シュガーボーイとツケマ女の攻防(今のとこ、負け続き…)
狭い事務室の扉を激しく突き飛ばす様に開けて、アンが飛び込んできた。
ちゃちな造りの事務所が震動でガタガタと揺れた。
そのあまりの勢いのよさと驚きに私は舌を噛んでしまった。
痛みで涙が出そうになるが、そのお陰で心を巣食っていた負の感情が引っ込んだ。
不幸中の幸いだ。
あのまま感情が堰を切って流れ出ていたら、私はきっと立ち直れない。
私はかける言葉も見つからず、ただただ部屋に入ってきたアンをポカンと見つめた。
扉の前に立ったアンは片眉を引き上げると、小さく嘆息した。
「あれ?まだ顔直してないの?仕方ないな」
アンは私の側までずかずかと歩いてきた。
そしておもむろに私の前に屈む。
目線を合わせて、ニコッと小さく笑う。
「ちょっと汗臭いけど我慢してよね」
「はい?」
意味が分からなくて、目を瞬く。
だけど、目の前のいけすかない男はニヤリと黒い笑みを浮かべる。
それは甘いだけが取り柄の彼らしくない、デンジャランスな男の色香を纏っていた。
本能的にヤバいと思った。
咄嗟に後ろに体を引く。
「ちょっと、離れ………」
でもアンは私の話なんて聞く耳持たず。
ずいっと体を寄せてくる。
なに、なに、なにするのぉぉぉぉぉ。
混乱する私を余所に、アンは自分のズボンのポケットからタオルを取り出す。
そのまま、私の許可も取らずにそのタオルを私の顔に押し付けてくる。
「ギャッ!ちょっ、やめ、ちぇっ!」
そ、そんなことしたら、せっかくのお化粧が取れちゃうでしょおぉぉぉぉ。
色々繕っているのがバレちゃうじゃない。
なのに敵ときたら、手を止めるどころかゴシゴシと私の顔についた泥を落とそうとする。
「やめちぇ、だって。アハハッ、おーちゃん、テンパリすぎ」
なんだ、その全力な笑顔は!
こっちは戦々恐々してるってのに!
私は咄嗟にアンの手を止めようとタオルを持つ彼の手首を押さえた。
彼は手を止めて不思議そうに私の顔を覗きこむ。
変わらずに澄んでいる彼の瞳の中には、見たくない可哀想な姿のちっぽけな女の子が映っている。
「じ、自分でするから放っておいてよ」
「大丈夫。お化粧取れてもおーちゃんは可愛いから」
そう言って極上の笑顔を浮かべる。
甘い甘い、蕩ける微笑み。
きっと天国の天使もこんなにも人の心をくすぐる笑い方はできないわ。
でも………。
胸がズキンと痛んで、心が軋む。
やめて。可愛いのはあなたの方。
そんな顔されると心が緩んで、ひた隠しにしている素の私が出てきちゃうの。
偽るしかできない自分の浅ましさをまざまざと見せつけられ、私はこれ以上ない劣等感に苛まれる。
「ば、馬鹿言わないで」
泣きそうな顔を見られたくなくて、私は思わず下を向いた。
でも敵は私の複雑な感情なんて知らないから、普段通り。
「ほんと、ほんと!」
ウッサン臭いほど軽やかに歌うように言う。
優しい言葉。
現場の人気者のアンは誰にだって優しい。
この顔で、この声で、思わない角度から素敵な言葉を言われれば誰だって彼を好きになる。
でも私には逆効果。
彼が私にお座なりの社交辞令を言うたびに、身を引き裂かれる思いがする。
「いい加減にして!」
感情的に叫んで、すぐ側にあるアンの肩を押しやった。
どうか、嫌いなら嫌いとハッキリと態度で示してよ。
万人に優しくしなきゃとか、そんな義務感で優しい言葉をかけられても、辛いだけなの。
ああ、なんて私は嫌な人間なんだろ…………。
アンの言葉を拒絶する度に、そんな自分に嫌気がさしてくる。
もう、今度こそダメかもしれない。
そう思った瞬間。
グイッと両頬を掴まれた。
「な、何?」
戸惑い、思わず顔を上げると、そこには普段と違って、引きしまったアンの顔があった。
真摯な瞳は情熱的な色を湛えている。
ドクンっと鼓動が跳ねた。
普段と違うアンの顔に、どうしていいか分からず、身を引く。
でもアンは私の頬から両手を離してくれない。
それどころか、ズイッと顔を寄せてきた。
ちょっ、ななななんあなななななんあなっぁぁぁぁぁなななな、なにをいたそうとしてるわけぇぇぇぇええええぇぇぇどえぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!
叫ぶこともできない私。
アンはそんなことお構いなしに、鼻先が擦れるまで自分の顔を近付けてくる。
形の良い猫口がすぐ側にある。
それ以上近付いたら口に触れちゃう。
思わず全身が凍りつく。
でもこのままじゃダメだ!
そう咄嗟に思って、アンを振り払おうとした。
その時、ピタリと動きを止めた。
真剣な顔がいつもの笑顔に変わる。
「キスするかと思った?」
な、なんですとぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおぉぉぉぉぉぉ!
からかわれたぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!