13
「だってお前、ここから逃げたいんだろ?」
「いや、……まあそうだけどさ。いくら何でもいきなりすぎでしょ」
「だったらお前はいつ逃げるんだよ?」
そう言われると、そうなんだけど……。
「ほら早く行けよ。巫女には俺から説明しておいてやるからさ」
感情のこもっていないような表情で、急かすように花村が言った。これ以上ないチャンスだ──しかし、そうすぐに足は動かせない。
何か裏があるかもしれないと勘繰っているのもあるが、俺は単純に迷っていた。
それは今、ここで逃げる事が正しい判断なのか、というものである。
逃げたい気持ちは確かにある。逃げたくない気持ちなどはない。でも、なぜか迷う余地が俺にはある。
「どうした、逃げないのか? 早くしないと巫女が出てくるかもしれないぞ」
一向に逃げる気配のない俺に逃亡を促すように、仁王立ちした花村が煽ってくる。
焦る中、俺は必死に思考を働かせる。
「い……今俺が逃げたら、後でお前が巫女に何されるか分からないだろ。だから、今はやめとくよ」
そう答え、視線を下に逸らした。もちろん正しい判断だなんて思ってはいない。気持ちはモヤモヤで、自分でも何とも言えない感情だ。
「そうか。俺を守るという名目で、ここに残るってことでいいんだな?」
鼻につく言い方だ。というか、わざと俺を怒らすように言ってるとしか思えない。
「何なんだよ。嫌な言い方だな」
「俺はその通りの事を言っただけだよ」
……こいつ、絶対に喧嘩売ってる。
「喧嘩をふっかけたくなるほど、俺と友達になりたかったのか?」
「おいおい、自分自身への苛立ちを俺に向けるなよ」
「……何なんだよマジで、俺が怒ってんのはお前にだよ!」
あまりにも花村が癇に障る事を言ってくるので、俺は勢いのまま怒声を飛ばしてしまう。
そんな俺に、花村は冷静に言葉を返してきた。
「いーや、違うね。お前が苛立ってるのは自分にだよ。なぜだかここに残りたい気持ちがある自分にでも苛立ってんだろ?」
「ねえよそんなもん!」
「嘘だな。今もそうだけど、さっき外に出た時も、逃げようと思えば逃げれたはずだ。警察官に職質された時だって、あのまま任意同行された方がお前にとって都合が良かっただろ?」
「いやあれは……その、逃げたら一生声が出ないと思ってたし、何よりお前から逃げ切れる自信がなかっただけだよ」
「そういうのを屁理屈って言うんだよ。結局お前は理由をこじつけてるだけに過ぎない。自分の気持ちを、自分で間違っていると決め付けているだけだろ?」
ズケズケと、嫌な言葉を並べ立ててくる。でも、何も言い返せない。自分が何を考えているのかも分からなくなってきた。
逃げたとしても、帰る家がないから。仕事がないから──理由を見付けようとすれば見付かるけど、どれも納得のいく答えではない。
花村の言う通りだ。
花村の言う通りなだけに、それがまた腹立たしい。
「う、うるせえな、分かったよ! 逃げればいいんだろ、逃げれば!」
頭に血が昇り、やけになった俺は逃げることを決意する。
どのみちずっとこの場所にいるわけにはいかないんだ、自分でも分からない小さな迷いの為だけに、ここへ居座る事なんて馬鹿馬鹿しい。
そうだそうだ。後々ここで逃げなかった事を後悔したくないしな。
俺はしかめっ面で鼻息を荒げ、エレベーターの前に立ち、矢印の描かれた四角いボタンを押した。
ポチ。
ピーッ! ピーッ!
「ん?」
ボタンを押した瞬間、警報機のような喧しい音が頭上で鳴り響いた。
そして──ビリビリビリビリ!
「うべべべべべべっ!?」
ボタンを押している指先から電気が流れてきました。
「金也大丈夫か!?」
直立状態のままでその場に倒れそうになった俺を花村が咄嗟に抱きかかえる。
「なん……とか……」
今まで食らってきた電気ショックよりは強くなかったので、比較的ダメージは少ない。だからと言って無事というわけではないけど。
「……あらあら、何やってんのよ。まさかアンタたちBL属性でも持ってたの?」
見計らったかのようなタイミングで研究室からパーカーに着替えた巫女が出てきた。
「おい、お前エレベーターのボタンにまで罠を仕掛けてたのか?」
すかさず花村が訊いた。この様子だと、花村は本当に何も知らなかったようだな。
「そうよ。指紋登録されてない人間がボタンに触ると電気が流れるの」
「流れるのって……誤作動でも起こしたらどうするんだよ。というか、俺は? 今まで何ともなかったぞ」
「ふん。アンタの指紋なんざ、アンタから直接とらずとも採取できるわよ」
腕を組み、自慢げにあごを上げて胸を張った。
「ったく……しかし、小便漏らさなくて良かったな金也」
花村は巫女の言葉に呆れた表情を見せた後、俺に顔を向けて微笑む。
「うん……でも、今漏れそうかも」
ここまではどうにか堪えたが、すでに俺のタンクは限界点に達していた。
「なに!? もう少し我慢しろ、今トイレに連れて行ってやる」
焦った花村は羽交い締めするように俺の脇下へ両手を通し、力ずくで立ち上がらせる。
そして、俺は花村の肩に支えられながら、巫女の部屋のトイレへと直行した。




