13 キトゥリノ精霊爵の要求
エウフェミアは平静を取り繕い、池に足をつけて黙祷するノエを見守り続けた。緊張を解くことができたのは、宿に戻り、自室の扉を閉めてからだった。
口を手で覆い、先ほどのノエの発言をよくよく思い出す。
——特定の属性の精霊に気に入られると、他の属性の精霊から無視されるようになる。
それはエウフェミアの知る常識とは異なっていた。なぜなら、幼い頃、どの属性かを問わず精霊たちはエウフェミアの友達であった。
水の精霊も。風の精霊も。土の精霊も。草の精霊も。火の精霊も。光の精霊も。闇の精霊も。
どの子もエウフェミアと仲良くしてくれた。それなのに、ノエがしてくれたのは、その記憶を否定するような話だった。
(……本当にどういうことなのかしら)
今こそ、一番アーネストの知恵を借りたい。そう心から思う。
しかし、現実は変わらない。ここにいるのは自分だけ。自分自身で、得た情報を整理するしかないのだ。
皇宮でアーネストがどのようにしていたかを思い出す。まず、先ほど得た情報を整理するところから始めるべきだろう。
(精霊たちは他の属性の精霊と関わり合いにならない)
昔の記憶を思い出す。精霊たちは皆、エウフェミアと仲良くしていたが——確かに、精霊たちが別の属性の精霊と仲良くしていた記憶はない。水の精霊と一緒に遊ぶときは水の精霊だけで遊んでいた。風の精霊や、草の精霊も同じだ。他の属性の精霊に話しかけたり、関わることがない。これはノエの言っていたことの裏づけのように思える。
——だが、問題は次だ。
(特定の属性の精霊に気に入られると、他の属性の精霊はその人間を無視するようになる。大精霊様の恩寵を受けてる精霊術師も一緒)
これはエウフェミアの認識を完全に否定するものだ。
だが、皇宮で『自分に精霊術師としての能力がない』という自分の認識が間違いだったことを証明されている。思い込みに固執するべきではない。
だから、これは事実として受け止めた方がいいだろう。精霊術に関する根本的な話だ。ノエが嘘をついているとは思いにくい。
(それと、精霊は大半の人間に興味がないけれど、人間を気にいることがある。私はもしかしたら火の精霊に愛されてるかもしれない。……これは、精霊術師以外の話ではないのよね?)
ノエはエウフェミアを指してその話をした。彼は精霊庁の使用人が精霊術師であることは当然知らないので、その認識で話をしたはずだ。そして、そこまで考え、あることに思い至る。
(精霊に愛されてるって表現。……あれはもしかして、本当のことなのかしら)
以前、食堂で聞いた話。料理が上手いタビサは火の精霊に愛されていると家族に言われていたそうだ。そして、他にもそう言われる人間はいる。フィランダーもその一人だろう。孫のキムもそう言っていた。
——そうなると。
ゾーイの言葉を思い出す。
『エフィはどっちかしらね』
掃除も料理も得意なエウフェミアは水の精霊に愛されているのか、火の精霊に愛されているのか。両方と言う人もいたが、ゾーイは『両方とも得意な人って珍しい。あんまり聞かない』と言っていた。
あのときはただの比喩表現の話だと思って深く考えていなかったが、あれが実際の話なのだとしたら。
(どちら……じゃなくて、私は何なのかしら)
精霊に関する正確な知識を得れば得るほど、幼い頃の当たり前が覆っていく。そのことに少し恐ろしさを感じる。それが今の正直な気持ちだった。
◆
ウォルドロンは境界山近くの麓にある一帯を指す地名だ。標高が高く、涼しい気候のこの土地は酪農が盛んだという。そして、この一帯を治めるのはウォルドロン子爵だ。
精霊庁は空虚の根銷却作業のため、彼が複数持つ別宅の一つを借り受けた。そこが今、エウフェミアたちが到着した屋敷である。
元々別宅には少し前から調査のためやってきたキトゥリノ精霊爵と、サポートのためやってきた精霊庁の官吏や使用人が数人滞在している。別宅とはいえ、広い屋敷だ。そこにノエやシリル、エウフェミアたちが来ても、部屋は十分に余っている。——そのはずだった。
馬車を降りたノエはシリルと共に真っ先に屋敷の玄関へと向かった。エウフェミアは使用人として、グレッグたちが荷物を運ぶのを手伝う。
荷物の中で小さめのトランクを両手に持ち、玄関の大扉をくぐる。直後、前を歩いていたジェシーが立ち止まった。エウフェミアも足を止める。
なぜ止まったのか不思議に思いながら、玄関ホールの奥を覗く。そして、中央の階段前に複数人が集まっているのと、おかしな空気に気づいた。
人々の中心にいるのは二人の人物だ。一人はノエ。もう一人は見たことのない人物だったが、すぐに誰なのか見当がついた。
(あの人がキトゥリノ精霊爵……?)
