第11話 新しい朝と、冷ましたシチュー
湯気が二つ、小さな食事室に立ち上っている。
——二人分の朝食が、こんなに緊張するものだとは知らなかった。
将軍居室の隣に設えられた食事室は、六畳ほどの石壁の部屋だ。暖炉の火が静かに燃えている。木のテーブルに椅子が二脚。窓の外では北方の冬の朝日が、白い光を壁に落としている。
テーブルの上には、根菜のシチューが二皿。ハーブを練り込んだパンと、干し果実の甘煮。
全部、私が作った。
(……なんで手が震えてるの。二百人分の食事を毎日作ってるのに、二人分で緊張する意味が分からない)
向かい側に座っているアルヴィンは、いつもの軍服姿だ。銀灰色の髪が朝日を受けて少しだけ明るく見える。背筋がまっすぐで、椅子に座っていても肩幅が広い。
無表情。
当然のように、無表情。
「……いただきます」
私が言うと、アルヴィンが小さく頷いた。匙を取る。
沈黙。
シチューを掬う音。パンをちぎる音。暖炉の薪が爆ぜる音。
——それだけ。
契約時代のほうが楽だった、と思ってしまう自分がいる。あの頃は食堂で兵士たちと一緒に食べていた。誰かが「うまい」と叫び、隣の誰かが皿を掲げ、グレーテが「行儀が悪い」と怒鳴る。賑やかで、温かくて、私の居場所だった。
今は——二人。
正式な夫婦になったのだ。白い結婚の契約書に二本の線を引いて「無効」と書き入れ、新しい婚姻届に署名した。あの聖堂で、二千人の兵士の前で、この人は「一生だ」と言った。
なのに。
「……閣下、パンはいかがですか」
「ああ」
会話、終了。
(事務連絡か。事務連絡なのか、これは)
アルヴィンがシチューに匙を入れた。一口分を掬い上げて、口元に運ぶ。
——止まった。
匙が、唇の手前で止まっている。
ああ、と思った。
猫舌だ。
赴任二年目の夏に判明した事実。熱いものが苦手なのに、「冷めた汁物は不味い」という主義が猫舌に勝っているから、いつも我慢して食べていた人。
(……気づいてた。最初から分かってた。だからこの皿だけ、少し冷ましてから出したのに)
でも、足りなかったらしい。出来立てを運んでくる途中で、食事室の暖炉の熱が皿を温め直してしまったのだ。
計算が甘い。前世で社員食堂に勤めていた人間としては失格だ。
私は何も言わず、自分の皿からシチューを一口食べた。それから、さりげなくアルヴィンの皿に手を伸ばし——取り上げて、窓辺に置いた。
「少し冷まします」
アルヴィンの目が、わずかに動いた。
「……なぜ」
「シチューは適温で食べたほうが、ハーブの香りが立ちます」
嘘ではない。嘘ではないけれど、本当の理由でもない。
冷たい窓辺の空気に晒すこと三十秒。皿を戻す。アルヴィンが匙を入れ、一口。
今度は——止まらなかった。
「……ちょうどいい」
低い声。短い。いつもの三文字程度の感想。
なのに。
(——なんだろう。胸の奥が、少しだけ温かい)
ちょうどいい、と言ったのは温度のことだ。シチューの温度。それ以上の意味はない。
——はずなのに、アルヴィンの目が一瞬だけ、私を見ていた。
匙を持つ手ではなく、私の顔を。
すぐにシチューに視線を戻した。何事もなかったように、もう一口。
聞き間違いではないと思う。あの「ちょうどいい」の声が、いつもより半音だけ低かったことも。
(……気のせいよ。朝だから声が低いだけ)
パンをちぎって、シチューに浸した。
二人の朝食は、会話にして十語にも満たなかった。
◇
午後、砦の門前に馬車が一台到着した。
御者台から降りたのは護衛の兵士が二人。続いて馬車の扉が開き、旅装の若い女性が姿を現した。
亜麻色の髪をきっちりと結い上げ、宮廷管理局の紋章入りの外套を羽織っている。二十代前半。背筋がまっすぐで、目つきが鋭い。
「——メルル・フォン・ノルトハイム様でいらっしゃいますか」
「はい。ようこそ、北方の砦へ」
侍女リーゼ。正式な婚姻に伴い、王都の宮廷管理局から派遣された人だ。事前に書簡は届いていた。
リーゼの目が、一瞬だけ私を上から下まで見た。
視線の動き方で分かる。身なりを確認している。——辺境伯夫人にふさわしいかどうかを。
(まあ、そうでしょうね)
