第一話 山の上まで
「真二ー! 遅い!」
顔を上げると、ひなたはもう十メートルほど先にいた。
「お前が速いんだよ!」
「まだ始まったばっかだよ!」
「だからだよ!」
入学して一週間。
県立青葉高校の一年生全員が参加する新入生歓迎オリエンテーションで、真二たちは町の北にある山を登っていた。
四月半ば。登山道の両側では、木々が一斉に若葉を広げている。夏の深い緑とは違う、黄色を少し混ぜたような明るい緑だ。日の光を透かした葉が頭上で幾重にも重なり、風が渡るたび、木漏れ日が足元で揺れた。
ひなたが振り返る。
「真二! めっちゃ緑!」
「見れば分かる!」
「空気うまい!」
「それも分かる!」
「山!」
「ついに感想ですらなくなった!」
ひなたが笑った。
真二も笑う。
幼稚園の頃から、だいたいこんな感じだった。
家は隣。小学校も中学校も一緒。
高校まで一緒になった。
周囲には知らない顔ばかり増えたのに、こいつだけは何も変わらない。
「ひなたー! ちょっと待って!」
後ろから美咲の声がした。
美咲と理央が追いついてくる。
今日はクラスごとの四人班で山頂を目指す。真二、ひなた、美咲、理央が同じ班だった。
美咲はひなたに追いつくなり、腰に手を当てた。
「最初から飛ばしすぎ。後で絶対疲れるからね」
「まだ元気だよ?」
「今の話じゃないの」
「その時考える!」
「絶対考えないやつじゃん」
ひなたはそのまま後ろ向きに歩き、
ごつん。
背中から木にぶつかった。
「痛っ」
「前見ろよ」
ひなたが木を振り返る。
「木の配置が悪い」
「山に謝れ」
理央が腕時計を見る。
「今のところ、予定より速いくらいだよ」
「ほら!」
「『今のところ』って言ったからね」
もう聞いていない。
「行くぞー!」
ひなたは再び駆け出した。
「だから走るな!」
真二も追う。
後ろで美咲がため息をついた。
「ずっとあんな感じ?」
「十五年くらい」
「十五年って長いね」
「長い?」
ひなたが振り返った。
本人だけよく分かっていないらしい。
理央が言う。
「人生の大半だね」
「急に重くなった!」
ひなたはそう言って、また前を向いた。
その直後。
「鳥!」
「どこ?」
「あそこ!」
真二も枝の間を探した。
「……いた。でかいな」
「見た?」
「見た見た」
「よし!」
「何がよしなんだよ」
山は新入生でいっぱいだった。
ただ、普通に登っている生徒ばかりではない。
「校~~風~~薫る~~!」
背後から、とんでもない声量の校歌が迫ってきた。
振り返ると、学ラン姿の応援団員が腕を大きく振りながら登ってくる。その後ろには、新入部員らしい一年生が五人。先輩に負けじと声を張っているが、すでに二人ほど顔が赤い。
「ファイトォォォ!」
「おおーー!」
ひなたが拳を突き上げた。
「参加すんな」
先頭の応援団員も拳を返し、歌いながら四人を追い越していった。
美咲がその背中を見送る。
「絶対、山頂着く頃には静かになってるよ」
「賭ける?」
「今、私が言ったことに何を賭けるの?」
その次に現れたのは、巨大なザックを背負った一団だった。
登山靴にストック。丸めたマット。ザックの脇には、金属製の鍋らしきものまでくくりつけてある。
美咲が二度見する。
「……待って。あの人たち何泊するの?」
「今日帰るはずだけど」
「理央、そういう意味じゃない」
ザックには『山岳部』と書かれていた。
ひなたの目が輝く。
「かっこいい!」
「入る?」
「山はそんなに好きじゃない!」
「今、何に感動したんだよ」
ひなたは巨大なザックを見上げた。
「何入ってるんですかー?」
真二もザックを見る。
「鍋みたいなの見えてますけど」
先輩が笑う。
「山に必要なもの」
「何が!?」
