鋼の愛馬に跨って1「再上陸」
係員の合図とともにクラッチをつなぎ、中野沙弥は慎重にバイクを発進させた。
縞鋼板のランプウェイは湿り気を含んだ海風のせいで濡れており、ハンドル操作を誤れば、愛車を転倒させてしまう危険性がある。3年ぶりにやっと来られた北海道。フェリーからの上陸直後に転倒なんて事態だけは、絶対に避けたかった。
「やっとまた、上陸できた!」
フロントタイヤが港のアスファルトに接地した瞬間、やっと緊張感から解放され、何とも形容のし難い高揚感に沙弥は包まれた。港内の案内表示に従って港を抜けると、道道269号を東に向かって進んでゆく。
時刻は午後2時ちょっと前。上陸1日目の目的地は、美瑛だ。Googleマップのルート検索だと3時間10分あまりの道のり。土地勘のない場所を走るので、もう少し時間はかかるだろう。それでも、夕方までにはなんとかゲストハウスにチェックインできるはずだ。
愛車のホンダ・スーパーフォア1300は、15年落ちのものを知り合いから中古で譲ってもらった。前のオーナーはきめ細やかなメンテナンスを欠かさず、とても大切に扱っていたようだ。しかしながら、仕事が多忙でなかなか乗る機会がなく、泣く泣く手放すことにしたという。ガレージの中に保管されていたため、年式のわりに状態が良く、整備を依頼したショップの店員からは「アタリですね」と言われた。
ネイキッドタイプのスーパーフォアは癖がなく、排気量1300ccの大型車だと思えないほど、扱いやすい。それは、自分のライディングテクニックが上達したのではないか?と沙弥が錯覚するほどだった。
スーパーフォアの前に沙弥が乗っていたのは、アメリカンタイプのヤマハ・ドラッグスター250だ。もともとアメリカンタイプのバイクに乗りたくて、中型自動二輪の免許を取ったので、沙弥が前から憧れていたバイクだった。アメリカンタイプのバイクは、シートの位置が低いので足着きが良く、沙弥のような小柄な女性でも乗りやすい。
一方で、弱点も多かった。まずホイールベースが長いので、急カーブが苦手だ。つづら折りのカーブが続く峠道なんかは、対向車線にはみ出さないように、冷汗をかきながら乗っていた。
また、カーブの曲がり方にも独特のクセがあった。アメリカンタイプのバイクは構造上、緩やかにしか曲がれないのだが、ハンドルを切る角度がある角度を超えると、急に切れ込むように曲がる。このクセのせいで、何度か転倒しそうになった。幸い足着き性が良かったため、なんとか踏ん張って持ち堪えたが、最初に経験した時は驚いた。
また、車高が低いということは、バイクを押して歩く時は、中腰の姿勢にならないといけないということも、オーナーになってみて初めてわかった。かつて沙弥は1度、エンジンがかからなくなったドラッグスターを、30分ほど押し歩きしたことがある。中腰の姿勢で、150kg以上あるバイクを30分以上も押しながら歩くのは、想像以上にキツかった。
その時は故障でも何でもなく、単にキルスイッチ(ハンドルにある緊急時にエンジンを強制停止するためのスイッチ)がONになっていたことに気が付かなかっただけだったので、そのことに気が付くまでの30分ほどで済んだ。もし、あのまま自宅まで押し歩きをしていたら、1時間以上は中腰の姿勢を強いられるところだった。
はじめて買ったバイクだし、思い入れもあったが、次に買う時は一般的なネイキッドタイプにしようと、沙弥は心に決めていたのだった。
※
国道36号、234号どちらにするか迷ったが、片側2車線の国道36号を進むことにした。美瑛までは、富良野経由で約175km。途中で休憩を1度くらい挟んだとしても、午後5時半には到着できるだろう。夕食までに間に合わない可能性があるため、今夜のゲストハウスは素泊まりで予約してある。途中のコンビニで、何か夕食を買っていくつもりだ。
ハイシーズンとあって、観光地・富良野へ続く道は混んでいた。クルマに、観光バス、そして沙弥のようなバイクに乗ったライダーも、たくさん見かけた。観光バスの後ろを走るのは、正直あまり気分が良くない。大きな車体に遮られて、前方の見通しが効かないし、エアコンの排気熱混じりの熱い排気ガスを浴びながら走るのは、不快でしかない。