金色――黄色と表現すべきかもしれないが――の髪と瞳。そして、黄色のローブ。キトゥリノ家の、風の精霊術師であることが見て取れる。
しかし、驚いたのは、これまたその年齢だ。自分と同年代の、まだ十代後半にしか見えない。癖のある柔らかそうな髪も、ガラス玉のような大きな瞳も、その若さをより強調しているように思える。
二人の後ろにはそれぞれ精霊庁の制服を着た男が一人ずつ控えている。ノエの後ろにいるのは当然シリルだ。そして、キトゥリノ精霊爵の後ろに立つのは金髪をオールバックにした男だ。歳は二十代中頃だろうか。そして、少しそのさらに向こう、階段の上に中央駅で見かけたユージーン一行の姿もあった。
「キトゥリノ家の人間ってのはどういう教育を受けてるのかな? そんなに失礼なことを言われるなんて思いもしなかったよ」
そう言い放つノエの語調は明らかに刺々しい。
「僕の記憶だと七家の間に上下はない。同等の立場にあるはずだろう? なのに、何でそんな自分勝手なことを言い出すのかな。僕には理解し難いよ」
「うーん、自分勝手かなあ。そんな変なことじゃないと思うんだよね」
明らかに怒っているノエに対し、キトゥリノ精霊爵はのんびりとした話し方だ。落ち着いている、というよりは相手の感情を気にしていないようだ。
彼は顎に手を当てる。
「確かにボク達の間には上下はないけど……そうだ! 早い者勝ちってやつだよ。ボク達は二週間も前からこの屋敷にいる。ほら、ボクの主張がおかしくない理由にならないかな?」
名案とばかりに笑う姿はどこか無邪気だ。
エウフェミアは困惑する。
ノエがキトゥリノ精霊爵に対して怒っているのは分かるが、いったいなぜ彼は怒っているのか。理由もわからないまま話を聞いていたが、その答えはすぐに分かった。
「へえ? 早い者勝ちねえ? 先に屋敷に到着してたら、例えまだ部屋が余っていたとしても、後から来た人間を追い出せる権利があるなんて知らなかったなあ」
エウフェミアは驚く。まさか、キトゥリノ精霊爵がそんな要求をしているとは思わなかったからだ。何かと勘違いじゃないかと思う。
――しかし。
「これも駄目かぁ。ボクはただ、君にこの屋敷から出ていってほしいだけなんだ」
直接、キトゥリノ精霊爵の口からもそう聞いてしまえば否定することはできなくなる。無邪気な様子でとんでもない主張をしているのに混乱する。
ノエは額を押さえる。
「その要求をしてくるのも、その要求が通ると思うのも非常識だ。この屋敷を追い出されたら僕はどうすればいいのかな? 野宿でもしろって?」
「まさか! そんなことしたら風邪を引いちゃうよ! えーっと」
そして、キトゥリノ精霊爵は後ろを振り返る。金髪の官吏が口を開く。
「ここから少し歩いたところに先々代のウォルドロン子爵が使っていた離れがあります」
「そう! その離れを使ってほしいんだ。ちゃんと屋根もあるし、ベッドだってある。野宿じゃないよ。ずっと使ってなかったせいで火霊燃料の装置も壊れたままだから薪で火を炊かないといけないけど、お風呂だってある。食事だってこっちで作ったものを運べばいい。運んでる途中でちょっと冷めちゃうかもしれないけど。――ね? 何も問題はないでしょう?」
ニコニコと笑う青年は本当に何も問題がないと思っているようだった。
これ以上、キトゥリノ精霊爵と話していてもらちが明かないと思ったのだろう。ノエは官吏を睨みつける。
「ネイサン。精霊庁の考えを聞いてもいいかな? 君たちも僕にここから出てけって言うの?」
精霊庁の官吏は精霊術師を丁重に扱う。そのことはエウフェミア自身、身をもって実感している。
だが、今回のように一方を蔑ろにする要求を言われた場合どうなるのだろう。角が立たないのはお互いの妥協点を探ることだろうか。エウフェミアはそう予想したが、官吏――ネイサンの答えは違っていた。
「私はキトゥリノ精霊爵の世話役を任されています」
問われた本人は落ち着いた声音で答える。
「これは精霊爵たってのご要望。それを無視するわけにはいきません。ノエ様のご要望はそこの愚弟――シリルにお伝えください。その上で、精霊庁の判断を決定します」
愚弟という言葉で、ネイサンがシリルの兄ということを知る。
ネイサンの言葉には、兄弟への親しみのかけらもなかった。あくまで職務を遂行する官吏として、淡々と応じているに過ぎない。階段の上のユージーンの視線も同様だ。その冷えた目線は、血の繋がりすら感じさせない。そのことにもエウフェミアは戸惑う。
ノエは悔しそうに唇を噛む。しかし、それは一瞬のことで、すぐにガラノス家の次期当主と自称する少年は笑顔を作った。
「分かってるよ。精霊庁がキトゥリノ家とガラノス家、どちらを優遇するかぐらいはね」
そして、彼はキトゥリノ精霊爵を振り返る。
「僕もキトゥリノ家と友好な関係を維持したいと思ってる。今回は僕が引こう。君の欲求を呑むよ。この屋敷を出ていってあげようじゃないか」
キトゥリノ精霊爵は相手が自分の頼みを聞き入れてくれたことを理解し、嬉しそうな笑みをこぼした。
「うん! ありがとう!」
彼はノエの手を両手で握ると、嬉々としてぶんぶんと振った。その姿は、場の空気も、相手の感情も、何一つ気にしていないように見えた。