「山頂まで来れば分かるよ」
「気になる!」
「登れば分かる」
「登る!」
真二が言った。
「最初からその予定だろ」
その山岳部も追い越していった。
さらに――。
「待って待って待って! ごん! 速いって!」
柴犬が猛烈な勢いで四人を抜いた。
その後ろを、ジャージ姿の女子生徒がリードに引っ張られている。
「犬ーーー!」
ひなたが追いかけようとする。
美咲がリュックをつかんだ。
「あなたは山頂に行くの!」
柴犬が振り返った。
ひなたも振り返る。
一瞬、目が合った。
「今、通じた」
「何が」
「また会おうって」
「たぶん何も言ってない」
登山口から離れるにつれ、町の音は聞こえなくなった。
道も細くなり、左右から新緑が迫ってくる。
去年の茶色い落ち葉を押しのけるようにシダが伸び、その間に小さな白い花が咲いていた。木陰へ入ると、汗ばんだ首筋に触れる風が少し冷たい。
どこか高い枝で鳥が鳴く。
真二は足元の土を踏んだ。
少し湿っている。日なたとは匂いまで違う。
結構いいな、山。
そう思ったところで、前を行くひなたが急停止した。
「何してるの?」
道端に男子生徒がいた。
背中には小さめのリュック。その外側に大きな籠が括りつけてある。手には火ばさみ。
空き缶を拾っている。
「ゴミ拾い。ボランティア部」
男子は空き缶を籠へ落とした。
「せっかくみんなで山に来る日だからさ。帰る頃に、少しでも綺麗になってたら気持ちいいかなって」
ひなたが籠を見る。
「一人で?」
「今のところはね。興味ある人がいたら誘おうかなって――」
「やる!」
「え?」
「やる!」
男子が固まった。
美咲が男子を見る。
「待って。自分から誘ったんだよね?」
「そうなんだけど、本当にやってくれる人がいると思ってなくて……」
「なんで誘ったの!?」
「勧誘はしたかったんだよ!」
男子は笑いながら背中のリュックを下ろした。
籠の脇に括りつけていた折り畳み式の籠と、もう一本の火ばさみを外す。
「一応、予備は持ってきた」
「あるじゃん!」
「あるけど!」
三分後。
男子に手伝ってもらい、ひなたは自分のリュックの外側へ籠を括りつけていた。
「行こう!」
真二はその姿を見る。
「荷物増えたな」
「その分、山のゴミが減る!」
「お前の荷物は増えてるぞ」
「山全体で考えて!」
理央が少し考えた。
「山全体なら減ってるね」
「理央!?」
美咲が振り返る。
「そっち側なの!?」
ひなたは忙しくなった。
空き缶を見つけて走る。拾う。戻る。
菓子袋を見つけて走る。拾う。戻る。
枝に引っかかったビニール袋まで見つけた。
「あった!」
拾って、籠へ落とす。
「一個!」
「ゲームじゃないぞ」
また数歩。
「あった!」
「山見ろよ」
「見てる!」
「どこを?」
「下!」
美咲が吹き出した。
「待ってて!」
「誰に言ってるんだ?」
「みんな!」
「待たされてる側しかいないぞ」
当然、四人の速度は落ちた。
それでも、ひなたは楽しそうだった。
最初の三十分は。
一時間後。
「…………真二」
「何」
「山って長いね」
来た。
「朝なんて言ってた?」
「覚えてない」
「俺は覚えてる」
「忘れて」
ひなたは坂の先を見上げた。
「……上に行くほど、上があるね」
「山だからな」
「一時間も登ったんだから、山頂も少しくらいこっち来てくれてよくない?」
「動いたら怖いだろ」
「努力を評価してほしい」
「誰に?」
「山に」
「山に謝れ」
ひなたの足取りは明らかに重くなっていた。
籠の中身も増えている。
そこから山道はさらに急になった。
足を上げる回数が増える。
ジャージの中に熱がこもってきた。
ひなたが胸元をぱたぱたさせる。
「暑い!」
籠をいったん下ろし、ファスナーを一気に下ろした。
