第六話 王宮の枷と、解き放たれた新芽
約10年間、ベイスの町を拠点に、冒険者としてめざましい実績を積み重ねていたノランと、その相棒である金の魔犬ブラン。
活気に満ちあふれた冒険者ギルドにて、その日はいつも通りの賑やかな日常が繰り広げられていた。
「おいおい、ノランがまた一仕事終えて戻ってきたぞ!」
ざわめくギルド内の中央を通って、ノランとブランが受付カウンターへと歩み寄る。ノランは肩に担いでいた身の丈以上もある巨大な革袋を、ドサリとした音を立てつつ、軽々とカウンターの上に載せた。中から顔を覗かせたのは、ベテラン冒険者パーティでも苦戦する巨大な魔獣の討伐証明部位であった。
周囲の冒険者たちから「相変わらずすげぇな、あのデカ物を一人で……」「相棒の犬も大活躍だったらしいぜ」と感嘆の声が漏れる。
「ノランさん、ブランちゃん、今回もお見事な手際でした! こちらが報酬と討伐証明の受領書になります」
受付嬢が目を輝かせながら和やかに手続きを進めると、ノランの傍らで黄金の毛並みを誇るブランが、誇らしげにフンフンッと鼻を鳴らした。
その穏やかな時間を破るように、ギルド奥の重厚な扉が激しく響いて開いた。
「ノ、ノラン! ノランはいるかーっ!?」
息を荒らしてバタバタと駆け込んできたのは、大層慌てた様子の上級職員だった。その手には、まるで神聖な宝物でも扱うかのように、豪華な装飾の施された羊皮紙の書簡が大事そうに抱えられている。
「なんだなんだ?」「何か緊急の討伐依頼か?」と周囲が騒然とする中、職員は一直線にノランのもとへ走り寄ると、汗を拭いながら告げた。
「ノラン、ギルドマスターがお呼びだ! すぐに奥の部屋へ来てくれ、大変なことになった……!」
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案内されたギルドマスターの執務室。重厚な黒檀のデスクを前に、ノランとブラン、そしてギルドマスターが向き合っていた。
ギルドマスターが慎重な手つきで開いた書簡には、豪奢な金箔の刺繍と、グランセリア皇国・王家直轄の重厚な紋章がはっきりと刻まれていた。
「……『第三王女殿下の、特別魔道家庭教師』……?」
書簡の文面を二度見したノランは、思わず眉をひそめた。
「間違いなく、王家からの直々の特命召集令状だ」とギルドマスターは深く頷く。
「ノラン、お前は我がギルドが誇る、高位ランクの冒険者だ、だが、貴族社会においてはただの平民という扱い。なぜ王宮が直々にお前を指名してきたのかはわからんが……」
「ギルドマスター、僕のような一冒険者が王女殿下の家庭教師など、あまりに不釣り合いです。辞退することはできませんか?」
ノランの戸惑いに、ギルドマスターは苦笑いを浮かべながら頭を振った。
「気持ちはわかるがね、ノラン。王家からの直々の命を特別な理由もなくで断れば、王宮との関係に深刻な角が立つ。それに……お前がこの大任を果たせば、このペイスの町や我が冒険者ギルドの評価と立場も格段に跳ね上がるのだよ」
ギルドマスターから強く背中を押され、ノランは腕を組んで深く考え込んだ。
(……断る正当な理由もない。それに、変に拒んで町やギルドに無用な波風を立てるのも良くないな)
「クゥン」
『行くの、ノラン?』
傍らのブランが、周りに悟られないよう犬の言葉で尋ねる。
「……そうだね、受諾しよう。どんな事情があるにせよ、引き受けたからには全力で努めるよ」
「おぉ!助かる!!…任期は2年だそうだ!悪いが、そのあいだ気張ってくれ!返事はこちらで出しておこう」
ギルドマスターはノランの呟きを聞き逃さず、すかさず受諾の文書を書き始めた。
