一話目 少しだけ違う朝
「おはよう、明穂。」
「うん!おはよう。」
――ああ……まただ。
「明穂先輩、おはようございます。」
「おはよう。」
――始めての子だな。
あの事件から、二週間が過ぎた朝。
わたしは結依と登校するため、町で唯一の駄菓子屋の前で待ち合わせをしていた。
ここは、わたしたちの「境界線」だ。
朝はここで合流し、放課後はここで''さよなら''をする。
高層ビルや無機質なマンションに包囲されるようにして、ぽつんと取り残された小さなお店。色褪せた看板に、錆び付いたシャッター。
ちょっと時間が止まったノスタルジックなこの場所が、けっこう気に入っていた。
「明穂さん、おはようございますっ」
「うん」
「明穂、おはよ!」
通り過ぎる生徒たちが、次々と声をかけてくる。
あの日以来、わたしはちょっとした「時の人」になっていた。
曰く、強盗を半殺しにした。
曰く、鮮やかなクロスカウンターで巨漢を沈めた。
尾ひれどころか、背びれや胸びれまでついた噂話は独り歩きを続け、近所の小学生にはなぜか『進撃の巨人』なんて不名誉な二つ名まで頂戴している。
……いや、ちょっと待って。
半殺しになんてしてないし、そもそもクロスカウンターって何? 誰の必殺技よ。
それに「巨人」ってあんまりじゃない?
確かに女子にしては背が高い方だけど、こんなに平和な女子高生に付けるあだ名じゃないでしょうに。
とはいえ。
ほんの少しだけ注目を浴びるのは、決して悪い気もしない。
けれど、やはり「人気者」の座は、わたしには少々荷が重すぎる。
小さく溜息を吐き出し、わたしは駄菓子屋の軒先に背中を預けた。
事件のあとは、想像以上に''面倒くさいこと''の連続だった。
パトカーで現場検証に連れ出されたり、万引き犯に入られた店の偉い人が自宅まで来て、仰々しいお礼を延々と述べられたり。
正直うんざりだ。
何より一番腹が立ったのは、加害者側の弁護士だ。『示談』の二文字をチラつかせたしつこい電話には、流石のわたしもムッとしてしまった。
お気に入りだったバッグだって、「証拠品」という名目で警察に預けられたままだ。
被害に遭ったのはわたしなのに、どうしてこんなに消耗しなきゃいけないんだろう。世の中の理不尽さを改めて教えられた。
そういえば、調書を取るために警察署へ行ったとき、証拠品として預けられていたバッグを見たとき、背筋が凍った。
キャンバス地には刃物の痕。
中のノートまで貫いていた。
あの日、何気なく入れた一冊。
――あれがなければ……
あの嘘をつかなければ、
わたしはここにいなかったかもしれない。
……けれど。
命こそ助かったものの、わたしの左腕には、犯人に切り裂かれた痕がくっきりと刻まれている。
制服の袖で隠してはいるけれど、お医者さんは「痕は残るよ」と静かに告げた。
別に気にしていない、と自分に言い聞かせている。
でも、やっぱり。
多感な時期の女の子の腕に、消えない傷跡。
その事実だけで、胸の奥が少しだけ熱を持つ。
わたしは服の上から、そっとその痕をなぞる。
――そして、もう一つ。
この傷を見るたび、妙な『既視感』がわたしを捉えて離さない。
病院で包帯を替えるときも、浴室で鏡を見るときも、この痛々しい線にどこかで見覚えがある気がしてならないのだ。
こんな怪我、した覚えなんてない。
けれど、記憶のどこかで、この線をなぞったような――。
思考を霧の奥へ伸ばそうとしても、指先は空を切るばかり。
ただ、胸の奥底に小さなざわつきだけが澱のように溜まっていく。
そんなわたしの戸惑いを遮るように。
不意に、聞き慣れた明るい声が、わたしの名前を呼んだ。
「明穂、おはよう。お待たせ!」
振り向いた先で、結依がいつもの明るい笑顔を向けてくる。
朝の光を背にしたその表情は、やけに眩しくて
――わたしは少しだけ、おどけるように笑った。
「結依ちゃん、おはよう。」
そのまま一歩近づき、ぎゅっと彼女を抱きしめる。
胸元に当たる、柔らかな感触。
……うん、柔らかい。
それを確かめるように抱きしめながら、なぜかほっと息をついていた。
「もう、朝から抱きつかないでよ。
ここ最近、毎日じゃない。
恥ずかしいからほんとやめて。」
結依は顔を赤くしながら、わたしを押し返す。
軽く睨むその表情も、どこか照れ隠しみたいで。