上着を脱いで腰に巻く。白い半袖の体育着になった。もう一度リュックを背負い直す。
「軽くなった!」
真二が籠を見る。
「誤差だろ」
「気持ちは軽い!」
美咲が呆れた顔をする。
「だから最初に言ったじゃん。飛ばしすぎると後で疲れるって」
「そんな昔の話覚えてない」
「一時間前!」
真二が籠を見る。
「もう返してくれば?」
ひなたは首を振った。
「やだ」
「最後までやるって言ったから」
「誰に?」
「私に」
理央が首を傾げた。
「無理することないんじゃない? 契約者も解約権者も本人なのに?」
「解約しない!」
「強い契約だね」
少し先で、理央がペットボトルを拾う。
「これも?」
ひなたが顔を上げた。
「おお! 戦力が増えた!」
「一個だけね」
美咲も足元を見る。
「……あ。あれ袋じゃない?」
「どこ!?」
「そこ。って走らない!」
結局、全員拾っていた。
「校~風……薫る……」
前方から、かすかな歌声が聞こえた。
朝の応援団だった。
腕はもう上がっていない。
後ろの一年生は、一人も歌っていなかった。
ひなたも疲れた顔のまま、無言で拳を上げる。
応援団員が気づき、同じように拳を上げる。
そのまますれ違った。
「何だったの今」
「戦友」
「いつ戦った」
その直後、女子生徒が歩いてきた。
腕には柴犬。
朝は山を制覇する勢いだった犬が、今は抱かれたまま四肢をだらんと垂らしている。
ひなたが止まった。
ごんも薄く目を開ける。
「……分かる」
「何が」
「全部」
ごんは再び目を閉じた。
もうしばらく登ったところで、美咲が突然、真二の腕をつかんだ。
「待って」
「何?」
「そこ」
「どこ?」
「そこそこそこ!」
指の先。
登山道の端に、小さなカエルがいた。
「カエルじゃん」
「だから何でそんな平気なの!?」
真二が覗き込む。
美咲が一歩下がった。
「待って、触らないでよ」
「触らねえよ」
ひなたはもう草むらを覗いている。
「どこ?」
「探さないで!」
「気になる!」
「私は気にならない!」
「じゃあ私だけ見る!」
「見たら言うでしょ!」
「言わない!」
草が動いた。
ひなたの目が輝いた。
「いた!」
「言った!!」
「どこ!?」
「そこ!」
「どこ!?」
「そこそこそこ!」
「情報増えてない!!」
カエルが跳ねた。
「きゃあっ!」
美咲が真二の腕へ飛びついた。
肩から腕へ、急に体重がかかる。
近い。
真二の腕が固まった。
カエル。
今はカエルだ。
美咲が怖がっている。
だからこれは――
「真二?」
ひなたが顔を覗き込んでいた。
「はい」
一拍。
「なんで敬語?」
「知らん」
「変なの」
「うるさい」
美咲がようやく真二の腕を離した。
「……ごめん」
「いや」
ひなたがまだ真二を見ている。
カエルではない。
美咲でもない。
真二の顔。
「何?」
「……別に」
美咲が言った。
「もうこの話終わり!」
「終わった!」
ひなたはあっさり前を向いた。
そのとき、また草むらがガサッと鳴った。
ひなたの口が開く。
美咲が見る。
「言わなくていい」
ひなたは口を閉じた。
両手で丸を作る。
美咲が吹き出した。
真二たちも歩き出す。
少しして、ひなたが一度だけ真二を見る。
真二が見ると、すぐ前を向いた。
何だよ。
山頂まで、あと一キロ。
傾斜が少しきつくなり、ひなたは完全に黙った。
木々の隙間から見える空は近くなった気がするのに、曲がり角を越えるたび、また坂が現れる。
「……騙された」
「誰に?」
「山に」
「だから山に絡むな」
少し先。
理央が足を止めた。
「あれ、凛じゃない?」
竹刀袋。
見間違えようがない。
「凛ー!」
ひなたが走った。
背中の籠がガサガサ鳴る。
「走れるじゃねえか!」
凛の隣には奈々がいた。