その勢いには気後れしたが、ノランは改めて受諾の意を固めると、王都へ向かう前の挨拶と報告を兼ねて、山の上の師匠の館へと足を運んだのだった。
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「王宮からの特命、ね」
黒檀の机に肘をつき、温かい紅茶の湯気の向こうから魔女モルガナが静かな瞳を向けた。
「古い価値観と権力の坩堝、息が詰まる場所でしょうけれど…… 若き才能に、真の魔法の風を吹き込んできてあげなさい。」
「はい、師匠。」
真剣な表情でノランが頷いたのをみると、魔女はおもむろに紅茶のカップを持ち上げ、揺らしながら微笑した。
「宮廷魔道士どもなんて、気に入らなければ踏み潰しちゃっていいのよ?」
ノランは、始めて見る師匠の棘を纏った微笑みにだじろぎながら、出発の言葉を告げた。
モルガナはかつて、養家アイゼンハルト家に籍を置きながら、大魔法使いとして活躍していた。その際、アイゼンハルトを妬む宮廷魔道士たちから、執拗な妨害を受けていた。
それ故、己の課した修行によって、ずば抜けた才覚を持つ魔法使いになった弟子にも、宮廷魔道士たちからの洗礼があることをみこした、モルガナなりに放った激励の言葉であった。
師匠の言葉を胸に、ノランはブランを伴って王都へと旅立ったのだった。
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グランセリア王宮。その一角にある絢爛豪華な庭園に、ノランたちは案内されていた。
花々の香りが漂う広場の真ん中で、ポツリと一人、羊皮紙の束を抱えて佇む少女がいた。燃えるような赤髪をきっちりと結い上げ、幼いながらも気品と、どこか刺々しい緊張感を身に纏った8歳の少女――第三王女エレアノーリエである。
側妃の子として生まれた彼女は、王宮の中で常に孤独だった。
自分が王族として認められ、民や父王の役に立つには、持ち前の魔法の才能を示すしかない。そう信じて血の滲むような努力を重ねてきた。
しかし、彼女を囲む宮廷魔道士たちがそれを阻む。エレアノーリエが考案する独自の術式を「不遜な邪道」と蔑み、代わりに過剰な魔力と長々しい詠唱を要する古い伝統術式を強要したのだ。当然、少女の幼い魔力回路では負荷が大きすぎて不発に終わり、その度に彼女は「出来損ない」と嘲笑されていた。
(わたくしは…… 出来損ないなんかじゃない……! お父様ために、役に立ってみせるのに……!)
孤独と焦燥に押し潰されそうになっていたエレアノーリエのもとへ、ノランが歩み寄る。
「初めまして、エレアノーリエ王女殿下。本日より貴女様の魔道家庭教師として着任いたしました、ノランと申します」
ノランは膝をつき、胸に手を当てて礼を尽くした。
だが、エレアノーリエはノランの旅装と、背後に控えるブランを一瞥すると、その大きな瞳に激しい憤怒と悲しみを宿らせて叫んだ。
「わたくしはグランセリア王国第三王女、エレアノーリエ=グランセリアですわ! 頭を高く上げすぎではありませんこと!?」
「…… 失礼いたしました」
「……平民の……冒険者……!? ふざけないでくださる!? 宮廷魔道士たちがわたくしを教えきれないからといって、平民の教師を宛がうなんて……! わたくしの価値がそんなに低いとでも仰りたいの!? お父様までわたくしをお見捨てになったというのですか……!」
小さな肩を震わせ、今にも涙が零れ落ちそうなのを必死に堪えながら睨みつけてくる。