当たり前のことだが、バイクにはエアコンがない。絶えず外気に晒されながら走るのが、バイクという乗り物だ。冬は寒さに震え、夏は灼熱地獄に苛まれながら移動する。天候や気温の影響をまともに受けるため、ライディングウェアもそれなりに配慮する必要がある。
冬用のウェアはインナー、アウターともに今は防寒性に優れたものが多数ラインナップされているし、使い捨てカイロなんかも併用したら、それなりに寒さはしのぐことができる。ただでさえ、沙弥は冷え症で寒がりなので、冬用の装備には抜かりがない。
一方で、夏の暑さ対策には限界がある。特に、昼間の都内で渋滞にハマった時は最悪だ。容赦なく照らしつけてくる太陽に、周囲のクルマから出るエアコンの排気熱で、頭がクラクラするほど暑くなる。そのうえさらに、乗っているバイクのエンジンの冷却液の水温が上昇してくると、それを冷却するためのファンが回り始める。ガソリンタンクを挟んでいる太ももの間から、熱風が吹き上がってくるのだ。
北海道だから大丈夫だろうと踏んでいたのだが、沙弥の想定が甘かったようだ。近年の北海道の平野部の日中の気温は、関東とそう変わらない。富良野に続くこの国道の混み方は、前に軽井沢へツーリングに行った時に巻き込まれた渋滞を沙弥に思い出させた。
※
「到着が遅れているようでしたので心配してたんだけど、無事に着いて良かったよ」
出迎えに来てくれた、人の良さそうな宿のオーナーが、ヘルメットを脱いだ沙弥にそう声をかけてきた。
結局、美瑛のゲストハウスに着いたのは午後7時を回った頃だった。富良野に入った辺りから渋滞が酷くなり、ストレスフルなノロノロ運転が続いた。富良野で休憩して観光をしようという気も起こらず、混雑した道の駅でトイレだけ済ませると、すぐにまた沙弥はスーパーフォアを出発させた。
「富良野に入った辺りで渋滞につかまっちゃいまして。すごい混雑ですね。ハイシーズン、舐めてました」
いわゆるすり抜け運転もできないことはないのだが、富良野は一大観光地。当然、警察も目を光らせているので、思わぬところに潜んでいた白バイに違反切符を切られてしまうリスクも高い。
旅先で違反切符を切られるなんて、テンションだだ下がりもいいところだ。交通事故と違反切符だけは絶対に避けたい。そこで大人しくクルマの流れに沿って運転してきたら、ゲストハウスへの到着がこんな時間になってしまったというわけだ。
受付でチェックインを済ませると、案内された2階の部屋に向かった。沙弥の今回の北海道滞在は5日間。有給休暇は8日間で申請したのだが、フェリーでの移動に前後1日ずつ取られるので、北海道にいられるのは5日間が限界だった。
「シャワールーム、お借りしても大丈夫ですか?」
「ああ、今は誰も使ってないから大丈夫。更衣室の前の札を『使用中』にして、施錠するのを忘れないでね」
オーナーは館内のシャワールームの場所を沙弥に指し示すと、フロントの方に戻っていった。
※
シャワーを浴びてサッパリすると、沙弥は談話室に向かった。このゲストハウスは、男女別・相部屋だ。今日は、女性客は沙弥だけとのことだったので、女部屋は貸し切り状態だった。一方で男部屋からは話し声が聞こえてきたので、誰か宿泊しているのだろう。
談話室には自販機があったはずだ。沙弥は結局、夕食を買い損ねてしまったので、何か食べ物を売っている自販機がないか、見に行くことにした。
談話室を覗くと、30代くらいの男性と、小学生くらいの男の子がテーブルの上にガイドブックを広げながら話をしていた。
「お邪魔しまーす。あ、良かった!カップ麺の自販機がある!」
男性と男の子が、沙弥に向かって会釈をするのが見えた。
「夕食ですか?」
男性の方が話しかけてきた。日焼けした肌に引き締まった体躯は、アスリートのようにも見えた。
「ええ、そうなんです。富良野で渋滞にハマっていたら、夕食を買い損ねちゃって」
「カップ麵だけじゃなんでしょうから、良かったらマフィン、召し上がりませんか?お昼に買ったものが、1つ残っているんです。季節柄、明日までは持たないだろうし」
