第十九話 領主夫婦の新婚旅行と、巡礼の杯
霊峰ヴァルグヴェルドの深い山に佇む、大魔女モルガナの館。そこには人の言葉を解し、魔法を操る誇り高き『魔犬』たちが数百年の年月を共に暮らしていた。
ある日、麓のベイスの町に住む、少年ノランと金の魔犬ブランが出会い、やがて故郷の町を守るため大魔女と契約を交わした少年レオンは、白銀の魔犬クゥとともに「町へ降りる魔犬たちの世話役」としての歩みを始める。
宮廷で孤独を抱えていた第三王女エレアノーリエは、ノランやモルガナとの出会いを経て成長し、やがてノランと絆を結んでベイスの町の領主となり、人と魔犬が共に笑い合う「魔法都市」の礎を築いていく――。
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コードリア辺境伯領の領主館。その執務室には、かつての張り詰めた空気ではなく、穏やかで柔らかな温もりが満ちていた。
「……ふう。これで結界魔道具の設置報告は、すべて完了ですね」
書類の束を綺麗に整え、ほっと深く息を吐いたのはノランだった。
少し前、大魔女モルガナとエレアノーリエ、そしてノランの「三人の天才」が不眠不休の大開発の末に完成させた『魔力駆動型結界魔道具』。
領内各地に順次組み込まれたその発明品は、絶大な威力を発揮していた。エレアノーリエ自身による、定期的な点検の負担は劇的に減少し、領内の防衛体制はかつてないほど盤石なものとなったのである。
「ええ。ノラン先生……」
黒檀のデスクの後ろから立ち上がったエレアノーリエは、艶やかな赤髪を揺らし、その透き通る紫色の瞳を悪戯っぽく輝かせた。
「これでようやく、まとまったお休みがとれますわね」
「はい。長らく政務や研究で忙殺されていましたから、エレアノーリエ様も少し羽根を伸ばして過ごされるとよろしいかと……」
「ふふっ。ノラン先生、覚えていらっしゃいますか? あの開発の最中、ノラン先生がわたくしに仰ってくださったお言葉を」
「えっ……? あ、あの夜のことですか……?」
思い当たる節がありすぎて途端に動揺し始めるノランに、エレアノーリエは胸の前でそっと手を組み、甘く微笑みかけた。
「『どこへでも、僕たちの行きたい場所へ、一緒に行きましょう』……そう仰ってくださいましたわね?」
「っ……! あ、あの時は開発の熱気と徹夜の興奮でつい口が滑って……いや、嘘ではありません! 嘘ではありませんが……!」
顔を真っ赤にして狼狽する元家庭教師の姿に、エレアノーリエは愛おしさを隠しきれない様子でくすくすと笑った。
「約束は守っていただきますわ。……わたくしたちの新婚旅行の計画を立てましたの」
「新婚旅行、ですか。馬車と護衛隊を手配して、南方の温泉街や綺麗な港町にでも向かいますか?」
「いいえ。そんな大袈裟なものはいりませんわ。わたくしたちが目指すのは……かつてノラン先生が冒険者として駆け回っていたような、冒険者スタイルの領内全町巡行旅行ですの!」
「ぜ、全町巡行……!? 領内のすべての町や村を、歩いて回るのですか!?」
目を丸くするノランに、エレアノーリエは「ええ!」と元気いっぱいに頷いた。
「そして、旅立つにあたり……ひとつお願いがございます」
エレアノーリエはノランの前に歩み寄ると、少しだけ照れくさそうに、けれど真直ぐにその瞳を見つめた。
「これからは『ノラン先生』ではなく、『ノラン様』とお呼びしますわ。……ですからノラン様も、わたくしのことを『エレア』とお呼びくださいな」
「っ!? え、エレア……っ!? さ、さすがに私が領主様を呼び捨てだなんて、そのような無礼は……!」
ノランはまるで過剰充填された魔道具のように耳まで真っ赤にして手を振った。
「……では、歩み寄って『エレア様』ではいかがでしょう? 夫婦となったのですもの、少しだけ距離を縮めたいのです」
上目遣いでそっと服の袖を引かれ、ノランの理性はあえなく崩壊した。
「……わかり、ました。……エレア様」
「ふふ、はい! ノラン様!」
互いに敬語のまま、けれど「ノラン様」「エレア様」と呼び合った瞬間、ふたりの間に甘酸っぱく温かな風が吹き抜けた。互いに頬を染めながら見つめ合うふたりの胸は、これから始まる小さな冒険への期待に高鳴っていた。
