9 価値観の違い
少しして料理が運ばれてきた。エウフェミアはシリルと談笑しながら食事をする。最初の話題は皇宮から戻った直後のこと。それからどんどん最近の話に近づいてくる。
「機関車の旅はどうでしたか?」
「はい。とても楽しかったです」
その話題に、エウフェミアはついつい前のめりに食いついてしまった。
「あんなに速い乗り物に乗るのははじめてで、風景がどんどん移り変わっていくのが面白かったです。それにとても速いのに、馬車より揺れも少なくて。機関車とはすごい技術ですね」
貴重な体験を思い出しながら言葉に熱をこめると、シリルはクスリと笑った。
「火霊燃料というのは聞いたことがありますか?」
「いいえ。……それは何なのでしょうか?」
聞き覚えのない言葉に、素直に答える。
「火の精霊の力が込められたエネルギー資源のことです。とても効率的に熱を発生させることができるんですよ。貴族以上……いえ、中流階級の一定以上の家庭にはこの燃料を使ったお湯を作る機械が普及しています。皇宮の客室のバスルームはお湯が出たでしょう? それは温水器のおかげなんです。機関車も、それと同じ火霊燃料を使って動いているんですよ」
「それはすごいですね」
エウフェミアはただただ感嘆した。
「ハーシェル商会にはそういったものはありませんでしたか?」
「いいえ、ありません。お風呂は近くの大衆浴場ですませるんですよ」
寮には風呂はなく、お風呂に入るには大衆浴場に行く必要がある。当然、エウフェミアも他の従業員も皆、そこを利用する。しかし、大衆浴場にアーネストが出かけるのを見たことも聞いたこともない。
もしかしたら、事務所のほうにはその火霊燃料を使った温水器があるのかもしれない。キーナンの事務所のバスルームも蛇口をひねるだけでお湯が出たので、本店である事務所にあってもおかしくないだろう。
(今まで、蛇口からお湯が出ることを不思議に思っていなかったけれど、そういうものがあるのね)
思い返してみると、イシャーウッド家の別邸でも火霊燃料が使われていたのだろう。ただ、あそこではお風呂の準備をするのは使用人の仕事だ。彼女たちがどうやってお湯を温めているのかまで考えたことがなかった。ガラノス邸ではお湯に浸かるという風習がなく行水をしていたため、お湯で温まるという習慣に純粋に喜んでいたのを覚えている。
シリルは気遣うように訊ねてくる。
「わざわざ大衆浴場に行くのは大変でしょう」
「いいえ。お散歩代わりにもなって、ちょうどいいですよ。大きいお風呂に入るのは気持ち良いですし、それに近くに住む方とも交流できて楽しいです」
大衆浴場に出かけることを一度だって面倒と感じたことはない。ゾーイやタビサと一緒に浴場へ向かうのも、近所に住む奥方の井戸端会議に混ぜてもらうのも好きだ。
笑顔で答えたが、しばらくシリルは無言だった。その顔から笑みが消え、真剣な面持ちに変わる。そして、唐突に問いかけをしてきた。
「――エフィさんは今よりいい暮らしをしたいと思いませんか?」
その質問の意味をエウフェミアはすぐに理解できなかった。分からないなりに、首を横に振る。
「今も十分いい暮らしをさせてもらっています」
「皇宮に滞在中、客室での生活は過ごしやすかったでしょう? 食事の用意も掃除も洗濯もすべて使用人がやってくれます。ベッドだって、最高級のものでぐっすり眠れたはずです」
投げられる問いにエウフェミアは困惑した。
質問自体はそれほど難しいものではない。しかし、何かがおかしい。だから、うまく答えられない。
「……シリル様は何をおっしゃりたいのですか?」
強い語気で発した問いは、間違いなくエウフェミアの本心だった。まっすぐシリルを見つめると、彼は重々しい口調で告げた。
「はっきり言いましょう。あなたはあんな場所にいるべき人ではない」
――その言葉は、胸の奥を鋭く突き刺した。
「あなたが抱えている事情についてはこれ以上詮索しません。過去のことは関係ない。大事なのはこれから先の未来のことです。自身の置かれた立場に不満はありませんか? 本来あなたは今よりもっと豊かな暮らしを許されている人間です。それなのに、料理や洗濯をして下働きのように働いている。私はそのことが嘆かわしく感じます。あなたはもっと上の立場になるべきです。私なら、そのお手伝いができます」
エウフェミアはようやく気づく。——シリルと自分の間にあるのは、越えられない価値観の違いがあると。
彼は今のエウフェミアの立場を不遇なものだと感じている。確かに公爵子息の彼からすれば、下級階級の人間の生活は貧しいものだろう。富や階級を物事の基準に考えるのならば、もっといい暮らしはいくらでもある。
しかし、エウフェミアの価値観からすれば、豊かな暮らしにそれほど価値を感じない。それよりは心の充足感が重要だ。そのことは、身をもって知っている。
(でも、シリル様はそう考えていない)
その言葉も表情も熱心だ。だからこそ、本人は真剣にエウフェミアを説得しようとしているのが分かる。――例え、その説得内容が的外れなものだとしても。
彼の話す言葉は何一つ自分の心を揺らさない。そして、ようやくエウフェミアは気づいた。
(シリル様の考え方は私とは違う)
皇宮にいたとき、エウフェミアは彼の言葉に共感した。
水の大精霊の力が不安定な結果、いくつもの災害が生まれた。そのせいで人々が苦しむのを嘆き、胸が締めつけられるような思いをしたと彼は言った。
しかし、それは彼の本心からの言葉だったのだろうか。彼は自分も違う物の見方をするのに、自分と同じような感想を抱くのだろうか。ようやく、その疑問を抱いた。
エウフェミアは先ほどの質問に答えず、ずっと聞こうと思っていた問いを口にする。
「……シリル様はどうして今回も私に依頼をしたのですか?」
「私もエフィ様のお力になりたいんですよ」
返ってきたのはとても耳障りのいい答えだった。
「私だけでなく、精霊庁からもあなたの力が認められれば、正式に精霊術師として活動することができます。そうすれば今よりいい生活を送れるようになりますし、なんだったら、新たな精霊爵の爵位を授かることもできるかもしれません」
きっと、エウフェミアが彼の言ういい暮らしに価値を見出す人間であれば、その言葉は胸に響いただろう。
目の前に置かれた皿に視線を落とす。
今日振る舞われているのは豪勢な料理だ。小前菜から始まり、前菜、スープ、魚料理と出されてきた。
味も上品で、普段の食生活からは信じられないほど豪華なものだ。とても美味しいと思うし、作ってくれた料理人には深く感謝している。
それでも、もし選べるなら、エウフェミアはここではなく、寮の食堂でみんなと一緒に食べる素朴な食事を望む。一流シェフが作ったフルコースより、タビサが作ってくれたシチューが食べたい。
エウフェミアは口を開く。気分は妙に落ち着いていた。
「私は、一度だって今の立場を不満に思ったことはありません。シリル様の言う、今よりいい暮らしなら過去にしたことがあります。でも、あの頃は今よりずっとつらかった。……今が一番幸せなんです。私から幸せを奪わないでください」
それは交渉の決裂を意味していた。――エウフェミアは、シリルが与えてくれると約束してくれたものを欲しいと思わない。
シリルはこちらが申し出を断ると思っていなかったのだろう。彼にしては珍しく、ひどく狼狽したように見える。目をさまよわせてから、振り絞るように呟く。
「……あなたの考えが分からない」
——それはきっと、お互い様なのだろう。
エウフェミアは何も答えられず、ただ悲しげに笑うしかできなかった。




