けた。冷たい空気が流れ出る。棚に並ぶ木箱、瓶、麻袋。干し肉、発酵野菜、乾燥豆、穀物粉、ハーブソーセージ。品目ごとに整理され、ラベルが貼られ、日付が書かれている。
ロゼリアが一歩入って、棚を見上げた。
「……整理されているのね」
「マルクスが管理してくれています。在庫管理は彼の仕事です」
次に保存食の工房。竈の脇に燻製用の棚、乾燥用の網、発酵瓶が並ぶ。壁には温度と湿度の記録表。棚の上には試作品のラベル付き瓶が三列。
「この燻製は、どのくらい持つの」
「条件次第ですが、冬場なら三ヶ月。夏場でも一ヶ月半は品質を維持できます」
「三ヶ月……」
ロゼリアの声が小さくなった。実家の加工場では、同じ製法で一ヶ月持たせるのがやっとだったはずだ。——私がいた頃は、三ヶ月持った。
次に帳簿を見せた。食品管理記録、交易先リスト、季節ごとの献立表、保存食の品質データ。マルクスの几帳面な数字と、私の走り書きのメモが混在するページ。
ロゼリアがページをめくる手が、途中で止まった。
「これを……一人で?」
「いいえ。厨房班と、グレーテさんと、マルクスと、みんなで」
嘘ではない。一人ではできなかった。できないことを知っている。
でも姉の目は——帳簿の厚さと、記録の緻密さと、二年分の蓄積の重さに、釘付けになっていた。
◇
厨房に戻った時、グレーテが大鍋の前に立っていた。
ロゼリアを見た。腕組みをしたまま、値踏みするような——いや、あれは値踏みではない。もっと深い、何かを見定める目。
「あんたが姉か」
グレーテの声に遠慮はない。
「……はい。ロゼリア・トルーデです」
「そう」
間。グレーテが鍋の蓋を閉めた。
「あんたの妹はね」
ロゼリアが背筋を伸ばした。社交界の防御反応だ。何を言われても受け流す準備をしている。
「ここの二千人の命を、食で支えてる」
防御が、間に合わなかった。
ロゼリアの目が見開かれた。
「代わりなんかじゃない。この砦の柱よ」
静かな声だった。怒りでも説教でもない。四十年近く砦の食を見てきた人間が、事実だけを述べている。
ロゼリアが何も言えずに立っている。口が開きかけて、閉じた。もう一度開きかけて——閉じた。
「……はい」
絞り出すような一言だった。
グレーテはそれ以上何も言わなかった。鍋に向き直り、蓋を開けて味見を始めた。——この人の優しさは、いつもこうだ。言うべきことを言ったら、あとは放っておく。
私はロゼリアの横顔を見ていた。
唇を噛んでいる。泣くのを堪えているのか、怒りなのか、悔しさなのか。たぶん——全部だ。
(姉上)
声はかけなかった。今かける言葉を、私は持っていない。
◇
厨房を出て、廊下を歩いていた時のことだ。
角を曲がったところで、セオとすれ違った。
「あ、メルル殿。——そういえば」
セオが足を止めた。ロゼリアの存在をちらりと確認して、それから私に向き直る。
「部屋の暖炉の薪——あれ、誰がくべてるか知ってます?」
唐突だった。
「使用人の方では?」
当然の答えだ。毎朝、目が覚めた時には暖炉に火が入っている。砦の使用人が朝のうちにくべてくれているのだと、ずっと思っていた。
セオが口を開きかけた。
——廊下の奥から、視線が飛んだ。
気配で分かった。振り向く前に、セオの目が泳いだ。アルヴィンが、執務室の扉の前に立っている。無表情。完全な無表情。
セオの口が閉じかけた。
閉じかけて——開いた。
「嘘です。団長が毎朝四時に起きてくべてます」
空気が、止まった。
「……え」
「毎朝です。四時です。メルル殿が起きる前に、部屋の前まで行って、暖炉に薪を入れて、火をつけて、戻ってくるんです。赴任した日からずっと」
赴任した日から。
——赴任した日から?
