第2章:トラブル
いつものように授業が始まり、クラスのみんなは先生の話に集中している。ただ一人、タクミだけは頬杖をつき、静かに窓の外の緑を眺めていた。
教室の最後列、窓際の席に座っているため、つい空を見上げてしまうのだ。
「おい松本、ちゃんと話を聞いているのか?」
予期せぬ先生の問いかけに、タクミは肩をびくりとさせ、慌てた。
タクミはすぐに立ち上がる。
「……あ、はい……少しは聞いてます」
「なら、今話していたところを答えてみろ」
「……えっと……はい」
タクミは呆然とした表情で答える。かなり焦っており、熱を持った顔にじわりと汗が滲んでいた。
窮地に陥ったその時、タクミは足に痛みを感じた。
ちらりと視線を落とすと、雪乃が彼を蹴っているのが見えた。
痛みはあったが、そんなことを気にする余裕はない。
よく見ると、彼女は手で机の上の何かを指さしている。
(紙切れ?)
(いや……)
(答えだ)
タクミは小さく瞬きをした。
彼女はどんなことにも真面目な人間だと思っていた。
特に勉強に関しては。
授業中にこっそり答えを教えるようなタイプではないはずだ。
だからこそ、目の前の光景に少し驚いた。
しかし、窮地に追い込まれた今、他に選択肢はない。
おそらくこれが、このピンチを切り抜ける最善の策なのだろう。
顔を上げ、タクミは先生の方を見た。
「えっと……答えは光です!」
「正解だ、よくやった!」
答え終えると、彼はほっとして椅子に腰を下ろした。
"~~~"
大きく息を吐き、ようやく落ち着きを取り戻す。
(よかった……白川が助けてくれたんだ)
彼はすぐに彼女の方を向いた。
口元を小さく動かす。
しばらくもじもじとした後。
「……白川……ありがとう」
最後には、ちゃんと礼を言わなければならない。
「……別に。どういたしまして」
そう言うと、雪乃は顔を伏せ、再び問題に取り組むことに集中した。
タクミは数秒間、彼女を見つめる。
(……白川……?)
なぜか、彼女の耳はタクミにすら容易に分かるほど真っ赤になっていた。
教室が暑いからかもしれない。
あるいは、見間違いかもしれない。
いくら考えても、タクミには確かなことは分からなかった。
そこで彼は、再び黒板へと視線を戻した。
*************
昼時の空気は活気に満ちていて、どこからか生徒たちの談笑する声が聞こえてくる。
タクミだけは、一人で食事をとっていた。彼は静かに、あらかじめ用意しておいた弁当箱を開く。
中には見慣れたおかずが、いくつか整然と詰められている。
タクミが最初の一切れを箸でつまみ上げたその時、声がかかった。
「よう、松本」
一人の男子生徒が現れ、タクミのすぐ隣に弁当箱を置いた。
彼の名は徳川凛。タクミの数少ない親しい友人だ。
「ここ、座ってもいいか?」
「……ああ」
凛は、まるで当然のことのようにタクミの隣の椅子を引いた。
タクミも、なぜ座るのかなどと聞こうとはしなかった。
どうせ年度初めからずっと、自分とまともに会話をするのはこいつぐらいなのだから。
凛はタクミの弁当を覗き込んだ。
「お前の弁当、美味そうなもん入ってんな」
「普通だよ」
「お前の基準は高すぎるんだよ」
「で、何か用か?」
凛の何気ない雑談だが、タクミはすぐに不穏な気配を察した。
「お前、察しがいいな。参ったよ」
「で、何だよ?」
凛は軽くタクミに視線を投げてから、また元の様子に戻った。
「いや、さっき白川に勉強を教えてもらってただろ。あいつと知り合いなのか?」
タクミは箸を止めた。
その名前が出た瞬間、昨日の光景が頭をよぎる。
確かに、雨の中を彼女と一緒に歩いたのは事実だ。
だが、知り合いかと聞かれると、答えに窮する。
「……は? 見てたのか?」
「当たり前だろ。普段、白川は学業に対してかなり厳しいからな。人に教えるなんてこと、滅多にしないんだよ」
「たまたまだろ、多分」
タクミはこんな込み入った質問にどう答えていいかわからず、適当に流した。
「本当かよ?」