二人とも、ずいぶんゆっくり歩いている。
「奈々!」
奈々が困ったように笑った。
「ちょっと足ひねっちゃって」
右足へ体重を乗せるたび、わずかに顔が曇る。
歩けないほどではない。
ただ、普通の速度ではつらそうだった。
凛が歩幅を合わせている。
ひなたがしゃがむ。
奈々は、その背中を見る。
「……何それ」
「ゴミ!」
「見れば分かるけど」
「ボランティア!」
「助けに来た人が一番荷物多いね」
ひなたが自分の背中を見る。
「大丈夫!」
奈々が首をかしげる。
「何が?」
「全部!」
真二が追いつく。
「雑だな」
美咲と理央も来た。
「奈々、大丈夫?」
「うん」
「班の人は?」
事情は単純だった。
奈々と同じ班の男子二人は、別クラスの友達と山頂までどちらが早いか競争していた。
奈々が足をひねってからもしばらくは、凛を含めた四人で一緒に歩いていた。けれど奈々が「先に行っていいよ」と言うと、男子二人は迷った末に競争へ戻った。
「凛は?」
「行かない」
「私、歩けるよ」
「うん」
「先行っていいよ?」
「奈々がいるから」
それだけだったらしい。
「凛らしいね」
奈々が笑う。
「そう?」
「そう」
美咲はまだ少し納得していない。
「でも普通そこで本当に行く……?」
「私がいいって言ったから」
奈々は困ったように笑う。
「途中の先生には?」
「見てもらった。腫れてないから、痛くなったらすぐ止まってって」
美咲は奈々を見る。
「……ごめん」
「ううん」
ひなたはもう奈々の左側へ回っていた。
「じゃ、一緒に行こう!」
「いいの?」
「何で?」
ひなたは本当に分からない顔をした。
奈々が少し止まる。
「私、遅いよ」
「遅くていいよ?」
「……そう?」
「うん」
ひなたはもう奈々の腕を自分の肩へ回していた。
凛が反対側に立つ。
「私も支える」
「ありがとう」
奈々が右足へ体重を乗せた。ほんの少し、眉が寄る。
その背中には、まだリュックがある。
真二はそれを受け取った。
誰も「六人で行こう」と相談したわけではなかった。
それでも六人は、そのまま歩き始めた。
奈々が右足をかばうたび、ひなたと凛の歩幅が小さくなる。
その後ろを真二、美咲、理央がついていく。
誰も追い越さなかった。
歩幅が小さくなると、真二にも周りを見る余裕ができた。
若葉の隙間から落ちる光が、土の道にまだらな模様を作っている。
斜面の下から細い沢の音が聞こえた。姿は木々に隠れて見えない。
真二は一度、斜面の下を覗いた。
「沢、見えないな」
「音だけだね」
奈々もそちらを見る。
風が抜ける。
頭上で何千枚もの葉が一斉に揺れ、明るい面と暗い面が入れ替わる。
「綺麗だね」
奈々が言った。
「うん」
ひなたが答える。
そして足元を見る。
「あ、缶」
「景色見ろよ」
「缶も景色の一部!」
「だから拾うんでしょ?」
奈々はひなたの肩へ体重を預けたまま、ゆっくり腰を屈めて空き缶を拾った。
「はい」
「ありがとう!」
「負傷者にゴミ拾わせるなよ」
「私もやりたかったの」
「奈々まで!?」
美咲が頭を抱えた。
しばらくして、ひなたがまた道端を見た。
奈々を見る。
道端を見る。
それから真二を見る。
「嫌だ」
「まだ何も言ってない!」
「ゴミだろ」
「なんで分かったの!?」
「十五年」
美咲が笑った。
「十五年って便利だね」
「用途限定されすぎだろ」
ひなたが道端を指した。
「お願い!」
「奈々離せないなら諦めろ」
「でもゴミが!」
「逃げないだろ」
その瞬間、風が吹いた。
道端の菓子袋がふわりと浮く。
ころころと坂の上へ転がった。
ひなたの目が見開く。
「逃げた!!」
「走るな!」
「真二!」
「分かったよ!」
真二は奈々のリュックを理央へ渡し、菓子袋を追った。