実際には、彼女の才能が旧弊な宮廷魔道士たちによって損なわれるを危惧した父王が、家柄のしがらみもなく、巷で最高峰の魔法使いであると噂される、上位冒険者・ノランを大抜擢したのが真実であった。しかし、歪んだ環境に置かれていたエレアノーリエは、「自分は見捨てられたのだ」と残酷な誤解をしていたのだ。
ノランは怒鳴られても全く動じず、ただ静かに彼女が胸に抱えていた羊皮紙の束に視線を落とした。
「……王女殿下。そちらを少し拝見してもよろしいでしょうか」
「な、なんですの急に! 渡しませんわ!」
「構いません、見えていますから」
ノランの目が、羊皮紙の上を走る。そこにびっしりと書き込まれていたのは、宮廷の古い伝統術式を極限まで効率化しようと試みた、緻密で美しい術式展開図だった。
「…… 素晴らしい」
ノランの口から、素直な感嘆が漏れた。
「この短縮構文、実に見事です。魔力の回路を最小限に抑え、余計な抵抗を一切生まさせない。……、この洗練された魔道理論はどちらで修められたのですか?」
「え……?」
エレアノーリエは弾かれたように顔を上げた。
「これは…わた、わたくしが考えたまほうで…」
王女は、消え入りそうな声で正直に告げた。これまでは「自分で考えた」などと口にすれば、宮廷魔道士からの叱責が飛んできた。しかし、ノランは全く違う反応をみせた。
「ご自身で…?!そんな、とても考えられませんが、なるほど…殿下は凄まじい才能をお持ちでいらっしゃるのですね」
王女の魔法理論を真っ直ぐに称え、感嘆の声を漏らした。その後に「これは、いつか師匠に並ぶのでは…?」などとブツブツ呟いていたが、そんなことはエレアノーリエの耳には届かなかった。
生まれて初めて、自分の努力と魔法を真っ向から肯定された。エレアノーリエの瞳に呆然とした色が浮かぶ。
「いま、わたくしのまほうを褒めましたの…?」
エレアノーリエが震える声で訪ねると、ノランはキョトンとしながらも、「もちろんです!」とはつらつとした声で答えた。
王女は感激と驚愕で固まり、握りしめていた束を落としてしまった。慌てて拾ったノランは、別の用紙にも、その次にもすばらしい魔法理論が羅列されているのを目にし、夢中で読みふけっていた。
固まった王女と、無心に羊皮紙をめくるノラン、その周りをグルグルと回るブラン。庭園は、おかしな静寂に包まれていた。
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――だが、その空気をぶち破るように、不躾で陰湿な嘲笑が響き渡った。
「ハッ! 平民の田舎冒険者が、煽てるしか能がないのですかな!」
庭園の奥から歩み出てきたのは、絢爛な法衣に身を包んだ三人の宮廷魔道士たちだった。先頭に立つ男が、嫌らしく口元を歪めてノランたちを見下ろす。
「勘違いするなよ冒険者風情が。我ら宮廷魔道伝統の威光も知らん野蛮人に、王女殿下の教育など務まるはずがなかろう。真の魔道とはどういうものか、手本を見せてやろうではないか!」
あからさまな嫌がらせと威嚇。男は杖を構えると、威圧感を誇示するように大袈裟な動作で長い呪文を唱え始めた。その先に集束していくのは、実弾レベルの危険な火炎術式――あろうことか、ノランに向けて放とうとしていた。
「ヒッ……!」
エレアノーリエが恐怖で身を縮めかけた、次の瞬間。
「危ない、王女さま!」
黄金の影が一瞬で跳ねた。ブランが即座にエレアノーリエの前へと滑り込み、その小さな身体を庇うように蜂蜜色の結界を展開し、立ちはだかる。
そして、ノランは――眉一つ動かさなかった。
呪文を一切唱えない。杖すら構えない。
ただ、静かに宮廷魔道士の構える魔法陣へと視線を向けただけだった。
魔女モルガナのもとでの地獄のような修行と、数々の死線をくぐり抜けた実戦経験。ノランの魔法発動は、疾くに「無詠唱」の域に達していた。
