七話目 ここにあった未来
片付けを終えると、わたしたちはリビングのソファーでくつろいでいた。
「上手く焼けるかな。」
結依とそんな話をしていると、コースケがコーヒーを入れて持ってきた。
「砂糖とミルクもあるから、好きに入れて。」
カップを手渡される。
その手際の良さに、わたしはふとコースケの横顔を見る。
やっぱり、いつものコースケと少し違う気がする。
しばらく三人で他愛もない話をしていると、部屋の中に焼けた匂いが漂い始めた。
シフォンだ。
ちゃんと焼けてくれるといいな。
キッチンの方をちらりと見ながらそんなことを考えていると、結依が棚に置かれた写真立てを手に取った。
「コースケくんって、明穂と一緒でバスケやってたんだよね。」
写真には、ユニフォーム姿のコースケが写っている。
少し照れたような笑顔。中学の頃の写真だ。
「なんで今は辞めちゃったの?」
ちょうどキッチンから戻ってきたコースケが、その質問を聞いた。
一瞬だけ間が空く。
それからコースケは、あっさりと言った。
「怪我。
それで辞めた。」
「そっか……ごめん。」
結依が少し気まずそうに言うと、コースケは軽く手を振った。
「別に」
さらっとした声だった。
わたしはそのやり取りを横目で見ながら、黙ってコーヒーに口をつける。
コースケがバスケを辞めた理由は、もちろん知っている。
中学最後の中体連。
その直前の練習試合で、コースケは大きな怪我をした。
それがきっかけで、バスケを辞めた。
あのとき。
「三年間、無駄にしちまったな。」
そう言って、コースケはいつもの軽口みたいに笑っていた。
「ねえ、明穂?」
「ん?」
突然、結依がこっちを見た。
「明穂はなんでバスケ辞めたの?」
思いがけない質問に、わたしは少しだけ動揺する。
でも、すぐに肩をすくめて笑った。
「飽きたのよ。」
わざと軽く言う。
「三年間も同じ部活なんてさ。青春がもったいないじゃない。
新しいことにチャレンジしたかったの。」
――ちょっとだけ、嘘。
本当の理由は。
――面白くなくなったから。
コースケと張り合うバスケが楽しかった。
何点取ったとか、
何回リバウンドを取ったとか。
コースケと張り合えないバスケなんて、少しも面白くなかった。
だから、辞めた。
あのとき。
軽口を叩きながら、それでも悔しそうに笑って、そして涙を流してたコースケを見て――
わたしは、そう決めた。
もちろん。
この話は、コースケには内緒だ。
そんなわたしを、コースケがじっと見つめていた。
「なに?」
思わず聞くと、コースケは肩をすくめる。
「なんでも。」
少しだけ含みのある言い方をしてから、コースケは視線をそっと外した。
「でもさ、バスケはたまにやってるぜ。」
そう言いながら、立ち上がる。
「ちょっと前に出来たスポーツ公園のバスケコートでさ。昔の奴らと、たまに。」
コースケはその場で軽くボールを持つ仕草をして――
ひょい、とシュートのフォームを作った。
「この前も人数足りなくてさ。明穂呼んでやったよな。」
そのまま、わたしにパスを送るみたいに手を動かす。
「スリーオンスリーでしょ。」
わたしはコーヒーに口をつけながら、軽く鼻で笑った。
「遊びよ、遊び。」
「ふぅん……」
それまで黙っていた結依が、面白そうにわたしたちを見ていた。
「じゃあさ、今度私も仲間に入れてよ。」
コースケの顔がぱっと明るくなる。
「いいじゃん。やろうぜ。」
にやっと笑って、続けた。
「俺が手取り足取り、教えてあげるよ。」
「エッチ!」
わたしが即座に言う。
「ち、チゲーよ!」
コースケは慌てて手を振る。
結依はというと、眉をひそめながらちょっとだけソファーの端へ体をずらした。
その様子が妙におかしくて、思わず笑ってしまう。
たわいもない会話。
でも――
こんな時間が、なんだか楽しかった。
――チン。
小さな電子音が、リビングに響いた。
「あ、焼けたんじゃない?」
結依がぱっと顔を上げる。
「お、マジか」
コースケは立ち上がると、そのままキッチンへ向かった。
オーブンの扉が開く音。
次の瞬間、甘くて香ばしい匂いがふわりと部屋に広がった。
「うわ、いい匂い!」
結依が嬉しそうに声を上げる。
わたしはその匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
ふわっと軽くて、やさしい甘さ。
――幸せの匂い。
「ほら、できたぞ。」
コースケが皿を持ってリビングに戻ってくる。
ふわふわに膨らんだシフォンケーキ。
少しだけ歪んでいるけれど、それがなんだか嬉しかった。
わたしは思わず、くすっと笑う。
たぶん。
あの未来は、もうすぐここに来る。
少し粗熱を取ってから、コースケが包丁を持ってきた。
「じゃあ、切るぞ。」
慣れた手つきで、シフォンを丁寧に切り分けていく。
わたしが作ったチョコレートのシフォン。
「上手く焼けてる!」
思わず声が弾んだ。
結依とコースケのシフォンに比べると、少しだけ不恰好だけど。
それでも、ふわふわで美味しそうだった。
わたしは顔を上げて、二人を見る。
その瞬間、胸の奥で何かがかちりとはまった。
ああ。
これだ。
テーブルの上のシフォン。
三人で笑っていた、あの光景。
わたしの声に振り向く二人。
その笑顔が、ぴったりと記憶と重なった。
「早速食べようぜ。」
コースケが言う。
「もう一杯コーヒー入れるよ。」
「コースケくん、私は紅茶がいいな。」
結依がすぐに言う。
「コースケ、わたしはミルクティー。」
「注文多いな。」
コースケが苦笑する。
準備が整うと、わたしたちはテーブルを囲んだ。
フォークを手に取る。
一口。
「……うん、幸せ。」
たっぷりの生クリームをつけたシフォンは、びっくりするくらい美味しかった。
結依とコースケのシフォンも食べてみる。
やっぱり、上手い。
「へぇー、明穂のシフォンも美味しいわよ。」
結依がにこっと笑う。
「ねぇ、コースケくん。」
「ああ、うまい。」
コースケも頷いた。
「ココアちょっと多いかと思ったけど、これくらいがほろ苦くていいかも。」
二人が、わたしのシフォンを褒めてくれる。
「ふふん」
思わず得意げになる、わたし。
――ああ。
これなんだ。
この時間。
この匂い。
この笑顔。
きっと、そのために。
わたしは何度も、やり直していたんだ。
そっと、左手の傷を軽くなぞった。
未来の匂いは、ちゃんとここにあった。