数日後。ベイス=アルカの街道を、一風変わった一行が歩んでいた。
動きやすい丈夫な革鎧とマントを羽織ったノランとエレアノーリエ。そしてその周囲を、黄金の毛並みを誇るブランをはじめ、ルクス、ノクス、ヴェントというエレアノーリエの友犬三匹の魔犬たちが、尻尾をちぎれんばかりに振って駆け回っている。
「ふんふんっ! お外の空気、最高だね!」
「ノラン、エレア、荷物は僕たちが持つよ!」
背中に小さな背嚢を背負った魔犬たちが元気に鼻を鳴らす。
ベイスの町を出て、最初に到着したのは、街道沿いに位置する開拓の町だった。
この行程は普通、行商人のような身軽な馬車で三日間、ノランが当初言ったような「領主様のご旅行」のような隊列であれば五日間はかかるものであった。
しかし、かつて凄腕冒険者として名を馳せたノランと、その弟子にして大魔女モルガナに天才の太鼓判を押される魔法使いーーエレアノーリエと山を駆ける魔犬四匹。この集団は魔法や類いまれなる身体能力を駆使して、早朝から夕方、ほぼ半日で走破してみせた。
「エレア様…全力の移動をご希望されたので、失礼ながら振り落とすつもりで走り出したのですが…流石です」
「あら?手加減してくださったのではないのですか?私、まだ余力がございますわ」
「…。頼もしい限りです」
「ワォオオーーンッ」
『トカゲの魔獣がいるよ!おしゃべりしてないで!』
「ワフゥ…」「キャンッ、キャンッ」
『エレアったら…』『わたちがやっつけるよブラン!」』
途中にはそれなりの数、魔獣にも遭遇したが、それはご多分に漏れず、瞬殺されていったのであった。
「なっ……り、領主様!? ノラン様まで、どうしてこんな軽装で!?」
お忍びで訪れたはずの領主夫妻だったが、あでやかな赤髪のエレアノーリエと黄金の魔犬ブランの組み合わせはあまりにも目立ち、あっという間に町民に見つかって大騒ぎになってしまった。
慌てて整列しようとする代官や住民たち制し、エレアノーリエは可憐に、かつ豪快に手を振った。
「固苦しい挨拶は無しですわ! 今日は新婚の挨拶と、皆様の日頃の労をねぎらいに来たのですもの!」
エレアノーリエがそう宣言すると、人々は戸惑いながらも安堵の声を漏らした。そして、「どうか普段通りに」というエレアノーリエの希望にそって、町は普段通りーーとはいかなかった。夫婦が屋台で買い物を楽しもうとすれば、ガチガチに緊張した領主からお金は受け取れないと固辞され、町行く人は頭を下げてしまう。
ため息をつくエレアノーリエ。彼女の合図で町の中央広場に酒樽と料理が次々と運び込まれていった。かつて領主就任と婚約記念の際、ベイスの町で開いた伝説の「無礼講の宴」の再来である。
「さあ皆様! 今宵は無礼講ですわ! この街の発展は、皆様一人ひとりの汗と努力があってこそ。代金は全て私が持ちます!遠慮なく飲み明かしましょう!」
「「「おおーーっ! 領主様バンザイ!!」」」
大きな木樽を両手に掲げ、グビグビと見事な飲みっぷりを披露する美しい領主様に、町民たちの興奮は最高潮に達した。
「さあノラン様も! 領民の皆様と杯を交わしてくださいな!」
「え、ええっ!? あ、あの、エレア様……私はそれほど酒には強く……わわっ!」
「ノラン様! 俺たちの醸造した特製の麦酒も飲んでくだせぇ!」
「旦那様、一口どうぞ!」
陽気で温かな領民たちに囲まれ、ノランは次々と杯を差し出された。 ――そして、それが幸せな悪夢の始まりだった。
二つ目の町でも、三つ目の町でも、四つ目の町でも。
エレアノーリエが訪れる場所は、どこも例外なく歓声と熱狂の渦に包まれ、夜通しの大酒宴へと早変わりした。
「ふふっ、まだまだ杯が空いていてよ! さあ、どんどん持ってきて頂戴!」
底なしの酒量を誇る無敵の酒豪領主・エレアノーリエは、連日連夜飲んでも翌朝には清々しい笑顔で跳ね起きる。
対する元家庭教師・ノランはというと――。
「うぅ……頭が……目が回る……」
移動と宴会の連続にすっかりヘロヘロになり、広場の隅のベンチで魂が口から抜けかけた状態で倒れていた。
ブランたちが「やれやれ」と呆れ顔で見守りながら、冷たい水を運んできてくれたり、モフモフの身体をノランの背中に寄せてクッションになってくれたりしている。