宮廷魔道士が解き放った苛烈な火炎弾が、ノランの胸元へ迫る。
だが、ノランがすっと指先を微動させた瞬間――宮廷魔道士の緩慢な術式構築の“隙間”へと、ノランの魔力が完璧な精度で干渉・侵入した。
ずれる魔力回路。解体される干渉定数。
放たれた火炎はノランに触れる直前、何の手応えもなく内部から崩壊し、ただの黒い煙となって「しゅん……」と空中に氷解・消滅した。
「なっ……!?」
宮廷魔道士が目を見開く。
「な、何が起きた……!? 我らの完璧な攻撃魔法が、貴様、今何をしたのだ……!?」
「長々と呪文を唱えなければ発動もできず、他者からの干渉に対して無防備な術式構築。無駄があまりにも多すぎます」
ノランの冷ややかな声が庭園に響く。
慌てて次の呪文を唱えようとする魔道士たちに対し、ノランはただ静かに、手のひらを一歩踏み出しながら見下ろすようにかざした。
―――――――無詠唱。重力魔法。
瞬間、見えない巨人の足が空から踏み降ろされたかのような、絶大な圧力が宮廷魔道士たちを襲った。
「ぐあああっ!?」
「重い……ツ! 身体が、地面に……っ!」
ドスン! と鈍い音が重なり、三人の宮廷魔道士たちは惨めに泥を舐める格好で地面へひざつき、這いつくばらされた。顔を地面に押し付けられ、ピクリとも動くことができない。
「……やはり、貴方たちの魔法は王女殿下に相応しくないようですね」
ノランが見下ろしながら冷徹に告げると、重力圧をふっと解除した。
自由に動けるようになった魔道士たちは、ノランの底知れぬ実力と圧倒的な恐怖に顔を歪め、「ひ、ひぇぇぇっ!」と情けない悲鳴を上げて、脱ぎ散らかすように逃げ去っていった。
静もり返る庭園。
逃げ帰る宮廷魔道士たちの背中を見送っていたエレアノーリエは、口をぽかんと開けて固まっていた。
だが、次の瞬間。
「あ……あは…… あははははっ!」
今まで王宮の重圧と嘲笑の中で、大人びて強がっていた8歳の少女が、お腹を抱えて声を上げて大笑いし始めた。
「すごいですわ、ノラン! あの威張り散らしていた彼らが、まるでひっくり返ったカエルみたいでしたわ! あははっ!」
涙を浮かべ、お腹をよじらせながら笑うエレアノーリエ。王宮に来て初めて解き放たれた、子供らしい無邪気で美しい笑顔だった。
エレアノーリエは涙を拭うと、ノランに立ち直った。
「…… ふふ、認めてあげますわ。貴方はただの平民ではありませんのね。ノラン... いえ、ノラン先生とお呼びしてもよろしいかしら? 私の家庭教師として、認めて差し上げますわ!」
エレアノーリエは胸を張り、晴れやかな笑顔でノランをまっすぐに見上げた。
その瞳から、先ほどまでの孤独と焦りは綺麗さっぱり消え去っていた。
「光栄です、エレアノーリエ殿下。精一杯務めさせていただきます」
ノランが温かく微笑み返すと、隣に立つブランも「ワン!」と誇らしげに短く吠えた。
エレアノーリエは首をかしげ、ブランを見つめた。
「あなた、先程はありがとう。でも……言葉を話していたのは気のせいかしら?」
「ニンゲンの言葉?話せるよ!!王女さま!僕も一生懸命教えるからね!」
「きゃぁああ!!わんちゃんがしゃべりましたわ!!」
驚きで尻餅をつく王女の周りを、また楽しそうにぐるぐると駆け回るブラン。ノランはそれを止めもせず、のほほんと微笑んでいた。
王宮という重苦しい枷を破り、新しい芽吹きがたしかに花開いた瞬間だった。
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ノランが王宮での指導を始めて半年が過ぎた頃。