拾って戻る。
ひなたが満面の笑みを向ける。
「ありがと!」
「なんで俺が」
奈々が笑った。
「真二、慣れてるね」
「嫌な慣れ方してる」
理央から奈々のリュックを返してもらい、真二はまた肩に掛けた。
その少し先で、美咲が足元を見る。
「あ」
ひなたが反応する。
「ゴミ!?」
「違う!」
「今見た!」
「見てない!」
美咲は数歩進み、それから戻った。
落ちていた飴の袋を拾う。
ひなたが嬉しそうに言う。
「仲間!」
「違うから!」
理央はその横を通りながら、小さな包装紙を拾った。
「理央!」
「落ちてたから」
「仲間!」
「定義が雑」
少し先では凛も何かを拾った。
奈々も足元へ目をやる。
真二が言った。
「負傷者は探さなくていい」
「拾いたかっただけ」
奈々はそう言って笑った。
いつの間にか、ひなたの籠の中で鳴るものが少し増えていた。
凛が竹刀袋を背負い直す。
ひなたがようやく気づいた。
「そういえば、なんで竹刀持ってきたの?」
「帰りに道場へ行くから」
「学校に置いとけば?」
「嫌」
「家に置いてから行けば?」
「嫌」
「なんで?」
「一日触らないと腕が鈍る」
真二が振り返る。
「一日で?」
「鈍る」
話が終わった。
ひなたは感心した。
「剣道部って大変なんだねえ」
「お前だけ納得すんな」
山頂が近づいたところで、前から男子二人が下りてきた。
奈々と同じ班だった二人だ。
「あ、七井さん!」
「足、大丈夫だった?」
二人とも本気で心配しているようだった。
奈々が手を上げる。
「うん。凛が一緒に来てくれたから」
ほっとした顔。
凛が立ち止まる。
「勝った?」
「え?」
「競争」
男子二人が顔を見合わせた。
「……負けました」
凛が奈々を見る。
「奈々を置いてまで?」
「……はい」
凛の眉が動いた。
竹刀袋が開いた。
「え?」
スパァァァァン!!
山に、とんでもない音が響いた。
「痛っ…………くない!?」
男子が頭を押さえたまま、自分の頭を確かめる。
無傷だった。
凛は竹刀を肩に担いだ。
「活人剣だ。目は覚めたか?」
「説明になってない!」
もう一人が一歩下がった。
「待って。俺は謝る。ごめん、七井さん」
「うん」
凛の竹刀が上がる。
「え」
スパァァァァン!!
「謝ったのにー!」
奈々が吹き出した。
「二人で置いていった」
「そこは連帯責任なの!?」
凛は真顔だった。
二人が顔を見合わせる。
「……次は待つ」
「もう置いてかない。ごめん」
奈々が笑う。
「私も行っていいって言ったし。次からね」
「うん」
凛はまだ竹刀を手にしていた。
「あと奈々にジュース」
「まだあるの!?」
奈々が少し考える。
「それは欲しい」
「七井さんも乗るの!?」
「喉乾いたし」
美咲が吹き出した。
奈々も笑いながら、凛を見る。
「凛、もういいよ」
「分かった」
凛は竹刀を下ろした。
最後の坂を登る。
ひなたの息が少し荒い。
奈々の右足に合わせて、六人の歩幅は最後まで小さいままだった。
やがて、頭上の緑が薄くなった。
光が強くなる。
あと数歩。
最後の坂を登り切った。
それまで頭上を塞いでいた新緑が途切れ、視界いっぱいに青空が開いた。
「着いたーーー!」
ひなたが両手を上げた。
背中の籠が、がしゃんと鳴った。
山頂の広場には、新入生の声が満ちている。
「……あ!」
ひなたが端を指した。
朝のボランティア部員が、回収用の袋を広げていた。
ひなたがそちらへ行く。
「これ!」
籠を下ろし、火ばさみも返す。
中には空き缶や袋がたまっていた。
男子が目を丸くする。
「本当に最後までやったんだ」
「やった!」
「結構拾ったね。ありがとう」
「楽しかった!」
「ボランティア部、入る?」
