10 ノエ・ガラノス
次の日の機関車が到着するまでの間、エウフェミアとシリルの間には何か透明な壁でもあるかのようだった。
シリルは以前と変わらず、エウフェミアを丁重に扱ってくれる。エウフェミアも今まで通り礼儀正しく従っている。しかし、お互いに何か一線を引いているように思う。昨日の一件で心の距離が離れたのは間違いなかった。
――いや、そもそも、近づいてなどいなかったのかもしれない。
エウフェミアはシリルを礼儀正しく、民思いな清廉な人物と思っていた。そんな彼の思いに共感したこともあって、力を貸そうと思った。ただ、その人物像は間違っていた。思い描いていたものとは違っていたのだ。
——どうすればいいのだろう。
やるべきこともやりたいことも、依頼を受けたときとは何も変わっていない。
エウフェミアは依頼され、ウォルドロンに来た。シリルに同行し、空虚の根の影響が彼に降りかからないように傍にいる。個人的な望みはノエ・ガラノスと話をすること。
そこは変わらないのに、こうも気もそぞろになるのはなぜだろう。
沈んだ気持ちを抱えたままでも、時間は進んでいく。夕方近くになり、ノエ・ガラノスを迎えに行くため、シリルたちとともにプラットホームへ出向いた。
シリルは手元の懐中時計を確認する。
「予定通りなら、もうそろそろ到着する頃ですね」
機関車より早い移動手段はない。そのため、ノエ・ガラノスが機関車に乗れなかった場合でも、到着した機関車に乗る乗務員からそれを教えてもらうほかない。もし、そうなった場合は翌日以降の機関車を待つことになるという。
しばらく待っていると、遠くから汽笛の音が聞こえた。
シリルはピンと背筋を伸ばし、緊張した面持ちで線路の向こうを見つめる。少しすると、針葉樹の向こうから先頭車両が姿を現した。
機関車はゆっくりと速度を落とし、停車位置通りに止まる。一番近くの車両から、精霊庁の官吏と思しき黒い制服の人物が一番最初に降りてくる。その次に現れたのが青い髪と青い瞳の人物だった。
その青は、誰が見ても水の大精霊の恩寵を授かった証だと分かるほど鮮やかで澄んでいた。そして、彼が羽織っている青いローブは一人前の精霊術師の証。――それを見て、エウフェミアはひどく懐かしい気持ちになる。
その人物がノエ・ガラノスであることは間違いないだろう。若い、という話はシリルからも聞いていた。しかし、想像以上に彼は若かった。
まだ青年と呼べない、少年というべき年頃だ。十代半ば頃だろう。顔立ちにまだ幼さが残り、背もエウフェミアより少し低い。髪は男性にしては長く顎下ほどあり、つりあがった目尻から意思の強さが窺えるようだった。
機関車から降りた少年に真っ先に声をかけたのはシリルだった。
「ノエ様。ようこそお出でくださいました。遠路はるばるありがとうございます」
ノエは官吏を上から下まで観察するように見る。そして、意外そうに呟いた。
「なんだ。世話役は君なのか」
その言葉に一瞬、シリルの表情が強張ったように見えた。
「……他の者のほうがよろしかったでしょうか?」
「いや、僕は誰でもかまわないさ。仕事さえしてくれれば誰でもね。君は確か、調査部門の責任者だったろう? 空虚の根銷却は担当外。意外だっただけさ。――それと、礼を言う必要はないよ。世界の維持に努めるのが精霊術師の使命。空虚の根銷却は僕たちの責務さ」
「素晴らしいお心がけですね」
「当然のことだろう?」
彼は余裕のある笑みを浮かべる。
「で? 僕、こんな殺風景なところに長くいたくないんだけど。いつ部屋に案内してくれるのかな?」
ノエに急かされる形で、宿へと向かう。
シリルは案内役をし、グレッグとジェシーがノエの荷物を運び込む。
どういうわけか、荷物は大量だった。トランクが二十個もある。駅から宿までは荷台を使えたが、三階まで運べるような道具はない。
