第1章:出会い
放課後の午後。今日は珍しく激しい雨が降り注いでいて、周囲の空気はひどく冷え切っていた。
教室で、松本拓海は帰宅の準備をしようと、散らかった荷物を片付けていた。この気分の悪い天気の中を帰るために。
拓海はただ、さっさと帰って自分の時間を楽しみたいだけだった。
鞄を肩にかけると、音もなく教室を出る。
最後の授業で居眠りをしたせいで黒髪が少し乱れているが、直す気にもなれず、そのまま校庭へと足を進めた。
拓海は雨の中をゆっくりと歩きながら、傘を少し前に傾けて、頭上に降る雨を避けた。
校庭では、帰宅を急ぐ生徒たちの足音がまだ響いていたが、そんなことは拓海の知ったことではない。
喧騒の只中で、誰のことも気に留めず、拓海はただ一人、人混みの中で浮いていた。
いつもそうだった。
放課後は真っ直ぐ家に帰り、誰とつるむこともない。普段は景色や雲、空を眺めて心を落ち着かせるのが日課で、それ以外のことは、最初から存在しなかったかのように素通りしてきた。
だが今日に限って、いつもは立ち止まることのない拓海の足が、少しだけ鈍った。
降りしきる雨の中、なぜか視界の端に、校舎の軒下でじっとしている人影が映った。彼女は一人、ぽつんと座り込んでいる。
その少女は体を小さく丸め、どこか憂いを帯びた瞳で雨を見つめていた。
「あれは……?」
「……白川?」
拓海は目を細める。
クラスメイトの、白川雪乃だった。
距離はあったが、すぐに分かった。
なんせ彼女は、クラスの中で欠かせない存在なのだから。
成績優秀で、容姿端麗、誰に対しても優しい。
彼女は、いつも会話の中心にいるような人間だ。
休み時間になると、雪乃の周りにはいつも友人が集まっている。どこにいたって、彼女が現れれば、その場の空気はパッと華やぐ。
正直なところ、拓海はそんなことには興味がなかった。
席は近いものの、二人が言葉を交わした回数は皆無に近い。
時には、住んでいる世界が全く違うのだとさえ感じていた。
周囲から愛され、大切にされる人間。
いつも冷めていて、ただ静かに学生生活を平穏に過ごしたいだけの人間。
だから、拓海は彼女と親しくなることなど想像もしていなかった。
しかし、今……。
いつも教室で目立つはずの彼女が、たった一人で雨宿りをしている光景は、どうにも違和感があった。
周りには誰もいない。
騒がしい声も聞こえない。
雪乃はただ静かに座り、校庭に降り注ぐ雨粒を見つめていた。
そのあまりの孤独な姿に、あれが本当に雪乃なのかと疑ってしまうほどだ。
拓海は他人の事に首を突っ込むようなタイプじゃない。
もしそこに座っていたのが知らない誰かだったら、とっくに通り過ぎていただろう。
結局のところ、人にはそれぞれの人生があるのだから。
それに、雪乃に声をかけるほど親しいわけでもない。
それなのに、なぜか彼女の姿が頭から離れない。
拓海自身、その理由が分からなかった。
気にしないようにして、そのまま足を進める。
少し歩いたところで。
それでも……。
拓海は立ち止まった。
視線が、再び一人で座る雪乃の方へと向いてしまう。
チラ見しただけではない。雪乃の姿に、釘付けになっていた。
「……チッ」
仕方ないな、と小さく舌打ちをする。
ゆっくりと、小さな歩幅で彼女のいる場所へ歩み寄った。
「なあ、傘、忘れたのか?」
低い、温もりのある声がふいに響いた。
その声に棘はなく、不思議なほど穏やかだった。
自分に向けられた声に、雪乃は顔を上げる。
拓海の目には、どこか沈んだ様子の彼女の表情が飛び込んできた。
いつも完璧に整えられていたはずの金髪が、雨に濡れて少しだけ乱れている。
青い瞳は少し曇っていたが、それでも透き通るような美しさがあった。
雨に濡れた白い肌は、かえって瑞々しさを放っている。
どんなに困り果てた状況だろうと、雪乃が美少女であることに変わりはなかった。
彼女は目を見開いて拓海を見つめている。
雪乃は拓海のことを認識していた。
同じクラスということもあって、それほど警戒心はないようだった。
「……うん、忘れちゃった」
雪乃は淡々と言った。
「……じゃあ、一緒に帰るか?」
拓海はしばらく逡巡した末、そう提案した。
コミュニケーションが下手なせいか、随分とぶっきらぼうな言い方になってしまった。
言った直後、少し急すぎたかもしれないと自覚する。
別に悪いことではないはずだ。
だが、今まで誰かを誘って帰ったことなど一度もない。ましてや相手は女子生徒だ。
「……え?」
「その……いいか?」
「別に構わんよ。それに、お前、帰る手段もないだろ?」
ここまで来たら後には引けないと、拓海は腹を括った。
「……うん……」
「じゃあ……お願いしてもいい?」
「ああ、いいぞ」
雪乃は小さく立ち上がった。
長く座りすぎていたせいか、彼女の足は少ししびれていた。
それを見て、拓海は脇へ退き、傘の下の場所を空けた。
「……行こう」
「.…うん」
その時、雨はさっきよりも激しさを増しており、雨粒は重く、空気は一段と冷え込んでいた。
帰路の途中、傘の中はそれほど狭いわけではないはずなのに、二人で入るとやけに窮屈に感じられた。
しばらく歩いて、拓海は雪乃の顔になにか違和感を覚えた。今に限ったことではなく、歩き出した時からずっと気になっていたのだ。
彼女は怒っているわけでも渋面を作っているわけでもなく、何かを隠しているような表情をしていた。
そう思い、拓海は好奇心から彼女に尋ねてみようとした。
「あのさ……」
「……どうして、助けてくれたの?」
突然、雪乃が拓海に問いかけてきた。
彼女は少しうつむき加減で、声も心なしか小さくなっている。
どうやら、それが拓海の抱いていた疑問への答えでもあるようだった。
「……なんでだろうな」
拓海はしばらく黙って考え込んだ。
「俺にも、なんでそうしたのかよく分からないんだ」
拓海は正直に答えた。
その瞬間、彼女の表情がわずかに和らぎ、目が見開かれて、口元がかすかに弧を描いた。
「そうなんだ」
そして今、雪乃と同様に、拓海にも彼女に聞きたいことがたくさんあった。
そんな思考の数々が、拓海の頭の中で絶えず渦巻いている。
なぜ彼女はあんなふうに一人で座っていたのか?
