表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
下手なので野球教室に通ってみた  作者: あつ
序章 出会いと日常
22/24

VAA投球角度

金曜の夕方。

 野球塾のブルペンは、珍しく全員が口を閉じていた。

 あかりが投げるボールの“質”が、いつものそれとはまるで違っていたからだ。


 「……今の、なんで浮いて見えた?」

 キャッチャーミットを構えたゆうきが、ぽつりと言った。


 「浮いた? ……いや、私は普通に投げたつもりだけど」

 あかりは淡々としていた。だが、さなみは確かに見た。

 ストレートが、本当に少しだけ浮いたように見えたのだ。

 それはプロでしか見られないはずの感覚——まるで、今永昇太投手の直球みたいだった。


 その時、後ろで腕を組んでいた塾長がゆっくり口を開いた。


 「気づいたか。あれは『VAA(垂直入射角)』が浅くなってきてる証拠だよ。」


 さなみは首をかしげる。

 ゆうきはキャッチャーらしく食いついた。


 「平均がマイナス4.7度……ですよね? 0度に近いほどボールが落ちてこないように見える……」


 塾長は満足げに頷く。


 「そう。あかりの今のボールは、それに近づいている。まっすぐの“角度”が浅くなってきてるんだ。」


 あかりは少しだけ驚いた顔をした。

 自分でも気づかなかった変化らしい。


 「でも……なんで突然?」

 さなみが聞くと、塾長は少し笑いながら答えた。


 「理由は単純だ。——身長が伸びたからだよ。」


 「えっ?」


 「重心線が変わると、腕の軌道の最下点が少し下がる。

  その結果、リリース位置が“自然に”低くなることがある。

  しかも最近のフォーム調整で、上体の開きが遅くなってる。

  それが回転効率を落とさないまま VAA を浅くしてるんだ。」


 ゆうきが感動したように息をのむ。


 「……今永投手みたいじゃん……!」


 すると塾長は、いつになく真剣な声で続けた。


 「だがな、VAAを浅くするだけなら簡単だ。リリースを低くすればいい。

  ただし——メカニクスが崩れたら終わりだ。回転効率が落ちて“ただのへなちょこの棒球”になる。」


 そして、塾長は指を立てて強調した。


 「本当に難しいのは、VAA と 回転効率 の“両立”だ。

  その両方を高いレベルで成立させてるから、今永は MLB で通用してる。」


 あかりは黙って自分の手のひらを見つめていた。

 ゆうきもキャッチャーミットをそっと胸に当てる。

 さなみはただ、胸がざわつくのを感じていた。

 自分の目の前で、圧倒的な才能が進化している——そう思った。


 「じゃあ……次、受けてみていい?」

 さなみは勇気を出して言った。


 あかりは軽く頷き、セットポジションに入る。

 その姿は、夏の全国大会で相手をねじ伏せるエースのようだった。


 ——来る。


 腕がしなり、ボールが放たれた。

 低いリリース点から“ギュッ”という音を残して、ストレートが走ってくる。

 さなみの目には、途中で少しだけ浮いたように見えた。


 バットが空を切る。


 「っ……!」


 さなみは思わず叫びそうになる。

 本当に浮いて見えるのだ。

 軌道が、これまでのあかりとは違う。


 ゆうきも立ち上がった。


 「これ……本物だよ。打者の感覚が全部ズレるやつだ。」


 塾長は静かに言った。


 「この質が安定すれば、あかりは高校、大学、どこへ行っても戦える。

  だがそのためには、“理由を知って投げる”必要がある。

  感覚だけでは、必ず崩れる。」


 あかりはボールを握りしめ、真剣な声で答えた。


 「じゃあ教えて。どうすれば、この角度を維持できる?」


 塾長は微笑み、バッテリーに歩み寄った。


 「まずは“意図して”リリースポイントを微調整する練習だ。

  ただ下げるんじゃない。回転軸を保ったまま、低い位置で指を前に押し込む。」


 「むずっ……」

 ゆうきが苦笑する。


 「むずかしいさ。今永だって簡単にできているわけじゃない。

  だが君たちには、吸収の速さがある。」


 あかりはしばらく黙っていた。

 そして小さく息を吸うと、さなみの方を向いた。


 「さなみ、また打席入って。……この質、誰よりも先に見てほしい。」


 胸が熱くなる。

 さなみはバットを握りしめて打席に入った。


 あかりの前に立つと、なぜか涙が出そうになる。

 勝てない。届かない。だけど——追いかけたい。

 あかりが進む場所に、自分もいたい。


 あかりがゆっくりとセットポジションに入った。


 塾長が小さく呟いた。


 「——さあ、ここからだ。VAAが変われば、みえている世界も変わる。」


 その言葉が、さなみの背中に火をつけた。


 “絶対に打つ。

  どれだけ浮こうが、どれだけ角度が変わろうが——必ず打ってみせる。”


 夏の夜風がブルペンを通り抜けた。

 次の一球が、新しい物語の始まりになる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