エレアノーリエの魔法の精度は、目を見張るほどの勢いで向上していた。無駄な呪文の朗詠を削り、魔力回廊の効率化を図る彼女の才能は、まさに水を得た魚であった。
しかし、指導が順調に進む一方で、ノランは宮廷内に渦巻く冷ややかな視線と粘着質な悪意を感じ取っていた。
ある日の夕刻、資料室へ向かう廊下の影で、ノランは宮廷魔道士たちが囁き合う声を聞きつける。
「不気味なものだ。あの歳で無詠唱の真似事を始めるとは……」
「フン、所詮はあのエレイン側妃……アイゼンハルトの忌々しい血だ。洗練された理論などと宣い、我ら王宮の伝統を愚弄する悪徳の家系よ」
「出来損ないの王女め。どれほど知恵を絞ろうと、あの血が流れている限り、宮廷魔道士の頂には立てぬというのに」
ノランの瞳が、氷のように冷たく冴え渡った。
(アイゼンハルト……)
ノランはその名を知っていた。
師匠であるモルガナから教わった魔道理論の随所に、歴々と続く魔道家系として名を馳せる「アイゼンハルト」の技術体系が組み込まれていたからだ。
エレアノーリエの母・エレイン側妃の生家。
宮廷魔道士たちは、自分たちの硬直化した旧弊な魔法よりも遥かに洗練されたアイゼンハルトの理論を妬み、恐怖し、その血を引く幼いエレアノーリエを「異端」として押し潰そうとしていたのだ。
ノランは足音もなく陰から姿を現すと、嘲笑い合う魔道士たちの背後に立った。
「他者の血脈と才能を貶めることでしか自らの尊厳を保てぬとは、宮廷の魔道は随分とお粗末であらせられるのですね」
「っ!? 貴様、平民の……!」
「彼女の術式が理解できぬ自らの無知を、幼い王女に責任転嫁されるのは不愉快です。二度と、私の生徒の血を侮辱なさらないでいただきたい」
ノランが静かに発した魔力の圧迫感に、魔道士たちは青ざめて言葉を詰まらせ、逃げるように去っていった。
ノランは静かに息を吐き、エレアノーリエの私室へと向かった。
孤独な環境の中で、母の生家ゆえの嫌がらせに耐え続けてきた少女。ノランの中で、家庭教師を勤める意味が「王命を全うする」というものから、「少女の才能と人生を守る」というものへと変わりつつあった。
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さらに一年の月日が経った頃。
庭園での座学中、ノランが書き下ろした独自の「魔力干渉理論」の羊皮紙を検分していたエレアノーリエが、ふと手を止めた。
「……ノラン先生。以前から不思議に思っていましたの」
エレアノーリエは紫水晶の瞳をノランに向けた。
「あなた様の教える理論、そしてあの無詠唱による干渉解体……。宮廷の教科書には影も形もありませんわ。それどころか、我が母の生家アイゼンハルトの古文書に記されていた理念と、不思議なほどに合致していますの。……あなた様は一体、どなたにまほうを学ばれたのですの?」
ノランは膝の上に顎を乗せたブランを一撫でし、静かに微笑んだ。
「隠すことでもありませんね。僕に魔法を叩き込んでくださった師匠は……ヴァルグヴェルト山に住まう大魔女、モルガナ=コードリア様です」
「……ッ!?」
その名を聞いた瞬間、エレアノーリエの体内の血が沸き立つようだった。
(モルガナ……コードリア……!?)
エレアノーリエの脳裏に、母エレインから昔話のように聞かされていた古い記憶が駆け巡る。
――かつてアイゼンハルト侯爵家に引き取られ、圧倒的な力で家を支え、そして歴史の表舞台から姿を消したという伝説の大魔女。そしてなにをかくそう、かの古文書の執筆者。
(……そんな、まさか。あの伝説の大魔女様が、今も生きているはずが……。同姓同名の別人? それとも、歴史上のおとぎ話の名を語る隠者……?)