「セオ」
アルヴィンの声が廊下に落ちた。低い。短い。名前だけ。
「ここは譲りません」
セオが、初めて——一歩も引かなかった。
「三年ですよ、団長。赴任した日からずっと、毎朝四時に。白い結婚の契約期間中も。風邪で倒れたあの日も。——俺がどれだけ『本人に言ったらどうですか』って言ったと思ってるんですか」
アルヴィンの耳が。
赤い。
この鉄壁の無表情の人の耳が、はっきりと赤い。
「……業務連絡だ」
「薪くべが業務連絡ですか」
「防寒管理は砦の基本任務に含まれる」
「含まれません」
セオが一切の遠慮なく断言した。ロゼリアが隣で目を丸くしている。
私は——立っているのがやっとだった。
毎朝四時。
あの暖炉の火。目が覚めた時にはいつも入っていた、温かい火。使用人の仕事だと思っていた。当たり前のことだと思っていた。
当たり前じゃ、なかった。
「メルル殿」
セオの声が、急に柔らかくなった。
「知っておいてほしかったんです。——この人は、言葉じゃ絶対に言わないから」
アルヴィンは踵を返して、執務室に入っていった。扉が閉まる音だけが残った。
(毎朝——四時に——)
膝が笑っている。目の奥が熱い。
(泣くな。廊下で泣くな。姉上がいるのに)
「……メルル。あなた、顔が真っ赤よ」
姉の声が、どこか遠くから聞こえた。
◇
夜。部屋に戻った。
暖炉の火が燃えている。
いつもの火。いつもの温かさ。——でも、もう「いつもの」とは思えなかった。
この火を、あの人がくべた。今朝も。昨日も。一昨日も。三年間、毎朝四時に。
机の上のエーリッヒの手紙を取り上げた。感傷に浸っている場合ではない。開封する。
便箋は二枚。筆跡は整っていて、読みやすい。外交官の手だ。
『メルル・フォン・ノルトハイム殿
突然の書簡をお許しください。貴殿が北方にて構築された食材交易網は、誠に見事なものと伺っております。
さて、本題に入ります。
貴殿の交易網の管理権をブラント侯爵家に委譲していただければ、トルーデ子爵家と北方守備軍の兵糧供給契約を復活させる手筈を整えることが可能です。侯爵家の販路と資本を活用すれば、交易網の規模はさらに拡大し、貴殿にとっても利のある話かと存じます。
ご検討のほど、お願い申し上げます。
エーリッヒ・フォン・ブラント』
読み終えた。
便箋を机に置いた。指先が冷たい。
(——交易網の管理権を、侯爵家に)
つまりこういうことだ。ヴァルトシュタイン商会で商人に接触し、それが失敗したから、今度は私に直接取引を持ちかけてきた。餌は子爵家の兵糧契約の復活。
子爵家の契約を復活させる手筈を整える、と書いてある。謹慎中の人間に、そんな権限があるはずがない。——でも、ブラント侯爵家の人脈と資金があれば、別の商会を通じて同等の契約を斡旋することは不可能ではないのかもしれない。
巧い。巧いけれど、穴がある。
(この人は、私の交易網が「個人名義」であることを知らないのかしら。それとも知った上で、私が実家のために折れると踏んでいるの)
どちらにしろ、答えは同じだ。
折れない。
扉を叩く音。
「メルル。——入ってもいい?」
ロゼリアだった。
開けると、姉が立っていた。手に——封書の束を持っている。五通、いや六通。全て開封済み。
「読んだのね。エーリッヒの手紙」
「……はい」
「そう。——私も、読んでほしいものがあるの」
ロゼリアが封書の束を差し出した。
「エーリッヒから私に送られてきた書簡よ。婚約中のものも含めて。全部で六通」
手が、震えていた。姉の手が。
「あの人が私に何を書いてきたか、読めば分かる。……北方の交易利権のこと、子爵家をどう使うつもりだったか、全部」
「姉上——」
「証拠になるなら、全部渡す」
ロゼリアの目が、真っ直ぐだった。社交界の微笑みも、疲れた陰も、今はない。何かを決めた人間の目。
「私、利用されていたのよ。あの人に。——それを認めるのに、ここまで来なきゃいけなかった」
声が震えている。けれど、目は逸れなかった。
封書を受け取った。六通。重い。紙の重さだけではない。
「……ありがとう、姉上」
ロゼリアが小さく頷いて、目を伏せた。
「それと——もう一つ」
「何?」
「砦に来る途中、ブレンナーの宿場で噂を聞いたの。王太子殿下の監察官が、北方の巡回に出ているって」
監察官。
王太子直轄の、司法権を持つ代理人。
「……いつ頃、こちらに?」
「分からない。でも、もう北方に入っているらしいわ」
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
机の上にエーリッヒの手紙と、ロゼリアの六通の書簡。手の中に、証拠が揃い始めている。
(——間に合う。間に合わせる)
暖炉の炎を見た。あの人が、今朝もくべてくれた火。
この砦を守る。この食卓を守る。この火を——絶やさない。