なぜ彼女は友達と一緒にいなかったのか?
なぜ彼女は友達と帰らなかったのか?
それなのに、どうして最後には一人でいることを選んだのか?
だが、拓海の性格上、根掘り葉掘り聞くような人間ではなかった。
何か理由があって、あるいは不運な出来事やトラブルがあって、彼女がそうなってしまったのだと理解していたからだ。
「ここまで来たけど、どっちに行けばいい?」
目の前には、それぞれ別の道へ続く二つの路地が分かれていた。
拓海は雪乃の家を知らないため、とりあえず尋ねるしかなかった。
「右に行って」
「分かった」
そうして、二人は雪乃の家を目指して歩き続けた。
「ねぇ……一つ聞いてもいい?」
沈黙を破るために、雪乃は静かに拓海に問いかけた。
「……ああ、まあいいよ」
「……じゃあ聞くけど、どうしてあなたは教室でいつも黙っているの?」
その質問を聞いた瞬間、拓海は突然歩みを止め、何も言わずに立ち尽くした。
それを見て、雪乃も同じように足を止める。
彼女の視線が彼の顔に向けられた。
拓海の体から、じわりと細かな汗がにじみ出ている。
「ねえ……」
雪乃は何かあったのかを確認するために声をかけた。
それと同時に、拓海がビクッと体を震わせる。
その表情には強い動揺が見て取れた。まるで今、現実に戻ってきたかのように。
「大丈夫……?」
問いかけを受けて、拓海の目が雪乃に向けられた。
「……大丈夫だよ」
「あまり心配しないでくれ」
「それにしても……なんで急に立ち止まったの?」
「……別に、ただの癖だよ」
雪乃は小首をかしげ、心の中で「本当に?」と言いたげな様子だった。
しかし、それ以上問い詰めるのはやめておこうと思ったらしい。
「……歩こうか」
「……ああ、そうだな」
そう言ってから、拓海は雪乃を家まで送る途中だったことを思い出した。
最後までの道のりは、二人だけの静かな空間だった。
会話はなく、ただひたすらに歩くことに集中していた。
「ここで大丈夫だよ。ありがとう、松本くん」
ようやく、拓海は雪乃を家まで送り届けた。
「俺の苗字、覚えててくれたんだな」
自分の苗字を呼ばれたことに、拓海は少し驚いた。
拓海自身、自分はクラスにいる幽霊のような存在で、誰にも覚えられていないと思っていたからだ。
(え、どうして名前を知らないと思ったんだろう?)——雪乃は不思議そうに心の中で思った。
「まあね……クラスのみんなの名前は、ちゃんと覚えてるから」
彼女は、どう答えればいいか分からず、引きつった笑顔で返した。
「うん、それじゃあ、また」
「じゃあね、また明日」
別れを告げた後も、雪乃はすぐには家に入らず、その場に立ち尽くしていた。
彼女は拓海の背中を見つめている。
ずっと、彼は冷たくて近寄りがたいタイプの人だと思っていた。
けれど、今日は違った。
少なくとも、彼は自分を助けてくれたのだから。
一方、拓海の方では。
彼はゆっくりと顔を上げ、目の前の雨空を見上げた。
雨はだいぶ小降りになっていたが、帰るにはまだ傘が必要な状態だ。
(また、か……)——拓海は心の中で呟いた。
それはただの、ありふれた別れの挨拶だった。
けれど、これまで誰からもそんな言葉をかけられたことはなかった。
幼い頃から、ずっと。
だからこそ、その言葉がいつまでも胸の奥でざわついていた。
彼は傘から腕を出し、降り注ぐ雨粒を手のひらで受け止めた。
「君が言ったのって……またね、だよね?」