「いいんですか?カップ麵だけじゃ足らないなーと思ってところだったんで、嬉しいです」
「部屋に置いてあるので、今お持ちしますね」
男性はそう言うと、いったん談話室から出て行った。談話室には沙弥と男の子だけが残された。
「パパと2人旅?」
「いえ、あの人は僕の叔父さんです」
「そうなんだ。叔父さんと、仲いいんだね」
給湯器からカップ麵にお湯を注ぎながら、沙弥が男の子に話しかけると、男の子は先ほどの男性との関係を教えてくれた。
「お待たせしました。こちらです。途中の道の駅で買ったんですが、3個入りだったんですけど、私もこの子も1個食べたらもう充分!となってしまいまして」
そこまで話したところで男性は、あっ!と慌てたような感じで
「いや、美味しくなかったというわけじゃないんですよ!ただ、私もこの子も、甘いものがあまり得意ではなくて…」
と付け加えた。
「あはは!大丈夫ですよ。あたしは、甘いものは別腹なんで大歓迎です」
「カップ麵、伸びちゃいますよ」
男の子が心配そうに声をかけてきた。
「ああ、そうそう!じゃ、失礼していただきまーす」
普段、沙弥がカップ麺を食べることは滅多にないが、今日はさすがに空腹だったので、とても美味しく感じた。あっという間にカップ麵を完食すると、続けてマフィンに取り掛かる。
「あ、美味しいです!ありがとうございます」
「食べてもらえて良かったです」
空腹が落ち着いたところで、ビールの自販機が沙弥の目に入った
「お返しと言ってはなんですが、ビール、いかがですか?」
「ああ、すみません。私は飲めないもので、気にせず召し上がってください」
「じゃ、失礼して」
ガタンという音を立てて自販機からビールが出てくる。沙弥は、それを手に取ると、開銓して口に運んだ。我ながら、かつての自分だったら考えられないほど大胆だなと、沙弥は思った。
「本当は食べる前に飲みたかったんですけど、そうすると酔っちゃうから、食後まで我慢してましたー。ひゃあ、美味しい!」
「北海道ではサッポロ・クラシック、当たり前に売ってますもんね」
飲めないと言っていた男性も、サッポロ・クラシックが本州ではなかなかお目にかかれないビールだということは知っていたようだ。
沙弥はビール党だ。職場のデスクの上にも、未開封のビールのロング缶が置いてある。もちろん観賞用で、職場で飲むつもりはない。
「残業で疲れた時、これを見て『終わったらビールだ!』と思うと、元気が湧いてくるんです」
そう言って、上司には黙認してもらっている。今ではすっかり、職場でも酒好きのビール党として、名が通ってしまった。これも以前の沙弥だったら、考えられないことだ。
女性のソロツーリングなので、酔い過ぎないように注意は必要だが、今回の北海道ツーリング中は、翌日の運転に差し障りのない範囲で楽しむつもりだった。
「バイクですよね?明日は、どちらへ向かわれるんですか?」
ガイドブックを閉じながら、男性が話しかけてきた。
「明日はクッチャロ湖を目指します。そこで1泊して明後日、宗谷岬に行くつもりです」
「いいですね。かなりの走行距離になりますが、どうぞお気をつけて。私らは明日は札幌でラーメンを食べて、苫小牧から夜のフェリーに乗って東京に戻ります」
「バイクなんですか?」
「ええ、この子とタンデム(2人乗り)ツーリングでした」
そう言えば、宿の前にもう1台、バイクが停まっていた気がする。
「では、私たちはそろそろ部屋に戻って休むことにします。おやすみなさい」
「あ、こちらこそマフィン、ごちそうさまでした。おやすみなさい」
沙弥も残った缶ビールを流し込むと、部屋に戻って休むことにした。明日の走行予定距離は、210kmほど。内陸を通る国道40号線を走り、おおよそ4時間弱でクッチャロ湖に到着する予定だ。
海沿いを走る国道238号線を通るルートも魅力的だったが、距離にしてプラス約30km、到着まで4時間超のロングライディングになるので、断念した。まだ上陸して2日目だ。無理は禁物。スケジュールに追われるような走りはしたくない。
ツーリングマップル北海道で明日のゲストハウスの場所を確認すると、広い相部屋に1人きりだった沙弥は、部屋の照明を落とした。