「ありがと……ブラン、ルクスたち……。でも、町のみんなに美味い干し肉や焼き菓子を山ほど振る舞われて、君たちもすっかりお腹が出ているよ……?」
「くぅ~ん……」
『だって美味しいんだもの』
しょげながらも特産品を頬張る魔犬たちを撫でながら、ノランは力なく苦笑いを浮かべた。
巡行を始めて数週間が過ぎた頃。
その日の宴も少し落ち着き、人々が心地よい酔いに揺れていた深夜のことだった。
身体の重さを押してベンチから立ち上がったノランは、喧騒から少し離れた町外れの小高い丘へと足を進めた。
満天の星空が広がる丘の上、夜風に美しい赤髪をなびかせて立つ人物がいた。
「エレア様……」
そっと声をかけて歩み寄ると、振り返ったエレアノーリエの頬はほんのりと朱に染まっていた。
「ノラン様。ふふ、起きていらっしゃったのですね」
「ええ。……エレア様こそ、少し飲みすぎではありませんか? いくらお酒に強くとも、お体に響きますよ」
呆れつつも温かな眼差しで気遣うノランに、エレアノーリエは愛おしそうに目を細めた。
眼下には、ランタンの灯りが温かく揺れる町並みと、そこで笑い合う領民たちの楽しげな声が微かに届いている。
「……ノラン様。わたくし、ずっと夢見ていたのです」
エレアノーリエは静かに言葉を紡ぎ始めた。
「ノラン様とお手を繋いで……わたくしたちが守り、創り上げていくこの領地を歩くことを。この街の温もりを、人々の笑顔を、ノラン様と一緒に感じたかったのです」
月光の下、エレアノーリエの横顔を見つめながら、ノランは胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
ノランは知っていた。
かつて王宮の陰謀と疎外感の中で孤独を抱え、小さな身体を縮めていた幼い王女の姿を。
それが今や、自らの足でしっかりと立ち、領民一人ひとりと目と目を合わせて酒杯を交わし、誰からも深く愛される見事な領主となっている。
彼女がこの過酷とも言える全町巡行を望んだのは、単に羽目を外して遊ぶためではない。
自分たちがこれから共に守り、育んでいく未来と、愛すべき領民たちの暮らしの息吹を、ノランと共にその肌で確かめ合いたかったからなのだ。
「エレア様……」
連日の移動と宴会による疲労など、一瞬で吹き飛んでしまった。
ノランは愛おしさを堪えきれず、そっと彼女の繊細な手を握りしめた。
「……あなたという人は、本当に……どこまでも誇らしく、愛おしいお方です」
あの時、「どこへでも行く」と誓った自分の選択に、何一つ間違いはなかった。
夜空の下、隣で生き生きと輝く妻の笑顔に、ノランは何度目になるかもわからない深い愛しさを抱き、改めて心から惚れ直していた。
「……ノラン様。手が、温かいですわ」
「ええ。エレア様の手も、とても温かいです」
重なった手のぬくもりを確かめ合うふたりの足元で、仲良しの輪に自分たちも入れろと、ブランたち四匹の魔犬が、「ふん、ふんっ」と鼻鳴らしを響かせて駆け寄ってきた。
「ふふっ! 素晴らしい夜になりましたわね!」
感傷的な雰囲気を脱ぎ捨てるように、エレアノーリエがポンと手を打った。
「さあノラン様! 明日は隣の大きな町へ向かいますわよ! あそこは醸造所が多いですから、今夜以上に盛大な宴会を執り行いますわ!」
「ええっ!? ま、まだ続くのですか……!? てっきり、ここらで折り返しかと……!」
「何をおっしゃいますの! 『すべての町と村を回る』と約束しましたでしょう? ほら、魔犬たちもやる気満々ですわ!」
「わんっ!」
『エレアについていくよ!』
「美味しいお肉、いっぱい食べるぞー!」
「そんな……! 君たち、ブランまでエレア様に着くなんて……!」
頭を抱えて幸せな悲鳴を上げる元家庭教師と、楽しそうに鈴のような笑い声をあげる新妻。
そして歓声をあげて尻尾を振る四匹の魔犬たち。
星空の下、絆をさらに深めた領主夫婦の賑やかで愛おしい巡礼の旅は、まだまだどこまでも続いていくのだった。
書きながら砂糖吐きそうでした。コードリア夫妻、永遠に爆発しろ。
ーー閲覧いただき、ありがとうございます!ーー
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