――いつものやり取り、いつもの日常。
それを噛み締めながら、わたしたちは並んで歩き出した。
あの事件で、結依に大きな怪我はなかった。
少なくとも、見た目には。
でも――心のほうは、そうじゃない。
結依の話では、あのときの出来事が、たまに夢に出てくるらしい。
犯人が迫ってくる姿だけじゃない。
血を流しているわたしの姿も、夢の中で繰り返し現れるのだという。
そのたびに飛び起きて、気づけば涙が溢れていると話してはいた。
今、隣で笑っている彼女からは、そんな話は想像もつかない。
見えない傷って、こういうことを言うんだろう。
いつか、ちゃんと消えてくれるんだろうか。
そんなことを考えながら、隣を歩く結依の横顔をそっと見た。
★☆
「先生おはよう。」
校門をくぐり、いつもの玄関を抜け、賑やかな廊下を歩く。
そのまま教室に入ろうとしたところで――
「はいストップ。」
不意に結依に腕を掴まれた。
「明穂、そこB組。」
「あ!」
「“あ”じゃないのよ。今日で何回目?」
「……三回?」
「五回目よ。」
「そんなに!?」
「そんなに」
結依は呆れた顔でため息をつく。
「私たちのクラスは?」
「C組……」
「そう。“C組”。声に出して。」
「C組です。」
「よし。じゃあ行こう。」
先生みたいな口調でうなずく結依に、思わず苦笑する。
二年生になってから、わたしはよく教室を間違える。
理由は自分でも分からない。ただ、気づくと足がB組へ向かっているのだ。
同じ校舎、同じ窓際の席。
けれど――あの事件のあとから、窓の外の景色だけが、ほんの少し違って見える気がしている。
……気のせい、だよね。
自分にそう言い聞かせ、踵を返してC組へ向かった。
「おっはよう!」
結依と並んで教室に入ると――
やっぱりいた。
わたしの席に、またあいつが座っている。
「結依ちゃん、明穂。おはよう。」
「ちょっとコースケ。なんで朝来るとわたしの席に座ってるのよ。早くどいて。」
「別にいいじゃん。明穂のために席、温めといたんだからさ。」
「やめてよ。生ぬるくなるでしょ。ほら、シッシッ!」
手を振ってコースケを追い払う。
神木 光介。
中学のとき同じバスケ部だった男子だ。
茶髪に、いつも緩めたネクタイ。
真面目とは言い難い見た目のくせに、どこか憎めない。
顔はそこそこ整っているから女子人気はあるらしい。
でも本人は恋愛に興味がないのか、浮いた噂はほとんど聞かない。
こんなチャラそうなやつなのに、なぜか気が合う。
中学の頃からよく喋る仲で――
高校に入った今も続いている。
友達、というより。
……たぶん、腐れ縁よ、腐れ縁。
そんなコースケが、あからさまに結依の胸元へ視線を落とし、わたしと見比べるように言った。
「お、結依ちゃん。相変わらず順調に育ってるね。」
「でしょ?」
結依は悪びれもせずツンッと胸を張る。
「この前測ったらね、八十六のFだったのよ。」
「エフゥ!?」
声を上げたのはコースケ――ではなく、わたしだった。
え、F?
八十六?
……ちょっと待って。
それ、わたしより十センチ以上大きくない?
何その圧倒的な差は。
朝から人生の格差社会を突きつけられ、わたしは机に手をついてうなだれた。
負けたわ……。
「なに落ち込んでんの。」
結依が吹き出しながら言う。
「いや別に……」
「分かりやすいんだけど。」
「うるさいなぁ。」
顔を上げると、二人ともクスクス笑っている。
むっとして睨み返すと、
「ごめんごめん。」
「悪かったって。」
と肩をすくめて謝ってきた。
「もう! いいから早く自分のクラス帰りなさいよ!」
わたしは頬を膨らませながらバッグを机に置き、どさっと席に座る。
すると、そんな言葉を無視するようにコースケはわたし達に告げた。
「そうだ。それよりさ。」
「なに?」
「今度の日曜ヒマなんだけど。佑馬たち誘って遊び行かない?」
日曜日。
その言葉に、わたしは結依と顔を見合わせる。
そして――
二人同時に、ニヤリと笑った。
「ダメーーーェ!」
勝ち誇った声が教室に響いた。
コースケの間の抜けた顔を見て、わたし達はクスりと笑った。
「何でだよ。」
不満そうに眉をひそめるコースケに、
わたしはわざと左の口角を上げて言い放つ。
「デート。」
その一言に、
コースケの顔が見事なくらい固まった。
「はぁ?」