「入らない!」
「即答!?」
「でも、また手伝う!」
男子は一瞬ぽかんとして、それから笑った。
「じゃあ次も予備持ってくるよ」
「二個ね!」
「増やすの!?」
ひなたが腰を伸ばした。
「軽い!」
真二が言った。
「今度は本当に軽くなったな」
ひなたが一拍置く。
「ほんとだ!」
美咲が笑った。
「今気づいたの?」
六人で手を洗っていると、ふっと味噌の匂いがした。
ひなたの顔が上がる。
「……いい匂い!」
出汁の匂いもする。
疲れていたはずの歩調が急に速くなった。
「豚汁!?」
感動する順番がおかしい。
山頂広場では、大鍋から白い湯気が上がっていた。
朝の山岳部員たちだ。
「豚汁どうぞー!」
真二は鍋を見る。
朝の巨大なザック。
「あれ、持って登ったんですか?」
「うん」
「歩いて?」
「歩いて」
ひなたが鍋を見る。
巨大なザックを見る。
また鍋を見る。
「それだったの!?」
先輩が笑った。
「一部ね」
「まだあるの!?」
「あるよ」
「何入ってるんですか!」
「山に必要なもの」
「またそれ!」
六人分の豚汁を受け取る。
豚汁は、うまかった。
異常にうまかった。
真二の頭には、それ以上の感想が浮かばない。
隣では、一時間前まで山頂に文句を言っていたひなたが一口飲むたびに言っている。
「うまっ!」
もう一口。
「うまっ!」
真二が見る。
「毎回言うの?」
「毎回うまい!」
美咲が笑った。
「復活したね」
「豚汁で!」
「具体的になっただけじゃん」
少し離れたベンチでは、応援団が無言で豚汁をすすっていた。
ひなたが拳を上げる。
一人が気づく。
拳を返す。
もう言葉はいらなかった。
さらに向こう。
柴犬が水を飲んでいた。
ひなたが手を振る。
ごんはちらっと見て、また水を飲んだ。
「ちょっと仲良くなった」
「朝から一ミリも進んでないぞ」
食べ終わった頃、ひなたが山岳部員へ聞いた。
「帰りは軽いですよね!」
「うん」
「じゃあロープウェイ?」
「歩くよ」
六人が止まった。
「え?」
理央が山頂駅を見る。
「ロープウェイありますよ」
「知ってる」
「下り、十キロありますよ」
「知ってる」
先輩は当然のように笑った。
「山岳部だから」
理央が小さく言った。
「強い」
誰も反論できなかった。
食後、六人は展望台へ上がった。
奈々は手すり側の階段をゆっくり上がる。
ひなたと凛も、その速度に合わせた。
階段を上り切った瞬間、真二は足を止めた。
山の下に、町が広がっていた。
手前の斜面を新緑が埋め、その先から住宅地が始まっている。灰色や赤茶色の屋根が密集し、その間を細い生活道路が縫っていた。
少し先には、中央分離帯のある幹線道路。
その向こうを電車が走っている。
小さな車が途切れず動いていた。
「学校どこ?」
ひなたが手すりから身を乗り出した。
「危ない」
「分かってる!」
「分かってる人の姿勢じゃない」
真二も知っている場所を探した。
まず駅を見つけ、そこから線路と幹線道路を辿る。見慣れた建物を基準にすると、だいたいの場所が分かった。
「あの辺だ」
「何?」
「俺んち」
もちろん家そのものを見分けられるわけではない。
ただ、場所は分かる。
「あ、じゃあ私んちもそこ!」
ひなたが真二の指の先へ自分の指を重ねた。
「隣だからな」
「知ってる!」
先月まで通っていた中学校も見つかった。
校舎そのものは小さい。
その近くの大きなグラウンドで分かった。
「懐かしい!」
「先月まで通ってただろ」
「山から見ると違う!」
そして、別の方向。
「あった!」
ひなたが声を上げる。
「高校!」
「どれ?」
美咲が身を乗り出す。
「あそこ! 体育館の屋根!」
「分かんない!」
理央が駅と道路を見比べる。
