第12話 厨房の十人と、足元の暗がり
竈の火が十、一斉に燃えている。
焼けたパンの匂い、煮込んだ根菜の甘い湯気、ハーブの青い香り。——一人で磨いた鍋が、今は十人の手で回っている。
「今日の昼は干し肉と豆の煮込み。味のベースはいつも通り、獣脂で炒めてからローズマリーを一枝。付け合わせは発酵野菜の酸味を少し強めに」
壁に貼った献立表を指で叩きながら、厨房班に声をかける。
「了解です、メルル殿」
十人の兵士がそれぞれの持ち場に散る。鍋番が二人、仕込みが三人、パン焼きが二人、配膳準備が三人。グレーテが全体を見渡しながら、大鍋の火加減を調整している。
この体制ができたのは、赴任して半年が過ぎた頃だった。最初は私一人で二百人分を回していたわけではない。——いや、最初の三日間はほぼ一人だったけれど。
(あの三日間は、さすがに無茶だったわね)
鍋を磨き、竈の灰を掻き出し、塩漬け肉を刻んで煮込んで。グレーテが「本気だったのね」と認めてくれるまでの三日間。あれがなかったら、今の厨房班はない。
厨房の入口に、リーゼが立っていた。
赴任して五日。この人は毎朝、厨房を覗きに来る。手は出さない。口も出さない。ただ、見ている。
グレーテがリーゼの視線に気づいて、鍋の蓋を閉めた。
「見学なら中に入りな。入口で突っ立ってると邪魔だから」
リーゼが一瞬たじろいだ。グレーテの口調は初対面の人間には刺がある。——ただし、中に入れと言ったのは、拒絶ではなく受容だ。この砦の人たちの言葉の裏を読むのに、私も半年かかった。
リーゼが厨房に足を踏み入れた。竈の熱気と、十人分の動線。皿が重なる音、包丁がまな板を叩く音、鍋の蓋がかたかた鳴る音。
「……いつも、こうなんですか」
「こう、とは?」
「この人数で、二百人分を」
グレーテが鍋から目を離さずに答えた。
「今はね」
間があった。
「あの子が来る前は、違った」
リーゼが黙った。
「前の奥方様が亡くなってから二年。この厨房は死んでたのよ。塩漬け肉を切って皿に載せるだけ。パンは硬いまま。汁物なんて、塩水に肉片が浮いてるだけの代物。——誰も料理なんてしなかった」
グレーテの声は淡々としていた。感傷はない。事実を述べているだけだ。
「私も、する気がなくなってた」
鍋の蓋を開けて、匙で一口。味見をして、塩を一つまみ。
「あの子が来て、三日で鍋を磨いて、一週間で竈を直して、一ヶ月で献立を組んだ。半年で保存食を作り替えて、一年で交易路を開いた。——この厨房は、あの子が生き返らせたの」
リーゼの目が、私のほうを向いた。
私は聞こえないふりをして、干し肉の塩抜き具合を確認していた。
(グレーテさん、褒めすぎよ。……でも、ありがとう)
◇
午後。兵站事務室。
マルクスの机の上に帳簿が三冊、在庫リストが五枚、そして一通の通知書。
「子爵領からの保存食納品、完全停止。正式な通知だ」
マルクスが通知書をこちらに滑らせた。トルーデ子爵領の公印が押してある。文面は短い。『品質基準の維持が困難なため、契約解除に伴う納品を停止する』。
——知っていた。
いつかこうなると、分かっていた。私が組み立てた保存技術は、手順書だけでは再現できない。塩の加減、乾燥の見極め、温度と湿度の感覚。前世で何千回と繰り返した手の記憶に頼る部分が大きすぎた。
(父上は、今頃また額を押さえているのかしら)
書斎の机に向かって、手順書を広げて、「なぜ同じものができない」と苛立っている姿が目に浮かぶ。——浮かんでしまう。恨みはない。恨みはないけれど、複雑ではある。
「メルル殿」
マルクスが帳簿を開いた。太い指が数字の列を辿る。
「砦の在庫を確認した。自家製の保存食と、近隣領からの交易ルートで確保済みの食材を合算すると——」