そのため、二人は階段を何往復もする羽目になっていた。手伝いを申し出たが断られたエウフェミアは、シリルたちと一緒に先に階段を上がった。
精霊術師の少年のために用意されたのはエウフェミアたちが使う階の一番奥。より広い、上客向けの客室だ。
「どうぞ、こちらです」
部屋は一人で過ごすにはもったいないほど広い。
ノエは部屋に入ると、ローブを脱ぎだした。それに気づいたエウフェミアは習慣的にローブを受け取る。それをコードハンガーにかけていると、少年が口を開いた。
「ご苦労だったね。じゃあ、僕は休むから君たちも自由にしてていいよ。仕事の話は現地についてからでいいだろう」
「……かしこまりました」
シリルは一歩踏み出しかけたが、言葉を飲み込むように唇を噛んだ。それを見て、直感的にこのままではよくないと悟る。
エウフェミアは世話役がどういう仕事をするのかよく理解していないが、担当する精霊術師と良い関係を築く必要があるというのはなんとなく分かる。それは商売でも同じだ。以前、アーネストが『良い取引をするには取引相手との信頼関係を構築するのが大事』と言っていた。
ノエとシリルが信頼関係を築けているかといえば、正直なところ上手く行っていないように思う。シリルはノエとコミュニケーションを取りたいようにもみえるが、肝心のノエの方にそのつもりがない。
少し悩んだものの、意を決してエウフェミアはノエに話しかけた。
「――その。よろしければ、お茶でもお淹れしましょうか?」
それまでノエは、シリルの部下の一人でしかないエウフェミアを見ることは一度もしなかった。しかし、その青い瞳がこちらに向く。
エウフェミアは笑顔を作る。
「お疲れなのですよね? ゆっくりおくつろぎいただけるよう、安眠効果のあるハーブティーの用意があります。帝都でも人気の品です。お気に召していただけると思います」
まるでノエのために用意したかの言い回しだが、実際は自分で飲むためにゾーイからもらったものだ。ただし、説明は本当のことだ。そういう話をゾーイがしてくれた。
精霊貴族の一員である少年からしたら、突然使用人が話しかけもしていないのに声をかけたことを不敬と思うかもしれない。そんな恐れはあったが、そんな心配はいらなかった。
「なんだ。ずいぶんと気が利くじゃないか」
ノエは嬉しそうに笑う。その表情は年相応の少年に見えた。
「うん。それじゃあ、お願いしようかな」
「では、ハーブティーを淹れてきます。少々お待ちください」
ジェシーたちが荷物が運び終わるのを待ち、エウフェミアは皆と一緒に客室を出た。扉が閉まり、すぐに小さな声で名前を呼ばれる。
「エフィさん」
官吏の青年の顔を見上げる。こうやってきちんと目を合わしたのは、昨夜以来。どこか気まずそうな表情を浮かべるシリルに、苦笑を返す。
「元々こういったことをする仕事をしていますから、気になさらないでください」
中央駅に向かう途中、シリルはエウフェミアに何かする必要はないと言った。それなのに早速使用人のような仕事をさせてしまったのだ。例え、それがエウフェミア自身が言い出したことであっても気にはしてしまうだろう。実際、表情からも声からも、後ろめたさを感じる。
気にしないでほしいと伝えるために、精一杯の笑顔を作る。
「ええと、そう。仕事をするうえで役割分担は大事――なのですよね? 適材適所、というものだと以前会長が教えてくださいました。ノエ様をサポートできるよう、私もご協力します」
誰にも頼らず、自分ですべてができる万能な人間なんて存在しないだろう。人にはそれぞれ特技や長所があり、それを活かせばいい。そうして互いに補えあえばいいのだ。
「…………ありがとうございます」
沈痛な面持ちで彼が口にした感謝の言葉は、たった一言なのに、これまでで一番人間らしく、真摯な言葉に思えた。