「ひなたの指より、少し右じゃない?」
「あ」
「ほら」
「あれだ!」
「私もそこ指してた!」
「違ったよ」
「理央!」
奈々が笑った。
美咲も町の向こうを探す。
「うち、たぶんあっち」
「森野んち?」
「うん。駅の向こう」
「じゃあ中学は、あそこだよね」
ひなたがさっき見つけたグラウンドを指す。
「そう。私もそこ」
「三人一緒だったんだ」
奈々が言った。
理央は川の近く。 凛と奈々は、また別の方角らしい。
気づけば、いくつもの指先が町の違う場所へ伸びていた。
奈々がそれを見て、ゆっくり町を見回す。
「みんな、別々のところから来てたんだね」
美咲が笑う。
「まあ、三人は同じ中学だけどね」
「でも家は別でしょ?」
「それはそう」
奈々も笑った。
真二はもう一度、町を見渡した。
自分とひなたの家はあっち。美咲は駅の向こう。理央は川の近く。凛と奈々の指は、また別の方角へ伸びている。
山の上から見ると、家も道路もずいぶん小さい。
けれど、あの屋根の一つ一つに誰かが帰って、飯を食って、寝て、また朝になれば出ていく。
理央も、凛も、奈々も、真二がまだ知らなかった頃から、あの町のどこかでそうやって毎日を過ごしていた。
その違う場所から来た六人が、今は同じ手すりの前に並んでいる。
上から見ると、それが少し不思議だった。
ひなたが町を見ながら言う。
「なんか面白いね」
美咲が聞いた。
「何が?」
「分かんない」
「分かんないんだ」
「でも面白い!」
ひなたは振り返った。
「写真撮ろう!」
やっぱり、ひなたが最初に動いた。
「六人で?」
奈々が聞く。
「六人で!」
凛が首を傾げる。
「私と奈々、班違うけど」
「今さら?」
ひなたが凛の腕を引いた。
「一緒に登ったじゃん!」
近くにいた先輩へスマホを渡し、六人で並ぶ。
奈々。
凛。
理央。
美咲。
真二。
ひなた。
「もうちょっと寄ってー!」
先輩に言われた。
ひなたが真二の腕を引く。
「狭い」
「入らないでしょ!」
「入るだろ」
美咲が髪を直している。
奈々が前を向いたまま聞いた。
「私見えてる?」
凛が奈々を見る。
「見えてる」
理央が言った。
「ひなた、動くとずれる」
「動いてない!」
撮影してくれる先輩が笑った。
「動いてるよ」
「えっ」
「撮るよー!」
六人が前を向く。
「あ、奈々もうちょっとこっち!」
「今!?」
カシャ。
ひなたが奈々の方を向いたまま写真が撮れた。
「今のなし!」
美咲が笑う。
「ひなたが動いた!」
「だって奈々が!」
「見えてたよ」
「先に言って!」
凛が言った。
「言った」
「あ」
画面を見たひなたが止まる。
一枚目は少し崩れていた。
ひなたは奈々の方へ向いていて、美咲が笑っている。理央も笑っていた。凛は前を向いたまま、奈々だけがひなたを見ている。
真二も、何か言いかけた顔をしていた。
「これもいいじゃん」
ひなたが言う。
「動いてるけど」
「みんな笑ってる!」
「じゃ、もう一枚!」
六人でもう一度並ぶ。
「今度こそ動かないでね」
先輩が笑う。
「はい!」
ひなたの返事だけが妙にいい。
「もうちょっと寄ってー!」
今度こそ全員が少しずつ詰めた。
美咲と真二の目が合った。
カエル。
二人とも同時に思い出したらしく、美咲がわずかに離れようとする。その反対側から、
むぎゅ。
ひなたが真二の肩へくっついた。
「……近くない?」
「写真だから!」
「まあ、そうだけど」
ひなたは正面を向いたまま、横目で真二を見る。
真二も見返したが、何を確認されたのかは分からなかった。
「撮るよー!」
六人が前を向く。
山を渡ってきた風が吹いた。
凛の黒い髪が揺れる。
美咲が慌てて前髪を押さえる。
奈々が笑う。
理央も少し笑った。
ひなたはそのまま笑った。