数字を読み上げる。干し肉、発酵野菜、乾燥豆、穀物粉、ハーブソーセージ。品目ごとに在庫量と消費ペースが並ぶ。
「冬を越すのに、問題はない」
マルクスが帳簿を閉じた。
「むしろ納品の品より、砦の自家製のほうが品質が上だ。廃棄率も低い。——子爵領の納品がなくなったところで、数字上は痛くない」
痛くない。
その一言が、妙に胸に刺さった。
私がいなくなったら実家の保存食は品質を維持できない。でも、私がここにいれば砦は困らない。——それは、もう「代わり」ではなく、ここが私の場所だということの証明だ。
なのに。
実家が困っているという事実は、胸の奥で小さな棘のように残る。
「……マルクス」
「何だ」
「ありがとうございます。帳簿、助かります」
マルクスは仏頂面のまま頷いた。
「礼はいい。冬支度の発注書、明日までに出せるか」
「出せます」
もう次の話をしている。実利の人だ。この人のそばにいると、感傷に浸る暇がなくて助かる。
◇
夕方。食料倉庫の点検をしていた。
冬支度の在庫を実際に目で確認しておきたかった。帳簿の数字と現物が合っているかどうか、この目で見ないと気が済まない。——前世の棚卸しの癖が抜けない。
倉庫の奥は薄暗い。窓が小さくて、夕方の光がほとんど届かない。手元の燭台を頼りに、棚の奥の木箱を確認していく。
干し肉。よし。発酵野菜の瓶。よし。乾燥豆の袋。——少し湿気ている。場所を移したほうがいい。
棚の上段に手を伸ばした。指先が木箱の角に触れた瞬間、足元の石畳が滑った。
「——っ」
燭台を落とさないように庇った。その分、体勢が崩れた。背中から倒れる——
腕が、腰を掴んだ。
大きな手。硬い指。引き戻される感覚。背中が、誰かの胸にぶつかった。
「足元が暗い」
低い声が、頭の上から降ってきた。
——知っている。この声。この台詞。
馬車から降りるとき、手を差し出してくれた夜と同じ。あの深夜の厨房で、薪をくべてくれた人と同じ、冷たい指。
「あ——すみません、閣下。棚を確認していて」
身体を起こそうとした。
手が、離れない。
腰に回された腕が、一拍。ほんの一拍だけ、長かった。
それから、ゆっくりと離れた。
振り向く。アルヴィンは無表情だ。いつもの鉄壁。軍服の袖口が少しだけ乱れているのは、咄嗟に手を伸ばしたからだろう。
「……閣下、なぜ倉庫に?」
「巡回だ」
短い。いつも通り。
(倉庫の巡回って、将軍の仕事なの……?)
疑問は飲み込んだ。突っ込んだら、きっと「問題ない」の三文字で終わる。
「ありがとうございます」
頭を下げた。アルヴィンは何も言わず、踵を返して倉庫を出ていった。
軍靴の音が石の廊下に遠ざかる。
腰に残る、手の温度。一拍分の、あの重さ。
(——巡回、ね)
信じていない。信じていないけれど、追いかけて理由を聞く勇気もない。
指先が、まだ少しだけ熱かった。倉庫の空気は冷たいのに。
◇
部屋に戻ると、机の上にマルクスからの書類が置かれていた。冬支度の在庫リストの追記。その一番下に、走り書きのメモ。
『見知らぬ商会から納品の打診あり。ブレンナーの商人経由。商会名は「ヴァルトシュタイン商会」。取扱品目は保存食材一式。——心当たりはあるか?』
眉をひそめた。
ヴァルトシュタイン商会。聞いたことがない。ブレンナー伯爵領の商人は全員把握しているつもりだったけれど、この名前は交易先のリストにない。
新規の取引希望だろうか。北方の交易網が拡大しているから、参入したい商会が出てきても不思議ではない。
——でも。
リーゼが言っていた。王都で、この砦の交易網について良くない噂が流れている、と。
偶然だろうか。
窓の外で、北風が唸っている。暖炉の火が揺れた。朝から入っている火。誰かがくべてくれた、温かい火。
メモの上に手を置いた。
知らない名前が、妙に引っかかった。




