四話目 浴衣の約束
――な、なに、今の声。ダメって、なに?
微かに聞こえた、小さな声。
周りの誰かの声?
いや、確かに、わたしの内側から聞こえた気がする。
「ホントにいいのか?」
コースケが弾んだ声を上げている。
わたしの返事が嬉しかったのだろう。
「う、うん……」
もう一度答えながら、でも、なんだろう、このざわつきは。
コースケにときめいているわけでも、緊張しているわけでもない。
不安だ。
言い知れない、不安の影。
初めて予知の映像を見たときの感覚に、どこか似ている。
病院のベッドに横たわった結依の姿を見た、あの胸を締め付けるような感じ。
なぜこんなときに、こんな声が。
夕方の街は人が多く、足早に家路を急ぐ人、学生たちのはしゃぐ声も遠くから聞こえてくる。
やっぱり気のせい……。
誰かの声だったのかな。
軽く視線を這わせ、首を傾げる。
でも……
不自然なくらいのタイミング。
あまりに良すぎて胸のざわつきが静まってくれなかった。
「じゃあさ、明穂。浴衣着てこようぜ。」
「浴衣?」
わたしの動揺などお構いなしに、コースケが嬉しそうに話を進めてくる。
「そう、浴衣。夏祭りといったら浴衣だろ。久しぶりに着てみたいし、いいだろ。」
子供みたいに目を輝かせて提案してくるコースケに、わたしはいつの間にか「うん」と頷いていた。
それからしばらく、二人で夏祭りの話をした。
待ち合わせの時間、
場所、
どこを回るか。
そんな話をしているうちに、さっきの声のことはもう頭から消えていた。
「ヤベ、もう帰らないと。」
時計をちらりと見て、コースケが名残惜しそうに眉を寄せる。
本当にコースケといると、時間が溶けるのが早い。
「ううん、大丈夫だよ。お祭り誘ってくれてありがとうね。続きはメールでも、明日学校でも。
真琴ちゃん待ってるんでしょ、早く帰ってあげて。」
コースケの背中を、そっと押した。
「ごめん、じゃあまたメールする。」
手を上げて、コースケが足早に駆けていく。
わたしも手を振って、その背中を見送った。
「ふう……」
一仕事終えたように、息を吐く。
ドタバタだったけど、コースケと夏祭りに行くことになった。
済んでしまえば、あの緊張はいったい何だったのかと思うくらい、胸が軽い。
胸に手を当てて、この瞬間の幸福を逃さないように、ぎゅっと握りしめた。
そして顔を上げたわたしは、ある一点を見つめ、
――いや、睨み付けて、声を上げた。
「いるのは分かってるわよ。出てらっしゃい」
物陰から、結依と澪がそろそろと顔を出した。
「分かってたの?」
「当たり前じゃない。わたしの視力は2.5よ、2.5。」
結依の顔に近づいて、誇らしげに言い返す。
「ずっとちらちら見えてたんだから、二人とも。」
わたしは頬をぷくっと膨らませて、ぷいと横を向いた。
「ごめんなさい、明穂さん。でも、気になっちゃって……ねえ、結依さん。」
肩をすくめながらも、いたずらっ子みたいな笑顔を浮かべる澪。
そして――
そんな澪とは対照的に結依が片頬をゆっくりと上げて、どや顔を決めてきた。
「何言ってるのよ。私たちのお陰じゃない。感謝してほしいくらいだわ。」
「はうっ!」
その言葉が、わたしの胸にぐさりと刺さった。
強引ではあったけれど、言われてみれば確かに二人のお陰かもしれない。
正直、明日にしようと思っていたけれど、明日になればまたあの緊張が戻ってきて、結局また逃げていた気がする。
唇を尖らせ、顔を歪めながら、わたしは二人に言った。
――ありがとう。
「分かればいいのよ、分かれば!」
結依がわたしの肩をバンバンと叩いてくる。
――う~ん、なんか納得いかないわね。
そのとき、はっとコースケとの会話が頭に戻ってきた。
「そうだ。コースケに、浴衣で夏祭りに行こうって言われたんだけど……」
「いいじゃない、浴衣で行けば。」
「違うの。浴衣はあるにはあるんだけど、最後に着たの中学の時なのよ。」
しかも中学一年生のとき、だったはず。
あの頃からわたしは十センチも背が伸びた。