私の格好は、いつもの厨房仕事用の簡素な服だ。髪は邪魔にならないように一つに束ねているし、爪は短く切ってある。指先には包丁だこ。
辺境伯夫人というより、どこからどう見ても厨房の人間だ。
リーゼの口元が、ほんの一瞬だけ引きつった。すぐに完璧な微笑みに戻ったけれど、見えた。
(王都の宮廷管理局仕込みの表情管理ね。……甘いわ。グレーテさんの仏頂面のほうが百倍読みにくい)
「長旅でお疲れでしょう。お部屋にご案内しますね」
◇
リーゼを砦の中に案内しながら、厨房を通った。
竈の火が十、一斉に燃えている。
湯気と、焼けたパンの香りと、ハーブの匂い。厨房班の兵士たちが、それぞれの持ち場で動いている。鍋を回す者、野菜を刻む者、パン生地をこねる者。
「メルル殿、今日の付け合わせ、発酵野菜をもう少し酸味強めにしてもいいですか」
「いいわよ。ただし干し肉の塩気が強いから、酸味を上げるなら肉の塩抜きを十分長くして」
「了解です」
グレーテが竈の前に立ち、大鍋の蓋を開けて味見をしている。私に目だけ向けて、小さく頷いた。合格の頷き。
振り返ると、リーゼが立ち尽くしていた。
十人の厨房兵が動く中で、私が指示を出し、グレーテが品質を見る。この厨房の空気を、初めて見る人間の顔をしていた。
「……こちらが、厨房です」
我ながら間の抜けた紹介だったけれど、他に何を言えばいいのか分からなかった。
◇
昼食。食堂。
二百人の兵士たちが席につき、配膳が始まる。私はいつも通り厨房と食堂を行き来して、味の最終確認と盛りつけの指示を出していた。
リーゼは食堂の端の席で、周囲を観察している。
——聞こえた。
「あの方が辺境伯夫人? 随分と……お飾りの——」
リーゼが隣の若い兵士に何か言いかけた、その瞬間。
「おい」
低い声が割り込んだ。古参兵のハンスだ。四十代、額に古い傷跡。入隊以来ずっと北方にいる男。
「メルル殿に失礼な口を利くな。あの人がこの砦の飯を変えたんだ。お前さんが食ってるそのシチューも、そのパンも、全部あの人の仕事だ」
リーゼの顔が強張った。
ハンスの隣にいた兵士が、ジョッキを置いて頷く。
「ハンスの言う通りだ。メルル殿がいなかった頃の飯を知らねえだろ。塩漬け肉を切っただけのやつ、食ってみるか? 二日で脱走したくなるぞ」
笑い声が広がった。悪意のない、からっとした笑い。
リーゼは何も言えなかった。
私は聞こえないふりをして、配膳の確認を続けた。
(……ありがとう、ハンス)
口には出さない。出さないけれど、背筋が少しだけ伸びた。
◇
夜。部屋に戻ると、暖炉に火が入っていた。
いつものことだ。砦の使用人が朝のうちにくべてくれているのだろう。ありがたい。北方の冬は、火がなければ眠れない。
紺色のマントを椅子の背にかけ、机に向かおうとしたとき、控えめな扉の音がした。
「メルル様。少しよろしいでしょうか」
リーゼだった。昼間とは少し違う、硬い表情。
「……昼間は、失礼いたしました」
「気にしていませんよ」
嘘ではない。この砦に来た初日、私も同じ目で見られた。見知らぬ場所で、見知らぬ人を値踏みするのは人間の本能だ。
リーゼが少し迷うように視線を落とし、それから顔を上げた。
「一つ、お耳に入れておきたいことがございます」
声がひそまった。
「王都で、この砦の交易網について噂が流れております」
「……噂?」
「はい。北方辺境伯領の食材交易が急速に拡大していることに、目をつけている方がいると。——あまり、良い噂ではありません」
リーゼの目が、宮廷管理局の人間の目に戻っていた。鋭く、冷静で、情報の重さを知っている目。
「……どなたが」
「それは、まだ確かなことは。ただ——」
リーゼが言葉を切った。
「お気をつけください、とだけ」
扉が閉まった後、私は窓の外を見た。
北方の冬の夜空は、星が近い。手を伸ばせば届きそうなほど、冷たく、鮮やかに光っている。
交易網。私が一年半かけて、商人の信頼を一つずつ積み上げて作った、北方の小さな経済圏。
——誰が、何の目的で。
暖炉の火が爆ぜた。温かい部屋の中で、背筋だけがすうっと冷えた。