シャッターが切れた。
二枚目には、ちゃんと六人が写っていた。
帰りはロープウェイだった。
ゴンドラが斜面を下り始めると、窓のすぐ外にある新緑の梢が、今度はゆっくり上へ流れていった。
少し離れれば、一面の若葉。
その間から、ときどき茶色い地面が覗く。
登ってきた道を探してみたが、ほとんど分からない。
「あそこじゃない?」
ひなたが窓へ顔を寄せた。
「どこ?」
「あの茶色いとこ」
真二も見る。
木々の切れ間に、ほんの数メートルだけ土の道が見えた。
すぐ林の中へ消えている。
「あれかな」
「たぶん!」
朝から何度も聞いた言葉だった。
ゴンドラが下る。
別の場所で、また短い登山道が木々の間から現れ、折れ曲がって消えた。
あの林の中を歩いてきたのかと思うと、少しだけ変な感じがした。
「あ!」
ひなたが今度は窓の下を指した。
「山岳部!」
はるか下の登山道を、小さな人影が歩いている。
巨大なザックも見えた。
「ほんとに歩いてる!」
「疑ってたの?」
「ちょっと」
ひなたは窓越しに大きく手を振った。
遠くの一人が気づいたのか、手を上げる。
「元気だな、あの人たち」
真二が言った。
ひなたは当然のように答えた。
「山岳部だからね」
真二はひなたを見る。
「納得したの?」
「うん!」
「早いな」
ひなたはもう別のものを見ていた。
「町見えてきた!」
奈々は座席で右足を伸ばしている。
その隣では凛が竹刀袋を抱え、美咲と理央は山頂で撮った写真を見ていた。
「あ、これいい」
「待って。私、笑いすぎじゃない?」
「ひなたのせいでしょ」
「理央も笑ってる!」
「笑うよ」
ひなたが飛んでいった。
「見せて!」
真二は笑った。
朝は四人だったのに、途中で凛と奈々が加わって、気づけば六人で写真を撮っていた。
校歌を歌いながら登る奴も、鍋を背負う奴も、犬に引っ張られる奴もいる。隣では幼馴染が籠いっぱいのゴミを集め、凛は山の中で活人剣まで使った。
県立青葉高校、変な奴多いな。
たぶん自分たちも、向こうから見れば似たようなものだ。
「真二、何笑ってんの?」
ひなたが振り返る。
「別に」
「見て! 六人の写真!」
スマホを突き出してくる。
一枚目。
誰もちゃんと撮られていない。
ひなたは奈々を見ている。
奈々はひなたを見ている。
美咲と理央は笑っている。
凛だけ妙にちゃんとしている。
真二は何か言いかけている。
二枚目。
今度は六人とも前を向いていた。
ひなたが真二の肩に、妙にぴったりくっついている。
画面を見ている本人は、そこには何も言わなかった。
「こっち、ちゃんと撮れてる!」
「そうだな」
美咲が写真を見る。
ひなたを見る。
真二を見る。
何か言いかけて、やめた。
奈々が一枚目を指す。
「こっちも送って」
「動いてるやつ?」
「うん」
「私も」
美咲が言う。
理央もうなずく。
「両方でいいんじゃない?」
凛も画面を見る。
「私にも」
「凛も見るんだ?」
「見る」
「見るでしょ普通!」
美咲が笑った。
ひなたがスマホを操作する。
「送った!」
少しして、あちこちで通知音が鳴った。
ゴンドラは新緑の斜面を下っていく。
梢の向こうに町が広がり始めた。
線路も、道路も、家々も。
あのどこかに、それぞれの家がある。
明日になれば、またあの町の中で学校へ行く。
「ひなた、これ一枚目ひどい」
「いいじゃん!」
「私、笑いすぎ!」
「理央も笑ってるよ!」
「だから笑うよ」
「奈々も!」
「笑うよ」
「凛も――」
「私は普通」
「ほんとだ!」
また笑い声が上がった。
真二は窓の外から目を戻した。
五人が、一つのスマホを囲んでいる。
少し詰めれば、そこに自分の場所もある。
真二もまた、そっちへ戻った。