そう言うと、凛は眉をひそめてこちらを見た。
「俺が知る限り、年度初めから白川が誰かに便宜を図ってるなんて見たことないぜ」
タクミは言葉に詰まった。
雪乃が単に自分を助けてくれただけだと思っていたのに、まさかそんな風に注目されていたとは。
というのも、凛が言っていることが真実なのかどうか、自分にはわからないからだ。
自分は雪乃に興味があるわけでもなく、ただ彼女を「認識」しているという程度に過ぎない。
だが、もし凛の言葉が本当なら……
昨日の彼女の行動は、余計に不可解だ。
だが、凛にどう切り返せばいいかもわからず、適当に返事をするしかなかった。
「……そうなのか?」
「決まってるだろ」
凛の口調が急に早くなった。
何か急ぎの用事でもあるのか、それとも単にせっかちなだけなのか。
「よく知らないな」
「まったく、お前には敵わないな」
友人の反応に諦めがついたのか、凛は自分の弁当に視線を戻した。
これ以上聞いても無駄だと判断したのか、やけに早いペースで食事を済ませると、彼はその場を去っていった。
*************
放課後、いつものように先生が掃除当番を割り振る時間になった。今日も今日とて代わり映えはなく、先生は教卓から生徒の名前が書かれたくじが入った箱を取り出す。
それを見て、クラスの全員が「罰ゲーム」を避けるべく、祈るような手つきで幸運を願う。
だが、拓海だけは違った。
彼はただ、ぼんやりと窓の外を眺めている。
自分が呼ばれるかどうかを、ただ淡々と待っているだけだ。
「ほら、みんな、そんなに暗い顔をするな」
「好きなゲームもできないのに、楽しめるわけないだろ!」
先生の励ましに、この退屈な状況に耐えかねた一人の男子生徒が本音を漏らした。
「まあいい、時間を食うのもなんだ。引くぞ」
「まずは……」
「白川!」
その名前が呼ばれた瞬間、文句を言っていた声が消えた。
代わりに、男子たちの間で一気に議論が沸き起こる。
クラスのどんよりとした空気は一変し、パッと明るくなった。
「マジかよ、白川じゃん」
「俺が掃除当番やりてぇ!」
「いや、俺だろ!!」
さっきまでげんなりしていた男子連中が、一気に息を吹き返す。
拓海はその光景を目にしても、再び窓の外へ視線を戻した。
相変わらず、雪乃の人気は凄まじいな。
「静かにしろ!」
騒がしい男子たちに耐えかねたのか、先生が声を荒らげる。
「じゃあ次を引くぞ」
今度は男子全員が、さっきとは違って「逃れるため」ではなく「当たるため」に、再び祈り始める。
彼らの口元は、揃いも揃って期待で緩んでいた。
「松本!」
ふいに、その名が響き渡る。
男子たちは呆然とし、しばしの静寂が流れた……。
「……は……!?」
「なんで松本なんだよ!!」
「白川と掃除するのは俺だろが!!」
男子たちが状況を飲み込めないまま騒ぎ立て、全員が羨望と不満に満ちた目で拓海を睨みつける。
拓海はゆっくりと教卓の方へ顔を向けた。
自分の名前が呼ばれたことに気づくのに、数秒かかった。
「……え?」
正直なところ、なぜ男子たちがこれほどまでに騒いでいるのか、彼にはさっぱり理解できなかった。
ただの掃除当番だろ。
掃き掃除をして、黒板を消して、ゴミを捨てるだけ。
拓海にとっては、わざわざ取り合うような仕事ですらない。
だが、自分に向けられた不満げな視線を見て、何かがおかしいことだけは察した。
「お前、最高だな、松本」
一人の友人が後ろを向いて拓海に話しかけてきた。
単に祝ってくれているだけなのだろう。敵意はなく、むしろニヤニヤと笑みを浮かべている。
「……え? 何が?」
拓海は呆れたように溜息をつき、そんなことで騒ぐなと言わんばかりに冷めた言葉を返した。
当番決めなんて当たり前のことだし、驚いたり騒いだりするようなことじゃない。なのに、普段は周囲と関わりを持たない根暗な松本拓海が、クラスで一番の完璧美少女・白川雪乃と当番で一緒になったというだけで、誰もが囃し立てていた。
キーンコーンカーンコーン!