強烈な衝撃と動揺が胸を突いたが、エレアノーリエは咄嗟に扇子で口元を覆い、必死で表情を繕った。動揺をノランに見透かされるわけにはいかない。
「……まあ。モルガナ=コードリア、ですか。……なんとも重々しく、歴史の教科書にでも出てきそうなお名前ですのね」
「ふふ、確かに少し浮世離れしたお方です。ですが、僕の魔法のすべては、あの場所で師匠から叩きこまれたものです」
ノランの穏やかな横顔を見つめながら、エレアノーリエは内心で深く息を吐いた。
(あるいは……ノラン様の実力を見れば、あながち嘘や夢物語とも思えない……。だとしたら、わたくしはとんでもないお方の弟子に教わっていることになりますわね……)
ノランへの尊敬と信頼は、より一層揺るぎないものとなっていた。
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王宮赴任から任期の二年が経過し、エレアノーリエは十歳を迎えていた。
ある晴れた日、エレアノーリエは私室の庭園に、特別なお客を招いていた。
第一王子リアリシウスと、南方での騎士修業から一時帰還していた第二王子ラインハルトの二人である。
今回、エレアノーリエの魔法習熟検分との名目で、兄王子二人との交流会もとい、エレアノーリエによる魔法自慢会が行われたのだった。
「お兄様方、お忙しい中よくお越しくださいましたわ!」
「エレア、顔色が良くなったな。手紙で『素晴らしい家庭教師がついた』と書いていたが」
エレアノーリエと同じ透き通る紫色の、しかしより理知的な瞳を輝かせる長兄リアリシウスが微笑む。
「ハハハ! 本当だ、昔みたいにしおしお傾いていたエレアとは思えんぞ! で、その噂の家庭教師は……そこの青年か?」
豪快に笑う次兄ラインハルトが、ノランとブランに視線を向けた。
「初めまして、王子殿下方。エレアノーリエ殿下の魔道家庭教師を務めております、ノランと申します」
ノランが礼儀正しく一礼する。
「お兄様方、ご覧あそばせ! これがノラン先生と共に作り上げた、わたくしの本当まほうですわ!」
エレアノーリエが誇らしげに胸を張り、小さな手を空へと掲げた。
詠唱はない。無駄な魔法陣の展開もない。
彼女の指先から放たれたのは、極限まで圧縮された澄み切った光の矢だった。それは空中で滑らかな軌道を描き、遥か上空の標的を完璧な精度で穿ち、光の花弁となって静かに霧散した。
「……なっ! 無詠唱での軌道制御……!? 魔法の構築速度が、宮廷魔道士の数倍早い……!」
リアリシウスが息をのんだ。
「すごいじゃないかエレア! 華麗で、無駄がなくて、最高に洗練されている! 宮廷の老いぼれどもの鼻を明かしてやったな! ノランと言ったか、褒めてつかわすぞ!」
ラインハルトがノランの肩を叩き、大声で称賛する。
エレアノーリエは満面の笑みを浮かべ、えっへんと胸を張った。
「ふふん、当然ですわ! ノラン先生は最高の師ですもの。……それに、彼の師匠は、ヴァルグヴェルト山に住まう『モルガナ=コードリア』様という大魔女なのですから!」
その名が放たれた瞬間、リアリシウスのスマートな表情が一変した。
「……いま何と言った、エレア。『モルガナ=コードリア』だと……!?」
リアリシウスの瞳に、鋭い知性と驚愕の光が宿る。
「ふふっ、お兄さま、調べてくださいますわね…?」
「やるようなったな、エレア…。わかった。約束しよう」
したり顔で耳打ちをしてきた妹に、やれやれといった様子でリアリシウスが頷く。しかし内心では、興奮と驚愕が渦巻いていたり
(モルガナ=コードリア……アイゼンハルトの古文書に記された、あの伝説の大魔女か!? 単なるおとぎ話ではなく……北方の山に実在しているというのか……!?)
現実主義者であるリアリシウスの頭脳の中で、北方の領地、教会の動向、そしてノランという規格外の存在が、一つの線で繋がり始めていた。
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兄たちが去り、静けさを取り戻した庭園で、ノランはエレアノーリエに向き合った。
「エレアノーリエ殿下。この二年で、私があなた様にお教えできることはすべて習得なさいました。あなたの才能は、もうこの狭い王宮にとどまる器ではありません」
「ノラン先生……?」
「僕の師匠、モルガナ様の住むヴァルグヴェルト山の館へいらっしゃいませんか?そこには、下界では決して学べない魔法と、世界が広がっています。……僕の妹弟子として、共に向かいましょう」
エレアノーリエは一瞬目を見開き、それから花がほころぶような晴れやかな笑顔を浮かべた。
「もちろんですわ、ノラン先生! わたくし、もっと強くなって、あんな宮廷魔道士たちが見たこともない魔法を極めて見せますわ!」
ブランが「わん!」と頼もしく吠え、二人の間を鼓舞するように駆け回る。
王宮という枷を完全に解き放った少女は、信頼する師と一匹の魔犬とともに、新たな門出――大魔女モルガナの待つヴァルグヴェルト山へと、力強く一歩を踏み出したのだった。
王女さまが転んじゃうシーンがお気に入りです。