背ばかりに栄養を取られて、肝心なところには全然届かなかった結果が、今のわたしの体型というわけで。
「サイズが合わないかもしれないの。」
ノリでコースケと約束してしまったけれど、よく考えたら先に確かめてから返事をすればよかった。
「じゃあ、みんなで買いに行きませんか?」
声を上げたのは、意外にも澪だった。
はにかんだように俯いて、指を絡ませながら、照れくさそうにわたしと結依を交互に見る。
「さ、さっき、喫茶店で結依さんと話してて、私も結依さんとお祭りに行く約束をしたんですけど、結依さんが浴衣を着るって言ってたから、私も欲しいなって……思ってて。」
ちらりと結依を見てすぐに目を逸らす澪に、結依が朗らかに声をかけた。
「澪ちゃん、いい考えよ。
明穂もせっかくだから買いに行こうよ。
コースケくんとお祭りに行くんだもの、新調しちゃえば? 一回だけじゃないし、来年も使えるんだから。」
そう言いながら、結依がにやにやとわたしを見て含み笑いを浮かべる。
――もう、なによその嫌らしい笑い。
コースケとの夏祭り。
まさか小学生の頃から使っていた浴衣で行くわけにはいかない。
約束もしちゃったし、コースケと浴衣で歩きたいし……。
「うん、ちょっとお母さんと相談してみる。」
「じゃあ決まりね。明日は部活の用事があるから、終業式のあとはどう? 安くていいお店知ってるから、そこで二人の浴衣を見ましょ。」
結依の提案に、わたしと澪は顔を見合わせて、同時に頷いた。
★☆
次の日のわたしは、昨日とはまるで別人だった。
爽やかな朝。
目の下のクマは跡形もなく消えて、寝癖もすぐに直った。
――今日もかわいいわ、わたし。
鏡の中の自分に向かって、にっこりと笑いかけた。
いつもの場所で、蝉の声を聞きながら結依を待つ。
「おはよう、明穂……」
相変わらず朝のテンションが底を這っている結依に、わたしは勢いよく抱きついて、その胸の感触をしっかりと確かめた。
うん、柔らかい。
「やめて、明穂。うざいから。」
抵抗を諦めた結依をさらにぎゅっと抱きしめて、いつもの朝の挨拶を終える。
教室に着くと、コースケがいた。
「おはよう、コースケ」
少し照れくさいけれど、わたしは上機嫌で声をかけた。
「おう、明穂。って、結依ちゃんテンション低いよ。」
「明穂に抱きつかれたの。毎朝やめてよ、ほんとに。」
平和な日常が、戻ってきた。
そのはずなのに、わたしの中の小さな引っかかり。
――ダメ。
忘れていたあの言葉が時折、頭を過る。
★☆
そして、終業式。
夏の日差しが降り注ぐ教室は、夏休みを目前にした、ふわふわとした空気に包まれていた。
机を寄せてはしゃぐ男子たち、通知表を見せ合っては笑い合う女子たち。
あちこちから飛び交う「またな」と「遊ぼうぜ」の声が、いつもより少しだけ名残惜しく響いていた。
そんなクラスの空気に、わたしたちも自然と混ざり合う。
後ろを振り向いた結依と、今日の予定を確認する。
「じゃあこのまま駅前のデパートに行く、でいいわね。」
「うん、お金も持ってきたし大丈夫よ。澪は?」
「昨日連絡してあるわ。一旦家に帰らせたら大変だから、このまま合流ね。」
「了解」
明日はいよいよ夏祭り。
前日だというのに、心の中はもうすっかりお祭り気分だった。
どんな浴衣にしようかな。大人っぽいのも素敵だし、淡くて可愛らしいのも捨てがたい。コースケはどんなのが好きなんだろう。
「明穂、明穂……」
「えっ、なに?」
「ニヤニヤして、不気味よ。」
「うぐっ」
胸にぐさりと刺さった。
「お待たせしました。」
クラスで澪と合流して、わたしたちは三人でデパートへと向かった。
平日の昼間なのに、町の空気がどこか浮き立っている。
商店街には提灯が吊るされ、屋台の準備をする音と威勢のいい掛け声が通りに響いていた。
祭りを待ちきれない子どもたちが駆け回って、町全体がそわそわと浮き足立っている。
そんな賑わいの中を歩いていると、ふと、一組の親子連れに目が止まった。
お父さんとお母さんに挟まれて、二人に笑顔を向けながら歩いてくる。
「みらい」
前から歩いてきたのは、みらいだった。