放課後のチャイムが鳴り響き、皆、急いで荷物をまとめて帰路に就こうとしている。
特に男子生徒たちは、拓海を今にも「食い殺しそうな」鋭い視線で睨みつけていた。
「頑張れよ松本、お前の学園生活、これからが正念場だな」
リンが拓海に同情するような口調で声をかけてきた。
「……はぁ? 勘弁してくれよ」
騒がしかった教室も、ようやく静かさを取り戻し、他の生徒たちはもう帰ってしまった。
残ったのは拓海と雪乃だけ。
言いようのない空気が教室全体を包み込む。
拓海は渋々立ち上がり、箒を手に取って掃除に取り掛かった。
教卓の方では、雪乃が黙々と黒板を消している。
一見すると、彼女はいつも通り冷静に見える。
拓海と当番が一緒になったことなど、何の影響も受けていないようだ。
ヒュウ、ヒュウ。
窓からそよ風が吹き抜けていく。
その瞬間、雪乃のスカートがふわりとめくれ、下着が露わになった。ゴミ箱を取りに行こうと顔を上げた拓海の視線が、そのまま雪乃の姿を捉えてしまう。
その場の空気が凍りついたかのようだった。
二人とも息を殺し、音も立てずに固まっている。
拓海はそんな光景を目の当たりにして、目を見開いた。
身体がわずかに震える。手にしていた箒がカランと乾いた音を立てて床に落ちた。
「……ごめん!」
絞り出すような小さな声だった。
拓海自身、どこに目を向ければいいのかさえ分からなくなっている。
手で顔を覆うと、身体が熱を帯び、顔が一気に真っ赤に染まった。
普段は冷めていて誰にも関心がないはずの拓海が、これほど取り乱すとは。
雪乃はすぐさまスカートを押さえた。
彼女の顔もまた、数秒の間で真っ赤に染まった。
「……バカ」
迷うことなく、雪乃は手にした黒板消しを、呆然と立ち尽くす拓海に向かって投げつけた。
顔を赤らめたまま、彼女は足早に教室から走り去る。
拓海は教室の真ん中で立ち尽くし、四方の壁には自分一人だけが取り残された。
わずかに揺れる扉の先を目で追いながら、彼は呆れて首を振った。
あまりに突然の出来事で、頭の処理が追いつかない。
「……俺、終わったな」
今や、教室には自分しかいない。
おずおずと手を伸ばし、床に落ちた箒を拾い上げた。
掃除に集中しようとしても、心ここにあらずといった様子だ。
先ほどの光景が、浮かんでは消えていく。
たとえそれが、事故だったとしても。
でも、雪乃は絶対にそうは思わないだろう。
「……きっと、嫌われちゃったな」
拓海は独り言をこぼし、その瞳には少し影が差していた。
その頃、雪乃は家まで駆け抜けていたが、歩くたびにさっきの出来事が頭から離れない。
「ダメ……忘れなきゃ……」
帰宅するなり、雪乃は一直線に自分の部屋へ駆け込んだ。
リビングにいた母親は、ただ娘の後ろ姿を目で追うことしかできなかった。
その表情には、明らかな驚きが浮かんでいる。
「あの子、今日はいったいどうしたのかしら……?」
カチャリ。
ドアが閉まる音がした。
雪乃はベッドに深く腰を下ろした。
両手でしっかりと枕を抱きしめる。
教室での光景を思い出すだけで、顔が熱くなる。
「最悪、なんで松本君相手にあんな恥ずかしいことになっちゃうのよ」
「タオルまで投げつけちゃったし」
「私みたいな女のこと、嫌いになっちゃったかな」
彼女は自分を責めるように呟いた。
言い終えると、そのまま枕に顔を埋める。
明日また学校で拓海に会うことを考えると、いっそこの世界から消えてしまいたかった。




